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ハンナ・アーレント「人間の条件」を読む 06.18 「人間は感情に支配されると、政治原理に到達できない」

アイデンティティ

「岩波ホールが閉じてしまうんですよね。岩波ホールの映画で一番売れたのは『ハンナ・アーレント』だったらしいんです」
という先生の言葉から幕開け。

初参加者もいるので、日本人アイデンティティを持つかどうか、というのが本日の先生によるお題で、参加者がそれについて話しながら自己紹介をする。

琵琶を弾いている理由が日本人としてのアイデンティティを模索する過程に関係していたわたしは、それを伝えた。

パラグアイで生まれた、という隣の女性は、日本にいるとパラグアイ人でしょ、と言われ、パラグアイに行くと日本人でしょ、と言われるという。

人に「お前は日本人だ」といわれることで、アイデンティティを問い直す。それはまさにアーレント自身の人生と重なる。ハンナはたまたまユダヤ人で、アイヒマンの国際裁判についての記事をニューヨーカーに連載することになる。

当時、あんなにひどい目にあって辛くも生き延びたユダヤ人を、ちょっとでも悪く言う、というのは許されない風潮だった。そんな中でアーレントは、体制(ナチス)側に加担していたユダヤ人もいたことを書き、批判を浴びまくった。友達からも誰からもそっぽを向かれた。

佐藤先生が映画を授業で紹介するときに「あんな総スカン食ったら大変だよねえ、と言ったら先生の学生たちは、『総スカンと言っても、非難してるのは男ばかりだった』と言うんですよ。女子学生たちはそういう視点であの映画を見ていたんですね。視点が違うとこうなるんだな、と面白かった。」と話す。

私自身、あの映画を観ることができたのは、昨年日芸の学生たちが企画した「ジェンダー映画祭」で、あの映画を完全にジェンダーの文脈で捉えている人たちの尽力によって見ることができたのだったな、と思い出す。

歴史というのは視点によってまったく違う風に捉えられる。

フランス革命以降、ヨーロッパでは自由・平等・友愛というスローガンが掲げられる。宗教的な対立をなしにしようという方向で世の中が動いていたので、いままでさんざん差別されてきたユダヤ人は、イディッシュ語を喋ると嫌がられるからと、ドイツ語を喋ろうとした。ユダヤ人でユダヤ教を本気で信じているひとは、それほど多くなくて、お母さんがユダヤ人だから、ユダヤ人だという理由の人が多い。

ハンナ・アーレントのアイデンティティ

アーレント自身も、いい家に育っていたので、母親はユダヤ人にもかかわらず、それを意識しないで生きてきた。ものごころついて、友達から「お前ユダヤ人だろう」と言われて、それを意識するようになる。アイヒマン論争はそれが起源になっている。

「自分がユダヤ人であろうがそうでなかろうがどっちでもいい」と思っていたのに、自分の周りでユダヤ人の排斥が起きてきた。自分が図書館でユダヤ関係の本を借りた際に逮捕されるに至って、出自についてアーレントは放置することができなくなった。

アイヒマン事件で「あんたは生粋のユダヤ人だし、左翼の娘にもかかわらず、ユダヤ人に対してこんなに愛情のない物言いをして、どういうことなんだ」と批判されるとアーレントは「わたしは、ドイツ人だとも、ユダヤ人だとも思っていない。わたしは集団を愛するということの気持ちはよくわからない。土地や食べ物、自然には愛着をもつことができる。わたしがもし愛する、ということばを使うのは、自分の友人だけだ」と言った。


自分が所属したいと思っている集団に対する同一化をアイデンティティという
先生のアイデンティティの定義


そもそもどんなときにアイデンティティが必要なのか

日本語で「国に帰る」というのは、自分の村に帰る、という意味だった。国という言葉がが日本全体を表すようになったのは明治維新以降。

百済から仏教が伝来する(538年)よりも前に善光寺に仏教が伝来していた

「日本はどうしてこんなに多様な文化があるのか、というのは、百済の王族が三千人くらい7世紀の終わりに、渡って来てるんですね。そのほかにも、政治抗争などに負けたありとあらゆる貴種が流離してきている。それがこの国の文化を作ってるんですよ。」

645年に大化の改新をやり遂げた天智天皇は白村江の戦いでこっぴどく負け(663年)、あいつらやべえぞ、対馬海峡からこっちにくるな、と初めての境界をつくった。日本書記が漢文で書かれているのは、ここからは国があるから、勝手に入ってくれるな、と大陸側に知らせるため。岡山の鬼ヶ島伝説は、天智天皇が唐が攻めてきた時の要衝として作った島なのだ。

そもそも、縄文式時代の日本は、戦争をほとんどしたことがない。縄文人はなんとかうまくやろうぜ、と思ったことは事実。日本はそう言う意味で、本当に長い間、排他的じゃなかった。それはせんじつめれば民族アイデンティティのようなものをあまりもっていないということだ。

そして、アイデンティティという言葉も20世紀の産物。

ふむふむ。日本というアイデンティティをどう思うんだ、と言われると、日本の空間に興味を持つことは自然なことで、何の不思議もないが、国に対して持つかと言われると… そのあたりをごっちゃにしてはいけないのだな。

シモーヌ・ヴェイユの「根を張る」という概念を挙げながら先生は言う。

https://ja.wikipedia.org/wiki/シモーヌ・ヴェイユ_(哲学者)


「人間はなぜ長年付き合ったものに愛着が出るんでしょうね。なじみの空間を作っていくこと自体が愛に変わっていく、それがアイデンティティのもとになるもので、それを奪われることは最大の苦しみですよ」

そして、衝動としての愛についての話をいくつか。アーレントの本を読むと、愛についてはかなり批判的なのだと。アーレントはつねに、友情だけに信頼を置いている。そういえば、確かに映画の中のアーレントも子弟関係にあったハイデッガーとの恋慕のようなものよりも、夫との友愛に満ちた信頼関係を大切にしていたように見えた。

ようやく本題

ここまでで最初の2時間を雑談、脱線しまくり、ようやく本を読み始める。(笑)

今日はここから。

社会的なものの出現

今回読んだ部分をざっくりまとめると、せっかく家父長的な「家族」の束縛から自由になれた近代人を、こんどは「社会」が縛ることになる、という話。

P.64
以前には家族が排除していた活動の可能性を、今度は社会が排除しているというのは決定的である。活動の可能性を排除している代わり、社会は、それぞれの成員にある種の行動を期待し、無数の多様な規則を押しつける。そしてこれらの規則はすべてその成員を「正常化」し、彼らを行動させ、自発的な活動や優れた成果を排除する傾向をもつ。(中略)
P.65
画一主義は社会に固有のものであり、それが生まれたのは、人間関係の主要な様式として、行動(ビヘイヴィア)が活動(アクション)に取って代わったためである。 近代の平等は、このような画一主義にもとづいており、すべての点で古代、とりわけギリシアの都市国家の平等と異なっている。かつて、少数の「平等なる者」に属するということは、自分と同じ同格者の間に生活することが許されるという意味であった。しかし、公的領域そのものにほかならないポリスは、激しい競技精神で満たされていて、どんな人でも、自分を常に他人と区別しなければならず、ユニークな偉業や成績によって、自分が万人の中の最良の者であることを示さなければならなかった。公的領域は個性のために保持されていた。それは人びとが、他人と取り換えることのできない真実の自分を示しうる唯一の場所であった。各人が、司法や防衛や公的問題の管理などの重荷を多かれ少なかれ進んで引き受けていたのは、真実の自分を示すというこのチャンスのためであり、政治体にたいする愛のためであった。
「人間の条件」第二章 公的領域と私的領域


国民国家=経済的繁栄のための全体機構

今までに読んできた部分で語られていたが、家族と国家の真ん中に「社会」が作られたのが18世紀。生存のためのルールを守るべき場所。近代以前は国家と家族しかなかった。村の共同体の仕組みか幕府しかなかった。資本主義は国民国家を基礎にして作られた。この国の財政を大きくするために、国家がバックアップして行う巨大産業を支える国家の仕組みがある。原発、武器をつくるのも国の財政を守るため。実は日本の国家予算の20%が防衛費。

くっそー、文化予算には1%も割かないくせにー!!どこが平和国家じゃ。
Ash心の声

決してマスメディアが言わないこと。それは戦争をすると儲かるということ。

社会の定義

そして、アーレントを読むときの鉄則。知っているはずの言葉でも、常にアーレントの定義ではどういうことかを確認しながら読まなければいけない。(笑)

「社会」についても、「人間の条件」の以前読んだ場所に書いてあった。

(P.49 )しかし厳密にいうと、私的でもなく、公的なものでもない社会的領域の出現は比較的新しい現象であって、その起源は近代の出現と時をおなじくし、その政治形態は国民国家に見られる。
ハンナ・アーレント「人間の条件」

家計でも、お金を握っている人がいる。この構造を国家レベルに広げたものが社会である。
群馬の富岡製糸工場は、1871年にフランスで蚕が壊滅的な打撃を受けた、これで海外に対抗していける、と富岡にフランスの技術者と名家の娘たちを呼んで、国家的プロジェクトとしてバックアップした。インフラの整備も国家がおこなった。国家が産業に介入するモデルケースである。

日本の国債を買っているのはほとんどが日本企業。だから日本の国庫は多少の赤字になっても平気。持ちつ持たれつの関係。でも、国家財政をどう運営するか、ということで我々の生活はがんじがらめになっている。

ふーむ。つまり「社会」も結局お金を回すためのシステムってことね?

均質化について

画一化、というところから参加者が色々と声を上げる。
化粧についての圧力から自由になれるかどうか。普通であることへの強制力、同調圧力とは?などなど。

どの国も言論に関して完全に自由な国というのはない。

普遍について

本当の公平性は「不偏」である、というのがアーレントの言だと先生は言う。

世界疎外

この世界を作っているのは私たちの営みだ、ということに興味がなく、自分たちのもうけのことだけしか考えていないこと。当たり前だと思って消費者感覚になること。世界を選択する、それが近代の根本原因。

コロンビアのひどい状態がやんだ理由は、左派のグループが武力闘争をやめたので、治安が良くなったから。しかしコロンビアも両極化している。自分たちが構成者だという意識がない。だから独裁者がのさばる。

1939年くらいまではナチスの勢いはすごかった。
今回のウクライナにも関わってくる話だが、先の戦争でナチスはロシア人を2千万人殺した。ロシア人の被害感情はそこからきている。

プーチンとヒットラーの共通点
「自分たちはいま、ひどい目に遭っている」という感覚。
佐藤先生

今起きている戦争について

92年にソ連が崩壊したときに、かつて社会主義国と言われた国々をNATOにいれない、ということを約束したのに、みんなが引き入れられてしまった。ウクライナをはじめとする国々については、非武装中立でいきましょうと言われたとプーチンはいう。NATOはそれに対し「私たちはAssureはするけど、Garanteeはしない」(=攻め込まないけど、あなたが攻められたときには無視します)。こんなことでは非武装中立地帯、という概念は成り立たなくなった。NATOとNATOの間の国がなくなってしまう。

フランス革命は、貴族への恨み辛みが成し遂げた革命だった。怨念や個人的恨みというのは個人の感情としては避けられない。でもそれを政治の原理にしちゃったらダメよ、とアーレントは言っている。

「感情及び心は、政治原理としては採らない」
ハンナ・アーレント


今日はここまで。

参加者のOさんが本日傘寿のお誕生日ということで、終了後みんなでお祝いしました。月に1度の開催とはいえ、1年も一緒にいると顔を合わす仲間も、少しずつ気心と地域について考えていることが解るようになってきて、これがまさしくアーレントのいう「政治」なんだ、と思うこの頃。

Oさん、おめでとうございます♪ 佐藤先生の笑顔も素敵すぎる


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