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ひとりになりたい気持ちと折り合う/Loneliness is not Solitude 「続・続 ハンナ・アーレントを読む」

今日は県外での仕事がキャンセルになってしまったので、諦めていた「あれ」に参加することができました。

あれ?

はい、あれです!

「ハンナ・アーレントを読む」読書会、第6回!(私の参加は3回目)

ご近所の精養軒での開催です♪

2回目のレポ(というかただのメモですすみません 汗)はこちら

佐藤先生の脱線雑学が深すぎる

今日も先生は絶好調で、こんな話から始まりました。
「僕は子どもがそれぞれ6歳離れて3人居るんですが…」

へえ…

「これがどういうことかわかりますか?小学校の運動会だけで18回行くんですよ

ブフッ:.(:.´艸`:.).:∵

またもやガッツリ掴まれてしまった、もう少しでコーヒー噴くところでした。佐藤先生ほんと面白すぎる…(涙目

で、

「家族がいて幸せではあるにも関わらず、ひとりになりたいという気持ちが訪れる。それを若い時の自分は悪いことなのかと悩んだ」

古今の本を紐解き、それはエゴイストではない。ありうべきことなのだと気づいてようやく先生は安心したのだとか。

そんな雑談から、本日も始まりました。

今日は一体どのくらい進むのでしょう?

ヴァージニア・ウルフいわく「女が本当に自立するためには、生活に困らないお金と、鍵のかかる部屋を持つべき」



ポリスと家族(『人間の条件』P.49)

本日は、このあたりから続きを読んでいきます。

政治的領域と社会的領域とを同一視するという誤解は、たしかに、ギリシア語をラテン語に翻訳し、それをローマ・キリスト教思想に取り入れたときからすでに始まっている。しかし、社会という言葉の近代的使用法と近代的理解になると、事態はいっそう混乱している。生活の私的領域と公的領域の間に区別は、家族の領域と政治的領域の区別に対応しており、それはもともと、少なくとも古代の都市国家の勃興以来、異なった別の実体として存在してきた。しかし、厳密にいうと、私的なものでもなく公的なものでもない社会的領域の出現は、比較的新しい現象であって、その起源は近代の出現と時を同じくし、その政治形態は国民国家にみられる。

アーレントの言葉の中でもっとも難しいのは「社会」という言葉である。ポイントは、国民国家の中の何が「国民」を「国民」たらしめているのか

公的領域と私的領域、ポリスの領域と家族の領域、そして共通世界に関わる活動力と生命の維持に関わる活動力、これらそれぞれふたつのものの間の決定的な区別は、古代の政治思想がすべての自明の公理としていた区別である。ところで、この文脈で私たちにとって重要なのは、その後の実態の発展のために、このような区別を理解しようとしても、それが以上に困難だということである。私たちの理解では、この境界線はまったく曖昧になってしまっている。それは、私たちが、人間の集合体や政治的共同体というのは、結局のところ、巨大な民族大の家族によって日々の問題を解決するある種の家族にすぎないと考えているからである。このような事態の変化に即応する科学的思考は、もはや政治科学ではなく「国民経済(ナショナル・エコノミー)」あるいは「社会経済(ソーシャル・エコノミー)」Volkswirtschaftであって、それらはいずれも一種の「集団的家計(コレクティブ・ハウスキーピング)」を意味している。すなわち、家族の集団が経済的に組織されて、一つの超人間的家族の模写となっているものこそ、私たちが「社会」と呼んでいるものであり、その政治的な組織的形態が「国民」と呼ばれているのである。したがって、この問題を古代の思想によって考えれば「政治経済(ポリティカル・エコノミー)」という用語は形容矛盾であるけれども、私たちにとっては、それが形容矛盾であるとは考えられない。古代の思想にとってそれが形容矛盾だというのは、「経済的」なもの、すなわち個体の生命と種の生存に関わるものはすべて、定義上、非政治的な家族問題だったからである。

経済とは、生物として人間が生き延びていくのに必要なものを指すので、昔は自分のうちの中(家計)で99%間に合っていたもの。

ミルダー「世界中がスウェーデンのように高度発達資本主義国=福祉国家になってくれたら、成し遂げられる」

ミシェル・フーコー「社会福祉政策の結果が、全体主義への危険性を含んでいるのではなく、国民がきちんと生活を保障されること希望する→全体主義を支持するようになる(ナチスの政策もこれであった)」

あ、そうか、社会保障を求める人の心が、全体主義を唱える強硬政治を生むのね。

昭和30年くらいまでは、田舎ではお金を使うのはお正月とお盆だけ。近所では常に「つけ」。蚕で一年に2回くらいお金が入るとそれで一気にお金を払う。都会では貨幣経済に慣れていたけれど、国民の七割は上記のようなお金を使わない生活をしていた。

政府が財政基盤を持っていて、それが我々の生活に決定的な影響を及ぼす。今でも農家の人が本気で働かなければいけないのは、子供を大学へやるときだけ。農業だけなら100万〜200万の世界。賃金労働は資本主義の発展力によって決まっている。我々が生活している部分の大部分は国家財政に握られている。国家が家計の基盤を作っていて、そこに生きている人々を国民国家の人という

でてきました、国民国家!

人間は政治的動物(ポリスに生きることが人間的証なのである)By:アリストテレス。近代以前の人たちは アダムスミス「国の富を得ることは人間の幸せの一番である」「暇人のてなぐさみ」と意識するギャップはどこで生まれるのか。暇がないと自由なことはできない。

労働をしていると豊かさができて、それが自由につながる(マルクス)
労働をしている人間は常にあと20%アップすることを考える(アーレント)

富を増やすことと人間がひまをもって自由にすることの関係が問われる。富を増やすことと芸術文化を発展させることの間には直接の因果関係がない。労働で生きることの意味を探る。

国民国家と社会経済国家の違いを正確に理解することが必要

「国民国家」は今日国家というものを考えるキーワード。ヨーロッパで30年戦争をしていたときには、各地域の封建領主がきまぐれで戦争していた。そのあと、ウェストファリア条約ができて、世界中が「国民国家」に組織され直した。これはどういうことかというと「One nation, One language, One state」で定義される( 本当はいろいろな言葉を持っている人の集まり。)

日本でも9世紀の終わりに統一国家ができて、民族や言葉の違いをわからなくしてしまった。人間は悲しいかな民族が違うと思うと、それをタネに人を差別したりする生き物。日本は、民族が統一されていると思い込むことで、一致できる仕組みを作った。

代替勢力によって何かが奪われている、と思うように訓練されてしまっている経済危機に陥るとすぐに外側に敵を作る、近代国民国家は内部での内乱は起きにくいけれども、外部と戦争しやすい。

つまり、国民国家はとっても根深い思想なんですね。この言葉を理解すればアーレントがよくわかるようになる、と先生はいいます。

近代国民国家は危険

アーレントは「近代国民国家」を危険と位置付ける。それは対外的な敵を作りやすいからにほかならない。

「痴愚神礼賛」「平和の訴え」By: デジデリウス・エラスムス(Desiderius Erasmus Roterodamus, 1466年10月27日 - 1536年7月12日)
オクタヴィア・ファス
カール・シュミット 

日本で対外的な敵という概念をしっかり根付かせたのは本居宣長 (国学を進めるなかで)。

決闘という考え方がなくなって皆殺しになったのは第一次世界大戦から、と先生は言っていた。なるほど、だから「大戦」なんだな?

国民はどうするべきか

自分たちがじぶんたちで繋がり、国に丸投げしない仕組みを作っていかなければならない。これはナショナルエコノミーではない、次の段階へ、有無を言わさず移行していかなければいけない。国家に全て頼って豊かな社会を作っていこうという視点ではなく。(現在は、事実として国家丸投げしている状態。)

日本は制度的にも、上が全部決める構造になっている?

意味のない人生?

意味はどこに生まれるか?横のつながりから生まれてくる。横のつながりがなくなると、お国のために命を捧げるという縦軸の意味しか生まれなくなる。文化は自然発生的には生まれない、本来の意味での民度とはそういうものである。


だいたい、この辺りまで来ると毎回参加者からの雑談がざーっと入ってきて、先生も脱線しまくって、わたしも全てを追えなくなってきます(笑)


社会主義理論が間違っている理由は「こうすればうまくいく」ということは言えないから、という先生の言葉と、アーレントの一番有名な思想は「人間は初めるために作られた」、いうところでTime Upになりました。

というわけで、今日のポイントは「国民国家」。次回は社会主義理論がなぜ間違っているのか、というところに話がいきそうです。


次回は9月20日(祝)!

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