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ハンナ・アーレント『人間の条件』を読む 特別会 映画「ハンナ・アーレント」を観て 2022/08/21

こちらはハンナ・アーレントの『人間の条件』を読み、哲学対話をする会の記録です。

本日は、映画『ハンナ・アーレント』を観た方々が先生に疑問をぶつけたり、質問したりする形で開催されました。

みんなが話す前に先生が話したのはこんなこと。

ハンナ・アーレントはアメリカで最初に女性で教授になった人(今の言葉でいうと、特任教授)、本人は教授なんか嫌だと思っていたんですが。映画でも出てきたニュースクールというのはどういう場所かというと、NYの中心にあった芸術系のスクール。その時代のニューヨークというのは一番、亡命してきたユダヤ人が多かったエリア。ドイツから流れてきたユダヤ人の子どもたちが受講していた。

佐藤先生

Aさん「アイヒマンは平凡な男。命令されたことを何も考えずにやると、どんなことでもやれてしまう、ということに関連した実験をテレビで観たことがある。そのスタンフォード監獄実験のことを思い出した。」

Bさん「前回先生に勧められた『ガリツィアのユダヤ人』を読んでからこの映画を観たら、以前に観たときとの印象と全然違った。ユダヤ人がどれだけ抑圧されて生き延びてきたのか、ということを知ってから観たら、様々な場面でユダヤ人は生き延びるためにいろいろなことをしなければならなかったのではないか、という視点で観た。別視点で、とはいえホロコーストの当事者たる人たちの悲劇があるが、当事者性を越えたところで話し合うにはどうしたらいいのか、と考えながら観た。」

Cさん「最初に思ったのは、被害を受けたという立場はすぐに受け入れるが、自分が加害者の立場、ということを受け容れるのは難しい。それに大してヒステリックに騒ぐのは男性の方が多いのかな、と思った。」

Dさん「この映画は、時代性もあるが、ハンナとご主人の愛の物語でもあった。人間が考える度合い『あなたが考えるより高尚なことを言っている』というセリフがあった。私たちが体験して、善悪に対する思いは立ち位置がないと言えない。高い位置から見て生きる、ということを理解したくても、できない。アーレントはそういう視点をもってアイヒマンを観た結果、あのような言動になったわけで、同時代の人から観たものと、後世からみるとその価値観は違う。」

Eさん「何が尊いか、ということについて考えたとき、やっぱり私は『人間であるがゆえに』ということにグッときました。」

Fさん「日本とかぶるなあ、日本も出征のときに万歳三唱をして送り出した。満州に入植させた村の村長さんが自殺した話も聞いた。生還が恥、ということなんかも映画の中でも同じ言葉が使われていて、全体主義の中でそういうことが起きる恐ろしさは、ヨーロッパでも日本でも同じ。今のコロナの状態も同じ。」

このあたりで、ハンナ・アーレントを取り巻く人々について、先生から解説が入る。


クルトはイスラエルでハンナが会いに行った人。十代の前半まではハンナは自分がユダヤ人だと知らないで育った。アーレントがハイデガーの講義を聞き始めた頃から、反ユダヤ主義が強くなり始めた。それまではユダヤ人ということを意識しないで生きてこられたアーレントだったが、それが人ごととして流せないことで、自分の問題として引き受けなければいけない、ということをを認識させてくれた恩師。ユダヤ人であれば、ユダヤ人を愛さなければいけない、というのは彼女には理解できない感情であった。(この感情は先生も同じだという。)
ヤスパースは、ドイツ人をドイツ人だから愛するという理論を持った人で、ハンナ・アーレントに批判されるが、しっかりとそれに付き合って話を聞いた人。独創性には欠けるが、という先生の評。
ハイリッヒ・ブリュッヒャー(アーレントの旦那)は、共産党で活動していた高卒の活動家で、社会科学の問題について、アーレントは夫から全て学んだ。彼は一冊の本も書いていない。アーレントの「全体主義の起源」は半分以上ブリュッヒャーが言ったことをそのまま書いていると思われる。
ハンス・ヨナスは完全にユダヤ人の立場に立っている思想家。

ヤスパース

ローザ・ルクセンブルグ

Gさん「ハンナ・アーレントの映画のDVDを買って、なかなか観ることができなかった。民族性によって、戦争の禍根をうやむやにするか、詳にするか、という違いがあるような気がした。」

ここでまた先生からユダヤ人と「国家」についての解説が入る。

ユダヤ民族の問題を理解する上で、一番難しい問題は、シオニズムの問題。近代国家の基礎理念はひとつの言語でひとつの民族を持つ人たちはひとつの国を作る権利がある、ということ。それがいまのウクライナの問題にもつながっている。ウクライナ人というアイデンティティそのものが、とても最近のもので、彼らのアイデンティティはどちらかというとクルド人。ウクライナという国は、ウクライナ人、ロシア人、タタール人、ユダヤ人、などで 
近代国家の一番の問題はフランス、日本の価値観で「国家」を語っていること。フランスだってもともといろいろな言葉があったのに、フランス革命でひとつの言葉以外を話すことを禁じられた。例えばユーゴは国が認めている少数民族だけで35カ国、ここに近代国家の理論はあてはまらない。ひとつの国を作ることとは必ず少数者の排除に結びつく。
ユダヤ人が2000年に渡って苦労してきたのは、国がないからである、として、ユダヤ人がユダヤ人の国を作らなければいけない、というのがシオニズムという運動。しかし、形をなくせば差別がなくなる、ということではない。シオニズムによって作られたイスラエル・パレスチナは、めちゃめちゃ全体主義、特権階級の国になった。
ハンナ・アーレントは「多様性」を否定して「複数性」という言葉を使った。全然違う人たちが、努力しながら一生にいること。
アーレントの思想を知ろうとする時に大切なことは「理解すること」。それは許すこと、賛成することとは何の関係もない。利害で同意することに対して非常に批判的である。

佐藤先生

ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」を読むと、金儲けに熱中する人たちは汚い人たちだ、という考え方はヨーロッパでは伝統的に根付いていた。近代国家が生まれる時に、金を工面したのがユダヤ人だった。大金持ちが一方にいて、非常に優秀な学者たちがいる一方で、非常に貧しいユダヤ人たちがいる。我々は2千年にわたって差別されてきたんだから、いまは優遇されるべき、と考えるユダヤ人がいることも確かだが、ほとんどのユダヤ人は社会的にアウトサイダーで、狭いところに閉じ込められてギリギリの生活をしている。
例えば、ポーランドの王様が土地の耕作権をユダヤ人にゆだね、ウクライナ人に耕作させた、という経緯があり、ユダヤ人に恨みを持つ人も多かった。ソ連がそこを占領した時、ナチスが近づいてきた時にナチスと協力してユダヤ人を虐殺した。その時のリーダーがウクライナ人のある集団のリーダーにいるので、ロシアから見ると、ウクライナのその集団は「ナチスだ」ということになる。

佐藤先生

絶対主義の時代、(封建領主たちが金をもらって自分たちの国を作っていく過程)ユダヤ人が金を貸してくれたので、それを雇って地位を保証した。そのときに本格的な憎悪が強まったわけではなく、多数の人たちが労働をして、労働の対価としてお金をもらうことが普通になった頃から、その憎悪が募っていった。社会が賃労働を前提にするようになったときに、あいつら働かずにもうけやがって、という感じで憎むようになった。

Hさん「アーレントの映画を俳優として観ると、夫との性愛的な部分についても描かなければいけないんだなあ、ということなどを思いながら見た。」


シャルロッテとハイリッヒのことを描いているのも、夫婦の性愛については深追いしない、というアーレントの姿勢を描いている。ギュンター・アンダースとの関係は、単なる恋愛。いい人だとおもうことと、性愛感情が区別できるかということは、難しい。ハンナ・アーレントは女性とも関係があったと言われるくらい。人間はその人のことを本当に尊敬していたら触れ合いたくなるものでしょう。とことんまで深く議論できる相手がみつかる、というのは、嬉しいものだと思う。ハイデッガーはそうだと思っていたのに、どうしてそんなにナチス礼賛者になってしまったのかを理解したくて、この研究をしていたのだと思う。

佐藤先生

Iさん「『人間の条件』が出たのとどちらが先か。」

1939年にアメリカに初めてアーレントが行った時には、「パラダイス」だと思ったという。人を人種で差別することがない、と感じた。これはNYが特殊だったと言える。日米開戦があったときに、収容所に日本人が収容されたとき、講義のデモが起きたことに対して、感動していた。その後、マッカーシー旋風があって、いろいろな芸術家が共産党との関係を疑われて地位を追われ、そんなことはなかった。
アーレントが「全体主義の起源」を出すまでは、この言葉はなかった。さらに、政治学者だと思われていたアーレントが「人間の条件」を出した時には、みんなびっくりした。この本のなかで書かれている「活動」について人々が議論するようになったのは1980年代。彼女の言葉は抽象的に感じられるが、どうして全体主義ということが起こるか、そこに思考がどう絡むのか、ということを希求したのがアーレントだった。「考える」ということが、現実の生活とどのように絡むのかということを常に研究している。アイヒマン論争も、「考えない」人についての議論。すでにその時には、現代の人たちが「考えない」という傾向を持っていることに気がついていた。

佐藤先生

人間の条件は出ていたけれど、誰も読んでいなかったんですね。

ギリシャ語で存在という概念を書いた時に、その言葉を知らないなら、勉強しなさい、とアーレントが言い放ったセリフが心に残っている。アーレントはとにかく勉強家だった。緻密に5000ページの本を読み解いて調べることもできるし、壮大な理論構築のどちらもできる。
私は1985年に東ドイツに行く機会があった。労働者、民衆の国という建前でできた国だった。東ドイツの労働者の方がどんな考えを持っているか、知りたいと尋ねると「ごめんなさい、わたしあまり労働者にあったことがないの」と言われた経験がある。NYの地下鉄には労働者しかいない。どちらも階級社会。
日本はすぐ隣に大知識人、大金持ちがいる世界。

佐藤先生

日本という国に愛着を持っている、という考え方は、全体主義と結びつきやすい。アメリカの社会はもともと連邦共和国で全体主義とは遠かったはずなのに、現在は全体主義に近づきつつある。スペインでカタルーニャが独立するなど、世界中が独裁者的で、強く国を運営する人に期待が集まってしまっている。ドイツに関して深刻なのは、かつてドイツがヒットラーに熱中していたこと。一年も経たずに失業者を無くしてしまった。

佐藤先生

Jさん「1:普遍的な善はあるのか? 根源的なのは? 普遍的な善は問い続けること、それに答えていくこと、辿れること」
「2:アイヒマンが思考停止による悪だったとしたら、アーレントはヒットラーに関しての悪をどう考えていたのか?」 
「3:人間が行う1番の悪は利己心から来るのではなく、人間を無用の存在にすることなのである、というセリフがあった。僕の感想としては、官僚制に対する批判なのかな、と思った。」
「4:ラストシーンでアーレントの演説を若者が拍手していたことは世代間の問題だろうか」
「5:アーレントの
土地を介すれば、生まれ育った場所への愛着を持つことはできる、という論理は成り立つのではないか、と感じた」

これまで一緒に「人間の条件」を読んできたひとはみんな知っていると思うけれど、アーレントは、現代の一番深刻な問題は「官僚支配」だと言っている。ある巨大な組織を運営しようと思ったら官僚にあたる人が必要になる。問題は、主人公が誰かという問題意識を持っているか、ということ。私が今住んでいる自治体は、上から「こうですよ」と指導が来る。お前らは俺たちのいうことを聞いていれば、豊かに暮らせるんだよ、という運営の仕方では、街は街たり得ない。文化というものの力はそこにある。自分たちの住んでいる自治体で、どういうことがしたいですか、やりたいことがあるならバックアップしますよ、という考え方が始まった。

佐藤先生

「90年代の終わりくらいから、特に途上国支援の現場では受益者はだれか、ということを意識しながら、開発をするのが主流になった。」

インドは、税金を払っているのは上流の2%だけ。NGO、NPOへの取り組みは日本は遅かった。アーレントがこの本の中に書いているのは、自分たちの地域を自分たちで作る、という営みを通して初めて、土地への愛着が生まれる。自分が無用な存在だと思わされている人たちが犯罪を犯すようになっている。今の世の中は、頭の良くないやつは要らない、仕事が出来ない奴はいらない、という無用感。社会が事実上そういう人たちを生み出す仕組みを作っている。

悪と善については、宗教の起源、根源としてもっとも信憑性があるのが、ゾロアスター教なのだが、この世の中になぜ神があるか、ということは善の問題と結びついている。悪なんてものは本当にはないのだ、という議論と、根源悪というものが本当にあるのだ、という議論があり、アーレントはこれについてとてもよく考えた。カントのようにアーレントが尊敬していた人たちも、根元悪について議論していた。根源悪は、全体の利益よりも自分個人の利益を優先させてしまう、ということだとされる。若い質問者さんに聞きたいのは、あなたはいいことをしたいと思っていますか?「僕は中高生の頃、確実に善でいたいとおもっていた。道徳の教科書に載っているような善を行うことが、本当にいいことなのか悩んだ。普遍的な善とはなにか、という問いにいまぶつかっている」
それは、アーレントの論についての一番深い部分。共通善なんて信用できない、と書いている。自分の中で葛藤して、いいことをしたいという思いについて、考えつづける必要がある。他の人に押し付けるのは悪になる。外の世界に示さない自分の心の中の葛藤で善を定義した。この話は根本問題。アーレントの思想の中核である。矛盾立、AはAであって、Aではない、という議論は矛盾するが、人間は前はこう思っていたけれど、次は別のことを正しいと思う、というのはある。自分は必死で矛盾していないようにしようと思うけれども、結果的に社会の中で矛盾しているということはいっぱいある。首尾一貫していることがいい、という考え方はもっていない。(自分の心の中で首尾一貫はしているべき。)
(「矛盾によって人の魂が磨かれる、という考え方がある」と別の参加者が言うと、)

J「では、どうやって自分の意見が正しいと言うことを、人に納得させることができるんでしょうか」

社会の法律が何か、自分の周りの雰囲気を壊さないこと、ウクライナで不当だと思っているのは、ゼレンスキーが国民に戦争をやめることを許さないこと。一人の人が自分の意見を主張して、ひとりひとりが、言うことが大事。自分の頃は、間違っていると思うことは言っていい風潮だった。私が大切にしているのは、私が発言することが人を傷つけてしまったら、猛烈に反省する、という姿勢を持ち続けること。人を傷つけないためにひとことも発言しない、というのは間違い。

佐藤先生


Kさん「以前、この映画をジェンダーギャップ映画祭というイベントで観た。フェミニズム論の点から語られていることがとても不思議だった。ハイデッガーとの関係について、もう少し描かれるのかと思っていたが、そんなこともなく、そもそもアーレント自身、女性であるというアイデンティティはあまり持っていないように思う。」

アーレントは、女性差別の問題は、政治的に女性が差別されているからルール化することで近代の仕組み全体を変えればいい、というような簡単な問題ではない、と言っている。

佐藤先生

Lさんは、退出時間が迫っていたので、みんなの意見をグラレコというか、自分流に絵でまとめていたものを見せてくれた。(これ、けっこう深くまとまっていた気がするのだが、御本人の解説をいまひとつきちんとフォローできなかったので、本人によるまとめを楽しみに)


Mさん「権威主義的な国の方が今は勢いがある。アメリカでも調査によると六割くらいの人が内戦が起きるかもしれないと思っている。
日本はなんとなく同一性のなかでまとまり、治安も良く、それが悪くないのかな、と思ったりするのですが、どうなんでしょうか」

なかなか面白い発言だと思います。わたしが一番気に入らないのは、学校教育が、自分の意見をいうことを推進しないこと。意見をいわないことが社会を良くする、というような風潮は、口をつぐむある一定の人たちを生み出す。意見をいわない、という感覚は、全体主義につながっていく。

佐藤先生

「蓋をしていたままのほうが、いい可能性があるんじゃないのか、と思うことがある。思考しないでいいのではないか、と思ってしまうことがある。移民問題にしても、本当に移民がきたら、思考しないできた人間は、大丈夫なの?と思ってしまう。」

という、ドキっとするような意見も。

川崎市に移民がどのくらいいるのか?統計上の人数と、実際にはかなりギャップがあると思う。ヒットラーの支持が33年から44年くらいまで、10年間くらい絶対的な支持だったこと、一番下の人たちが虐げられていることに対して、全員で目を瞑った。

そして、Nさんは時間を気にして「アーレントの映画をフェミニズムで捉える考え方もあるのだな、とか、善だと思って一緒にやっている活動にも4つか5つくらいの相反する意見がある」という深い話をしていました。

最後に、オブザーバー的に参加していた市の職員Oさんが言った言葉がこれ。

こういう会話の場があることが大切、市民の一員としてワクワクしました。

文化局の人

実際にはもっと含蓄がある言葉なんですよ。
(字面にしてしまうとこんな感じになってしまうのがもったいないなあ。)
行政職員のかたは、ぜひこうやって自分の言葉が拾われることを意識して喋ってくれると、広くいろいろな方に言葉が届くようになるんじゃないかと思います。まあ、余計なことを口走って言質をとられるより、ましなのかもしれないですが、それこそ上で先生が言っていたことにつながってきますよね。

自由に発言できる機会こそが、人間の尊厳なのではないか、それが、ハンナ・アーレントも核心にしている「人間の条件」なのでは?
と、軽く緒らしきものを掴んだところで、本日タイムアップです!

おつかれさまでした!


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