ビジネスメンター帰蝶の戦国記⑤

あらすじ 
 主人公・濃姫(胡蝶)がメンター、織田信長がメンティとなり、壁打ちしながら戦略を組み立てる戦国ライトノベル。歴史を楽しみながらビジネス戦略の基礎知識に触れる事ができます。
 第2章・ビジネスメンター帰蝶は、濃姫『胡蝶』の生まれ、名前の由来、に始まり、信長に輿入れするまでを描きます。胡蝶の子供時代、道三流にて、時代背景と商売の基本を、斎藤道三から叩き込まれます。
 (パワハラではありません。顔が怖いだけで、この道三は子煩悩です)
 この章では信長は最後に少し顔を出すだけで、お休みです。


第2章 ビジネスメンター帰蝶
  ~道三のスパルタ教育~

第3節 地位は信頼の上に築かれる・時代背景

「胡蝶!胡蝶はおるか!」
「はい。ここに居ます」
 父・斎藤道三が胡蝶の部屋に押しかけてきた。横にはもう一人、女の子が立っていた。
熙子ひろこ、挨拶せい!」
「熙子と申します。以後、お見知りおきを」
 熙子は1530年生まれで、胡蝶より5才上である。生家の妻木家は、清和源氏土岐氏の流れをくむ名門である。この時既に、熙子は美しく聡明な娘として名前が知られていた。
 道三は、胡蝶と話が合いそうな、年齢の近い娘を探しており、熙子の話を聞いて、胡蝶に引き合わせたのである。
 胡蝶は年上の熙子を見上げた。
「胡蝶です。よろしくお願いします」
  (きれいな人)
 胡蝶は見惚れた。
 だが一方で胡蝶には、年齢の近い娘と仲良くなれるか少し不安があった。『胡蝶の夢』を見て以来、やや大人びた言動が目立ち、周囲をびっくりさせていたのだ。国主の娘という立場を理解し、多少周囲に気を使うようになっていた。しかし、却ってそれが、周囲の者を一歩引かせてしまうようになっていたのだ。当然、胡蝶もそんな周囲の反応を感じ取っていた。
 そんな噂話も道三の耳に入っていた。胡蝶が孤立するのを気遣ったのだ。
  (本当に8才?それにしては雰囲気が大人びている)
 熙子は胡蝶の第一印象としてそう思った。

「のう、胡蝶。皆は何故、わしの言う事に従うと思う?」
 いきなり道三は胡蝶に問いかけた。いつもの壁打ちが唐突に始まった。
「父上だからでは?」
 道三は笑う。親子の会話ではあるが、なんだか内容が重い。それなのに軽い感じに話す二人に熙子は驚きを隠せなかった。
「まぁ、間違ってはおらん。だが、わしは他の者と何が違うのか?」
「国主でしょう?」
「うむ。だが、わしは、前の国主の土岐頼芸めを追い出したぞ。その時まで奴が国主で、わしは家臣だった」
 胡蝶は困ってしまった。
 一方、熙子はドキドキしていた。そんなきわどい話をするとは思っていなかったからだ。
「分かりません」
「そうか?じゃあ、何故、わしは前の国主を追い出したのだ」
「父上は、前の国主は使えないとおっしゃってました」
  (えぇっ!そんな話聞かせないでよ1)
 熙子は内心泣きそうになっていた。時が時なら、外で聞かれたら無礼討ちされそうな話である。
「確かに言っておったな。では、『使えない』とはどういう意味かな。使えない者が上に立つとどうなる?」
「国が乱れる?」
 それっぽい言葉を絞り出したものの、胡蝶には具体的なイメージが無いので、疑問形だ。
 助けを求めるように熙子を見るが、熙子は凍り付いたまま動かない。道三は一瞬、熙子に目をやって、また胡蝶を見た。
「そうじゃ。何故、国が乱れる?」
「民の事を考えないから」
「民の事を考えないと何故国が乱れる?」
「民が一揆を起こすから」
「民が一揆を起こすとどうなる?」
「田畑が荒れます。けが人や死人が出ます」
「胡蝶は昨日、飯を食ったな?」
「はい」
「その飯は誰が用意した?材料はどこから来た?」
「・・・えっと、民です」
「民が一揆を起こすとどうなる」
「飯が食べられなくなります」
「それだけではないぞ」
 道三は続ける。
「日ノ本のあちこちで戦が起きているのは知っておるな」
「はい」
「国が乱れると、他の国が攻めてくる。支配されてしまうのだ」
「守るには兵が要りますね」
「そうじゃ、国が乱れると兵を集めることができん。国を正しく治める事ができないと戦に負ける。戦に負けると住む場所を奪われる。命を取られる」
「殺されるのですか?」
「戦とは、兵と兵が殺し合うものだ。相手が悪ければ、女子供も殺される。ましてや、その国で名前を知られるような立場におれば逃げる事はできん」
「前の国主様ではダメだったのでしょうか?」
「わしはそう判断した。このままでは隣国の武田が攻めてきたら守れない。家族が殺されると思った。わしが指揮をとる方がマシじゃ」
「そうなのですね」
 胡蝶は妙に納得した。
「熙子、ついてきておるか?」
「・・・はい」
 消え入りそうな小さな声で熙子は答えた。
「怖いか?」
「少し・・・緊張しています」
 相手は国主とその娘。自分の立場は十分に理解している。13才の娘は言葉を選びながら答えた。
「ならば良し」
 道三は、熙子に問いかけようとして止めた。まだ、頭が回っていないと判断したのだ。実際には単に怯えていたのだが。
 そして、胡蝶に向きなおった。
「それで、何故、皆はわしに従うのじゃ?」
 道三は改めて尋ねた。そして質問が加速する。
「正しく国を治める事ができるから?」
「国を治めるとは?」
「民が幸せに暮らせるようにする事」
「民だけで良いのか?」
「兵、家臣もです」
「そうだな。民から年貢を取り、それが兵や家臣、わしらの飯となる」
「はい」
「兵や家臣にたくさん米を配分したら喜ぶな」
「はい」
「なら、民からいっぱい年貢を取らないといけないな」
「はい」
「いっぱい年貢を取ったら、民は喜ぶな」
「はっ、いいえ」
 道三のテンポの良い問いかけに、胡蝶は『はい』を連呼したので、思わず『はい』と言いかけて、『いいえ』と言い直した。
「兵や家臣は幸せなのだろう?」
「でも民は困ります。食べるものがなくなります。腹をすかせれば一揆になります」
 それを聞くと、道三は一息ついた。
「そうじゃ。あちらを立てれば、こちらが立たぬ。それを上手く調整するのが、上に立つものの仕事じゃ」
「前の国主様はそれができなかったと?」
「そういうことじゃ」
「父上はそれができると?」
「できるかどうかではない、皆ができると信じておる。それが信頼というものじゃ」
 ここにきて熙子は、ようやく落ち着きを取り戻した。熙子の父、妻木範熙も家臣の立場から似たような事を言っていたからだ。それを察した道三が、熙子に話を振る。
「熙子よ。どう思う。思うように言ってみよ。ここでは無礼講じゃ。胡蝶の友を糾弾したりせぬ」
 身の安全を保証されると同時に、熙子は、道三から胡蝶の友達と認定されていて少し安心した。
「ありがとうございます。国主様の言われる事、良く分かります」
 道三は熙子の言葉にご満悦である。しかし、先ほど「はい」を言わされそうになった事を根にもったのか、胡蝶は少し意地になって食い下がる。
「父上、どうして皆はそう信じているのですか?」
「実績じゃな。これまで、守護を補佐する立場として長らく調整の仕事をしてきたからな」
「では、国主。いえ、守護、守護代という地位は何なのですか?地位ある人に人は従うのではないのですか?」
「確かに地位は重要じゃ」
「どちらですか?信頼があれば良いと言ったではありませんか?」
「まず、地位が無ければ実績は生まれん。実績が無ければ信頼されん。それに、上の地位に立ちたければ下の地位で実績を積み、その上の地位に就いた時の貢献を上の者に期待させねばならん」
 胡蝶は黙ってしまった。だが、熙子にしてみれば、8才の娘がこんな議論をしている事が驚愕である。
「ふむ」
 胡蝶が黙ったのを確認して、道三は続ける。
「なら、地位を与えるのは誰じゃ?」
「将軍家です。あっと、官位は帝です」
「そうじゃ、地位を否定するという事は将軍家や帝を否定するに等しい。将軍家や帝に逆らえば、処罰される」
 そう語る道三の勝ち誇ったような表情を見て、胡蝶は反論する。
「父上は処罰されておりませぬ」
  (乗ってきた)
 と道三はほくそ笑む。
「そうじゃ。将軍家が処罰する力を失っておるからの。初代将軍の足利尊氏様が室町幕府を開いた時、尊氏様は武家の棟梁として、逆らう者を処罰する力を持っておった。そして、逆らえば罰せられると皆が信じておった。これを『畏怖』という。『期待』という信頼と『畏怖』という信頼があるのじゃ。たとえ将軍家であっても、上に立つ者が不甲斐ないと畏怖の信頼を失うのじゃ」
 これは、マキャベリの君主論第十七
   『君主は、たとえ人から愛せられないまでも、
     憎まれない程度で、恐れられなくてはならぬ』
に通じるものである。なお、君主論は1532年に刊行されている。
「帝は兵をもってないのではありませんか?」
「そうじゃ。その代わりに帝は血筋という権威をもっておる」
「血筋ですか?」
「そう。名家、名門など聞いた事あるじゃろう」
「はい。母様は名門、明智家の出であると聞いています」
「帝はその最上位にある血筋になる。そして源氏や平家じゃ。熙子の家は源氏よのぅ」
 道三は、熙子に振り向き、ニコリと笑った。
「はい。そう聞いています」
 熙子もいきなり話を振られてびっくりしたが、無難に答えた。
 皇族が臣籍降下する際に、姓を賜る事を賜姓しせいと言う。賜姓の氏族として、源氏、平氏、藤原氏、橘氏が『源平藤橘』(四姓)として高貴とされた。源氏には、清和源氏の流れで、源頼朝、足利尊氏、武田信玄、徳川家康がいる。平氏の傍流として上杉謙信、織田信長がいる。
「血筋とは何なのですか?」
 胡蝶は純粋に疑問に思った事を口にした。
「血筋とは、謂わば先祖の築いた信頼よ。御恩よ。無碍むげにできない大義よ」
「よく分かりません。前の国主様、土岐様は名門なのですよね」
「そうじゃな。血筋ゆえにその地位に値する仕事をすると期待された。下の地位で培う実績の代わりに血筋をもって期待され、地位が与えられたのじゃ。血筋は期待を与えるのじゃ。だが、あやつはその信頼に応えんかった」
 息継ぎをすると、道三は続けた。
「与えられた地位は与える者の力を受け継ぐ。しかし、今は地位を与える者に力が無い。与えられた地位は形だけになってしもうた。だから今は信頼に名前を付けて地位となす。そういう時代なのじゃ」
 ここで、道三は確認するように胡蝶と熙子を交互に見た。
「期待によって地位に着き、信頼によって地位を維持する。信頼を失えば、地位を失う。そもそもじゃ、もし、地位を与える者に十分な力があれば、戦など起きぬ。問答無用に処罰されるからの」
 言いたい事を言いきって、道三はご満悦である。
「つまり、土岐様は名門ではあったけれど、信頼を失ったから地位を失った、と」
 胡蝶は、理解した事を言葉にして確認した。
「わしらの将来を不安にさせた。信頼を失った」
「では、もし、将軍家が以前のように力を持っていたら、父上は土岐様を追放しなかったというのですか?」
「将軍家が処罰する力をもっておればな。そもそも戦も起きないから将来を悲観する事もなかったろう」
「将軍家は処罰する力をもっていないのですか?」
「持っておらん。将軍家と雖もいえども、信頼を失えば力を失うからの」
 ニタリと道三がほほ笑む。それを見て胡蝶は身構えた。今日の壁打ちは終わったかと思ったが、まだ続くようだ。胡蝶は残念そうに熙子を見た。熙子は訳も分からず愛想笑いを返した。

 武力による強制力が権力である。現代社会で言えば、逮捕権を持つ警察組織に該当する。現代と比べれば簡素ではあるが『法』があり、『法』を執行する(家臣・民に強制させる)力を持つ者が権力者である。そんな権力者の中の最高権力者が将軍家である。
 だが、その将軍家に武力が無い。実態として「警察が無い社会」と思えば良い。そのため、地域において最も強い武力による強制力を持つ者が各地の支配者であり、その支配者が権力を行使する範囲が領地である。そして支配者たちが武力により領地の奪い合いをしている時代が戦国時代である。
 そんな時代に、どうやって家族や仲間の幸せを守るのか、それが道三が胡蝶に言いたかった命題である。

第4節 期待と畏怖の使い方

「さぁ、胡蝶、熙子。今日はもう少し深掘りするぞ。信頼とはなんじゃ」
 名前を呼ばれて、熙子はギョっとして再び固まった。
 胡蝶は、先ほどのやりとりを思い出して答えた。
「期待と畏怖とおっしゃいました」
「何を期待しておる?」
「皆が幸せに暮らせるように調整する事、いえ、調整できると皆が期待してくれる事」
「何を調整するのじゃ?」
 二人に大人の仕事など分かるはずもなく、再び頭を抱える。
「ええっと・・・年貢?」
「間違ってはおらん。だが足りん。そうよなぁ。たとえば、城を普請する時はどうする?」
「あぁ、労役も、です。米以外も含まれる、と」
「そうじゃ。それに調整する事を仕事とする者達にすれば、そうした事務仕事の負担も同じく調整すべき事になる」
「あらゆる仕事で負担が公平になる様に調整してくれると皆が信じている事なのですね」
「うむ。だが、単純に負担の話だけでは終わらぬ。個人には得手不得手があるからのう」
 そう言うと、道三は少し考えた。
「ふぅむ。そうそう、利尚は剣術ができるな」
「はい」
 利尚とは斎藤義龍。後に長良川の戦いで斎藤道三から美濃を奪う斎藤道三の嫡男であり、胡蝶の兄である。次男が孫四郎で胡蝶のすぐ上の兄になる。三男が喜平次ですぐ下の弟である。
「孫四郎、喜平次はどうじゃ」
「利尚殿ほどではありませぬ。ですが、孫四郎殿は弓が上手で、喜平次は算術が好きなようです」
「それぞれ得手不得手があるということじゃな。では、もし、算術で知行を決めればどうなる?」
 知行とは、現代流に言えば給料である。当時で言えば、領地とそこから上がる年貢、或いは、年貢の分配となる。
「喜平次は喜びます」
「だが孫四郎はどうじゃ、嫡男・利尚はどうじゃ」
「あの二人は、喜平次ほど算術が得意ではないと思います。いずれ不満を持つと思います」
「そうじゃ、不満を持つものが出るという事は調整に失敗したという事じゃ。不満を持つ利尚と孫四郎はわしに対して謀反を起こすやもしれん」
「まさか、そんな」
  (そんな簡単に謀反なんて事を考えるの?)
 胡蝶は道三の仮定に驚きを隠せない。
 一方、熙子は、再び凍り付いていた。
  (そんな怖い話、私の前でしないで・・・)
「そんな調整をすれば、わしが奴らの信頼を裏切った事になるからのう。だから長男で武勇に優れる利尚には多めの知行を与える。もちろん孫四郎にもじゃ。戦の時に頑張ってもらわねばならん。算術を使う仕事は喜平次に任せて、それに応じた知行を与える」
「それなら不満を持たないと思います」
「これが期待による信頼というものじゃ」
 無難な所におちついて、胡蝶も熙子も安堵の表情がうかがえる。しかし、道三は続ける。
「だが、話はそれで終わらぬ」
  (まだ終わらないんだ・・・)
 胡蝶も熙子も顔には出せないが、心の中でつぶやいた。
「全員に十分な知行を与える事ができなければどうする」
「えっ?」
 道三は身を乗り出し、胡蝶の前に顔を突き出すと、胡蝶が答える前に道三がさらに続ける。
「そもそも田畑が不十分で、全員に十分な知行をやる事ができん。皆が不満を持てば、皆が謀反を起こすぞ。胡蝶。どうする?」
 胡蝶は必死で、皆が納得できる答えを探すが思いつかない。
「そんなこと・・・」
 道三は表情を少し厳しくした。それを見て胡蝶と熙子に緊張が走る。
「どうじゃ、胡蝶、熙子」
「困ります」
 胡蝶が言葉を絞りだすように言うと熙子を見る。熙子もだまって胡蝶を見つめていた。その表情には恐怖が滲んでいるようにも見えた。
 気を使ったのか、道三は語気を弱めて言う。
「そうなると困るから、収穫が少ない時には、わしは喜平次の知行を減らして、利尚と孫四郎に分ける」
「そんなことをすれば、喜平次が不満を持ちます。謀反を起こします」
「どうかな?」
「どういうことですか?」
「喜平次は謀反を起こさん。いや起こせん」
「何故ですか?」
「畏怖と言う信頼があるからのぅ」
 胡蝶は理解できずに苦しんでいた。熙子はもはや思考停止しかけていた。
「畏怖とは恐れや恐怖の事じゃ。この場合、わしと利尚、孫四郎は不満がない。喜平次が謀反を起こせば、わしら3人を相手に戦をすることになる。絶対に勝てん。謀反を起こせば確実に処罰される。これが畏怖という信頼よ」
 胡蝶は自分が喜平次の立場になった場合を想像し、道三の言葉を理解した。しかし、理解する事と納得する事は別である。
「なんとなく分かりました。ですが、喜平次が可哀そうです」
 胡蝶は道三を睨み返した。道三も睨み返す。
「考えてみよ」
 と言うと、右手を前に出すと、天井を指さした。
「平等に分けて不満が残る。そして3人が謀反をしたら国が荒れる。戦になって多くの者が死ぬ」
 続けて左手を前に出して、天井を指さした。
「不平等に分けて喜平次が犠牲になるが、少なくとも国が大きく荒れる事は無い」
 そのまま両方の手をぬッと、胡蝶の顔の前に出した。
「どちらが多く人が死ぬか?どちらが不幸か?どちらが正しい?胡蝶はどちらを選ぶ?」
 道三が一気にまくしたてた。
「どちらも嫌です」
 そう言うと胡蝶は目をそらした。
「決めよ。それが国主というものじゃ。それが調整じゃ」
 道三は、胡蝶を追い詰めるように言った。少しの沈黙の後、胡蝶は小さな声で抵抗を試みる。
「私は・・・国主ではありません」
「わしは国主じゃ。胡蝶は国主の娘ぞ。心構えはしておけ」
「・・・はい」
 もはや胡蝶にはそう答えるしかなかった。道三は語気を和らげて、再び話し始めた。
「何もわしも好き好んでそんな事はせぬ。だが、必要・・とあらばする」
 道三は意図的に必要の部分を強調した。
「そんな必要が無くなれば良いのですね」
 胡蝶は泣きそうになりながら、必死の抵抗を続けていた。
「そうじゃ。その代わりと言ってはなんじゃが、近いうちに喜平次に『一色』の名をやろうと思うておる。名乗るだけで、腹は膨れんがの」
 そう言うと、道三は頭を掻いて苦笑した。
「一色は名家の名じゃ。喜平次なら名前を上手く利用して、得意の算術で稼ぐ事が出来るじゃろぅ」
 道三がそう言って表情を緩めると、空気が和らいだ。
「そもそも国の田畑が十分あれば良い話よ。国が富めば良い。さすれば、可哀そうな事はせずとも良くなる。民にも家臣にも十分な衣食住が与えられる」
「それが国を治めるという事でしょうか?」
「そうじゃ。だが、前の国主は国を見ず、地位や利益の奪い合いばかり考えておった。だから追い出した」
「父上は、上手く国を治めておられるのですよね?」
「以前よりは良くなってきたと自負しておる。家臣の顔を見れば分かるであろう」
「はい。最近、館に来る方々は、幾分、穏やかな顔をされているように思います」
「そうか」
 道三は納得したのか、ようやく自然な笑顔を見せた。
「信頼とは期待と畏怖じゃ。これらを上手く使い分ける事が力となる。心に刻んでおけ」
「はい」
 とは答えたものの、
  (おなごの私に何ができるというのだろう)
 そして、胡蝶も熙子も考えるのを止めた。道三がゆっくりと立ち上がり、部屋から出ていくと、二人は解放感に包まれた。胡蝶の気持ちはまだ沈んだままではあったが、出来る限りのカラ元気で言った。
「お外へ行こう!」
 胡蝶は熙子の手を取った。熙子は胡蝶の目にうっすらと浮かぶ涙を見ながら思った。
  (本当に8才?)

 国の経営の理想は平等・公平。しかし、限られたリソースの中では、取捨選択しなければ全体を悪化させる事もある。時には不平等な選択が結果的に全体にとって有益な場合もある。そんな場合でも、限られたリソースの中で、セーフティーネットを準備する努力はしたいと考える道三であった。

第5節 売れる理由(KBF)と選ばれる理由(KCF)

 やり過ぎたと思ったのか忙しかったのか、その後5日間は、道三が押しかけてくることはなく、胡蝶は穏やかな日常を満喫していた。その間も熙子は訪ねてきており、おしゃべりを楽しんでいた。
「胡蝶様、明智家の光秀様をご存知でしょうか?」
「従兄になります」
「光秀様より縁談が来ております。父も乗り気です。どのような方なのでしょうか」
「とても真面目なお方です。父上も気に入っているご様子」
「良い方なのですね」
 熙子は安心したように答えた。
「はい。間違いなく良い方です。ですが、・・・」
 胡蝶が何か言いかけて口籠った。少し首を傾げ、熙子は胡蝶の顔を覗き込んで尋ねた。
「ですが、何でしょう?」
「えっと、・・・面白さに欠けるかもしれませんね」
 その答えを聞くと、熙子は一瞬驚いた顔を見せた後、急に笑い出した。
「ふふっ。私にはちょうど良いかもしれません」
「どうして笑うのですか?」
「胡蝶様の言う、面白い方って、どんな方を言うのかしらと」
「それはどういう意味でしょう?」
 胡蝶は少しムスッとした表情で熙子を見た。
「国主様とあのようなお話をされている胡蝶様ですよ。その胡蝶様が面白いと思う方など私には想像できません」
「あぁ」
 図星というか痛い所を突かれて胡蝶の顔から表情が消える。自覚はある。だが、将来、織田信長という世にも面白い人に嫁ぐことになろうとは、この時の胡蝶には知る由もない。
ドタドタドタ
 そんな和やかな空気が一瞬で緊張に変わる。あの足音は道三である。熙子には分からないが胡蝶には分かる。
「胡蝶!居るか!」
 大きな声が響いたかと思えば、胡蝶が答える間もなく、障子が勢いよく開いた。そして、道三は部屋に入ると、胡蝶の傍らにいる熙子を見つけた。
「熙子も居るか!丁度良い!」
 熙子の目には恐怖の色が滲んでいる。一方、胡蝶の目には、・・・諦めの色が浮かんでいる。
「今日は商売の話をするぞ」
「商売ですか?」
 胡蝶の目に生気が戻った。『胡蝶の夢』で見たのは商売のイロハ。商売の話は、謂わば、得意分野とも言える。はっきりと覚えている訳ではない。しかし、何かを考えようとする時、影響がある事ははっきりと自覚がある。
「おう。商売じゃ。調整が嫌なのじゃろ?誰かを切り捨てるのが嫌なのじゃろ?年貢は勝手には増えぬ。開墾するのも時間もかかる。だが、商売はいつでもできる。金があれば米を外から買ってくれば良い。どうじゃ」
「国主が商売するのですか?」
 道三がやけにご機嫌なので、胡蝶はわざと意地悪く言ってみた。それに道三も意地悪く答える。
「お前は国主ではないのだろう」
  (覚えてやがった)
 胡蝶はまた一本とられて、ムスッとする。
「私に商人になれと?」
 悔し紛れに胡蝶は言ってみた。
「そうではない。しかし、商人の才覚がなければ、国は経営できぬ」
 この時、国とは現在の日本全体を指すのではなく、当然に『美濃の国』という意味である。
 道三は試すような口ぶりで胡蝶に向かって言った
「算術はできるのだろう?」
「『胡蝶』ですから」
 道三は察して、ニタリと笑った。
 そんなやりとりに、熙子は不思議そうに胡蝶を見た。
「では、その『胡蝶』に問う。取引は何故成り立つ?」
 道三はいたずらっ子のような目で胡蝶を見つめた。
 胡蝶は少し考えて答える。
「売る人がいて、買う人がいるからです」
「何故、買う人がいるのじゃ」
「それを必要とする人がいるからです」
「それだけか?」
「それだけとは?」
「そうよなぁ・・・」
 辺りを見回すと、道三は続けた。
「胡蝶、今着ているその着物は必要か?」
「はい」
「なければどうなる」
「寒いので風邪をひきます。だから必要です」
 それを聞くと、道三は部屋の床の間にある壺を指さした。
「その壺は必要か?」
「花を活けるのに必要です」
「花は無いぞ」
 季節としてはまだ冬なので、まだ活けるような花は咲いていない。
「花が咲けば・・・」
 胡蝶はここまで言うと、道三の顔を見て、何かに気が付いた
「必ずしも必要ではありませんが、欲しいと思います」
「それじゃ!食べ物や着物のように絶対に必要な物を買う。これらは我慢できる限界がある。しかし、壺や掛け軸は絶対に必要とするものではない。金が無ければ我慢すれば良い。ただ欲しいだけじゃ。財産に余裕がある者や地位のある者が欲しいと思うから買う。では武器はどうじゃ?」
「無くても生活は困りません。ですが、欲しいから買うというのも変な感じです」
「ふむ。わしは他国に負けないように買っておる。ある意味必要なものじゃ。安心を買っておる。しかし、無くとも自然に死ぬ事は無い」

 これが道三の考える、KBF(Key Buying Factor)であり、いくつか分類できるという事だ。一つ目は絶対必要なもの、ビジネスで言えば製品を作る原料もこれに該当する。二つ目は、絶対に必要ではないがあると安心できるものや便利なもの。典型的なものとして保険に該当する。ビジネスをしているなら差別化や競争力に関わるものを指す場合もある。そして、三つ目はいわゆる贅沢品である。満足や楽しみという類の品である。エンターテインメントである。

「熙子。家に米が無い時、他に米を買う方法が無い時、高い米を売りに来たら買うか?」
「買います。他にないのですよね」
「家に武器が無い時はどうじゃ。高い武器を買うか?」
「買いません」
「もし、夜盗が明日、家を襲うと知っていたら?」
「多分買います」
「ではその壺。高ければ買うか」
「買いません」
「安くしてやると言えばどうか」
「多分、買いません」
「家に米がある時、100文の壺を10文で売ってやると言えばどうか?」
「買うと思います」
「家に米が無い時でも、安ければ買ってくれるか?」
「家に米が無い時には買いません。安くても買いません。米を買います」
「そうよな。品物によって必要の程度が変わる。買う者には買う者の理由がある」
 道三は、熙子とのやりとりに一区切りついた所で、胡蝶に向き直る。
「ところで胡蝶よ。着物を売る商人は一人かのぅ?」
「いいえ。家にくる商人だけでも何人かおります」
「どうして何人もおるのか分かるか?」
「選べるから」
「そうじゃ。では、胡蝶は何を基準に選んでおる?」
「絵柄でしょ。手触りでしょ。あと、お値段?」
「さっきは必要だから買うと言っておったではないか?」
「それとこれとは話は別で・・・」
 それを聞くと、道三は二ッと笑った。
「そうじゃ。話は別じゃ。買う理由は必要だからじゃが、選ぶ理由は別にある。今日は商売の話をしにきた。売る側の話じゃ。買う側がいくら必要としていても、売る側に立った時には客に選んでもらわねば売る事ができん」

 道三は、KBFとKCF(Key Choosing Factor)を明確に分けて考えている。
 売る側に立った場合には、KCF、即ち選ばれる理由が必要だと考えているのだ。それは他者との差別化要因である。そして、KBFには3つあり、無いと困るモノ、今すぐ必要ではないが将来の安心のために必要なもの、満足のために必要なもの、である。

(ビジネスメンター帰蝶の戦国記⑥に続く)

#創作大賞2024 #ビジネス部門


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