ビジネスメンター帰蝶の戦国記②

あらすじ
 主人公・濃姫(胡蝶)がメンター、織田信長がメンティとなり、壁打ちしながら戦略を組み立てる戦国ライトノベル。歴史を楽しみながらビジネス戦略の基礎知識に触れる事ができます。
 第1章・桶狭間の合戦は尾張統一を果たした岩倉城の戦いの後から桶狭間の合戦まで。ビジネス戦略のフレームワークや兵法を駆使し、圧倒的に不利な状況から勝機を見出し、戦略・戦術・行動計画を組み立てます。
 見えてきたのは桶狭間の合戦は信長が仕掛けた大博打という事。そんなメンタリング(対話による戦略構築)の面白さを共有できればと思います。


第1章 桶狭間の合戦
  ~信長様、鉄砲隊では勝てません~

第4節 相手の立場でも考える

 二人は無意識に地図に目をやった。

「時間は敵。こちらの強みは大義名分と地の利、そして、練度」
「そうね。そこから勝てる手を打たないといけない」
 状況は理解した。圧倒的不利。ここから逆転の一手を絞り出さないといけない。
「大義名分で大人しくしてくれるなら、苦労はしない」
「そうね」
「地の利はどうかしら」
「わしらの方が土地を良く知っている」
 胡蝶が信長の言葉に続けた。
「それに近い」
「近い?」
 信長はその意図を即座には理解できなかった。
「そう、近い。疲れない。兵糧が要らない。遠いと移動だけで時間がかかる。しかも大軍を率いる場合、兵糧が大量に必要になる。準備が大変。孫子の作戦編よ」
「そうか。わしらは兵糧の心配は要らないが、今川は大量の兵糧が必要になる。準備に時間がかかるし、何日も行軍すれば、疲れも出てくる」
「そう。兵糧。兵站へいたんは文字通りの生命線になるから」
 兵站とはロジスティクス(物流)である。ビジネスの場合、サプライチェーンと言っても良い。
 二人は一度、目を合わせると、再び地図に目をやった。
「今川義元の眼で見てみようか」
 少しの間をおいて、胡蝶が続けてつぶやいた。
 ビジネスなら、自社自分(Company)、競合他社(Competitor)、顧客(Customer)の3Cのそれぞれの立場から見てみる。自社自分のこだわりを離れて見ると新しい発見に気付く事がある。競合他社の目で見てみると、競合他社の苦手とするところにビジネスチャンスがあったりするのだ。
「以前、奪われた鳴海城と大高城、地図で見ると浮いてるよね」
「浮いてるね。最前線だから織田軍の背後を突けるとも言えるけど、孤立感がある」
 信長も同意する。水野信元が押さえる村木砦、緒川城、刈谷城、大脇城があり、特に大脇城の印象が強く、鳴海城、大高城が浮いて見えたのだ。
 鳴海城は織田信秀の死後、城主だった山口教継・教吉親子が謀反を企て、赤塚の合戦では押し返したものの、城ごと今川に寝返ったために現在まで今川方となっている城である。赤塚の戦いの後、山口親子は今川義元に駿府に呼び出され、切腹させられている。現在の城主は岡部元信である。
 鳴海城は、東に谷、西に泥深い田、南は黒末川だが川というよりも実態は入江、北は東に向けて山があるという場所にある。攻めるには足場がなく、攻め手に難しい立地となっている事もあり、取り返せなかったのだ。見方を変えると、出撃する側にとっても、経路が限られていて打ち手が少ない。いわば、楔のような城である。
「今川にとって最前線、橋頭保きょうとうほだから、多めの兵士で守っているのよね?」
「確かこの城は、もともと兵糧の自給が難しかったはず」
 信長が思い出すようにつぶやく。赤塚の戦いの後、山口教継が大高城、沓掛くつかけ城を乗っ取ったのは、単に支配地域を広げようとしたのではなく、兵糧輸送という理由があったのだ。
  (あの時気付いていたら、もっと良い手があったかもしれない)
 信長が赤塚の戦いを思い出していた。
 そうとは知らない胡蝶は質問を続ける。
「ということは・・・?」
「つまり、鳴海城は最寄りの大高城から兵糧を補給しているはず」
「信長様が今川義元だとして、もし、鳴海城、大高城に兵糧が無いと・・・」
「困るね」
 信長が即答する。
「今川としては、対尾張の最前線。獲られたくないよね?」
 追い打ちをかけるような胡蝶の確認に、信長が即答する。
「だろうね。尾張を南から攻める橋頭保きょうとうほという位置だし東海道にすぐ出られる。折角取ったのに奪われたら士気にも影響するだろう」
「そうなんだ」
 胡蝶は分かっていて質問したのに、妙に納得するような返事をした。
「兵糧が足りていないとすると、どうしているの?」
「最寄りの城、大高城から持ち込む必要がある」
 まだ、織田家の支配下にあった時には、大高城以外からも兵糧を持ち込む事ができた。信長はその時の思い込みがあったが、今川義元の立場で見ると、兵糧の補給に苦労しそうな事は容易に想像できた。
「じゃあ、この二つの城を分断すれば?」
 胡蝶が問うと
「鳴海城は飢えで落ちる。だから、今川としては、そのような事を許すはずがない」
 信長が答えた。鳴海城は守るには堅牢けんろうな立地だが、城を出て戦うには逆に不利になってしまうのだ。
 信長が続ける。
「わしらに時間は敵。もし、早く今川と戦いたいなら、ここを分断すれば、今川は出てくる」
「もし、出て来なければ?」
「鳴海城は落ちる。鳴海城に居ると思われる兵が死ぬか寝返る。そして、今川義元の信頼は揺らぎ、織田の領地が増える。上手くすれば、鳴海城の兵がそのまま織田軍になる。ついでに大高城も狙える」
「今川として放置はできないということね?」
「そうだ」
 信長は力強く答えた。
「じゃあ、・・・」
 続けて胡蝶が質問を続ける。
「・・・織田軍の強みを活かして勝つ状況を、どうやって作れば良いのかな?」
「まずは急いで出陣させれば、準備が足りずに兵士数が減る」
「どうやって、急がせるの?」
「鳴海城や大高城の兵糧が無ければ、急がなければならなくなる」
「じゃあ、鳴海城や大高城に兵糧を運べないようにすればよいのね」
「そうだ。でもどうやって?」
「そもそも大高城に兵糧が無ければ、鳴海城に運べないわ」
 胡蝶がにやりと笑うと、それを見て信長は察した。
「大高城に入る兵糧、田畑を焼いてしまうのか」
「うん。以前、守山城の周りを焼かれたのを思い出したの」
「あれは酷いと思ったよな」
 1555年7月、織田信長や信行(信勝)の弟・秀孝が、守山城主・織田信次の家臣、洲賀才蔵に無礼討ち(弓で撃たれて死ぬ)された時、弟の織田信行が怒って守山城の城下に火を放った事を言ったのである。
「そうね。事故なのに・・・。身内で消耗戦。農民はとばっちり。無駄以外の何ものでもなかったものね」
 胡蝶は一息入れると、続けた。
「今回は大高城。サッと行って、サッと帰る。直接戦うのではなければ、戦死者は出ないでしょう」
「よし、採用!」
 信長は上機嫌で叫んだ。
「他には?まだまだ今川軍は多いよね?」
「何があるかな?」
 二人の目が合う。そして、胡蝶が問う。
「今川軍を分散させる事はできる?」
「・・・できる。捨て駒になる者が出てくるが・・・」
 そこまで言うと、信長は少し嫌そうな顔をして口をつぐんだ。信長は身近な人の死が嫌なのだ。戦国時代にあって、死は日常と化している。信長には合理主義者としての一面もある。捨て駒を使う事が結果として最も死ぬ人数を減らす事もある。その事は十分承知している。それでも嫌なものは嫌なのである。
 二人の間に沈黙が流れた。
「決めるのは信長様です」
 信長は黙って聞いている。
「今日はここまでにしましょう」
 そして、胡蝶は議論を纏めだした。
「時間はかけられないので、早く勝負に出ないといけない。今川をおびき出すには鳴海城と大高城を分断する事。今川義元を急かすために、大高城の兵糧を焼く事。そして、敵を分散して、少人数になったところを叩く事」
 最後まで聞くと信長はふてくされるように、無言のまま寝室を出て行った。誰かに『おとりになって死ね』と言わねばならない。だから気持ちが落ち着かなかったのだ。胡蝶は、その姿をただ見送った。

胡蝶メモ
・時間はかけられないので、早く勝負をかける事・現在の認識
・今川をおびき出すには鳴海城と大高城を分断する事・戦の前に行う
・今川義元を急かすために、鳴海城と大高城の兵糧を焼く事・戦の前に行う
・敵を分散して、少人数になった本陣を叩く事・戦の最中に行う

第5節 仮説が違った場合も考える。優先順位と代替案

 翌日も、信長は胡蝶の寝室に来た。
「昨日の続き?肚は決まった?」
「うん」
 二人は地図の前に座り込んだ。
「敵を分散したら各個撃破すれば良いと思っていたんだけどね」
「えっ、何回戦うつもり?定量化しないといけないわね」
 胡蝶は呆れたようにいうと、信長に確認した。
「織田軍が勝てる条件は?」
「織田軍精鋭2千で今川軍4千を叩く事」
「つまり、相手が倍の軍勢までなら勝算があるのね。それで、織田軍はどれくらい集まるの?」
「全軍で5千集まれば良い所だ」
「念のための後詰めに千を残して4千ね。だとすると、倍の数とすれば相手は8千まで。良いわね?」
 胡蝶は信長の顔を見ながら確認する。そして、SWOT分析を思い出す。
「敵は少なくとも2万と言ってたわよね?じゃあ、合計3万と仮定しましょう」
「8千の軍勢を相手に立て続けに4回合戦する事になるのか」
「倍の相手に誰も死なない前提をおいてね。いくら今川軍が遠征で疲れていると言っても、勝てる訳がないじゃない。織田軍の精鋭が倍の相手に頑張れるのは1回のみ。・・・じゃあ、その1回で実現すべきことは?」
「今川義元の首」
 信長の頭に、他の答えは思い浮かばなかった。
「そう、その1回で今川義元の首を獲る。今川義元は名君です。その大黒柱が討たれたら、今川家は大きく揺らぐことになります。信秀様が無くなられた時の織田家を思い出してください」
「もし、獲れなかったら?」
「獲れなくても、本隊が崩れれば今回の合戦は織田の勝利です。おそらく大高城までは奪還できるし、上手くすれば沓掛城も取れるかもしれない」
「もし、今川本隊が壊滅しなければ・・・」
「勝てると言ったのは信長様です。負けたら逃げるしかないでしょう。それでも今川本隊の持っている兵糧を焼くことができれば、尾張は籠城して今川の兵糧切れまで頑張るという方法が残ります」
 これがコンティンジェンシープランニング目論見が外れた時の対応。代替案を考えておく事は、必ずしも弱気を意味しない。むしろ緊急時の対応の早さに繋がり、最悪ケースを想定する事で心理的な安心感を与える事の方が多い。
「だから、目標は敵本隊。狙うは、今川義元の首を獲る事」
 ここまで胡蝶が一気にまくし立てた。で、はたっと口をつぐむ。
  (言い方がきつかったかしら)
 胡蝶が信長の顔を覗き込むと、信長は意外に落ち着いていた。
「そのために必要な事は?」
 信長に言われて、胡蝶ははっとした。恐らくは信長も同じことを考えているのは間違いない。胡蝶に言わせようとしているのだ。さっきまくし立ててしまったので、胡蝶もひっこみがつかなくなっている。胡蝶はひと呼吸おくと、仕方なしに答えた。
「今川義元の本隊を減らし、孤立させる事。ついでに言えば、今川軍を分散させる事。今川義元を討った後、敵が烏合の衆なら、それこそ各個撃破できます」
 胡蝶としては、出来るだけ信長に答えさせたいと考えている。実行する者が自ら考えた案である事(自分で考えたと感じる事・腹落ち)が大事なのである。それが自信につながり、臨機応変な行動に繋がる。他人に与えられた案では思考が止まる。不安が残り、失敗した時の言い訳になる。行動する前に失敗の言い訳があると、頑張れなくなる事がある。
 これはメンタリングでも考慮すべき事であって、発表資料・最終報告書は原則としてメンティが自分の言葉で作らなければならない。
 にも関わらず、胡蝶が答えさせられてしまったのだ。
  (やっちゃった・・・)

 少し時間をかけるように、胡蝶が昨日のまとめを取り出し、次のように書き直した。
・時間はかけられないので、早く勝負をかける事・現在の認識
・今川をおびき出すには鳴海城と大高城を分断する事・戦の前に行う
・今川義元を急かすために、鳴海城と大高城の兵糧を焼く事・戦の前に行う
・敵を分散して、少人数になった本隊を叩く事・戦の最中に行う
 そして、信長に向かって質問した。
「大高城の兵糧を焼いたら、今川義元は出てくるかな?」
「日常の小競り合いだ。兵糧を焼いたくらいでは、直ぐに出る理由にはならないだろうな」
「じゃあ、鳴海城と大高城を分断したら絶対出てくる?」
「出てくるかもしれないし、出てこないかもしれない」
 少し信長も自信がなくなってきた。
「うーん。出てこない可能性があるわ。今川義元にしてみれば、まだまだ国境の小競り合いでしょう?じっくり準備して確実に織田家を叩き潰せば良いと考えるかもしれないわ。小豆坂の時でも、大将は太原雪斎だったわよね」
「そうかもしれない」
 信長は自信なさそうに同意する。
「ともかく、今、分からない事を議論しても仕方ないわ。まずは、大高城近くの田畑を焼き、今年の収穫を減らす。次に大高城と鳴海城の兵站を切る。両方の城に兵糧が少ない状態からの合戦にする」
 胡蝶が確認すると、信長が続けた。
「その合戦では、敵兵力を分散して、今川義元の首だけを狙って戦う」
「で、もし、狙いが外れたら?」
 確認するように胡蝶が尋ねた。
「敵の兵糧を焼いて、籠城する」
 第二次小豆坂の戦いで1万の軍勢の大将を務めた太原雪斎は1555年に死去している。これだけの大軍を指揮できる大将は他に居ないように信長には思われた。しかし、今川義元本人が来るという自信は十分ではなかった。

第6節 戦略から戦術。突破口を見出せ

「とにかく戦略は決まったわね。では次に、具体的にどうやって敵兵力を分散させるかを考えないといけないわね。個々の戦術よ」

「まず、大高城に入る兵糧を焼く方法は?大高城の近くはどんな感じ?」
「大高城も鳴海城ほどではないが、海に近く、主な穀倉地帯は城からやや遠い」
 信長は現地を思い出しながら答えた。
「農民には悪いけど、よく燃える時期となると収穫前の水を抜いた頃が、焼き討ちには都合が良いのでしょう?それに倉庫。備蓄米があれば燃やす」
 現地は、本来なら尾張の領地・領民だから、胡蝶もちょっと気を使ってしまう。
「騎馬隊でサッと行って、サッと燃やして、サッと帰る」
「もし持ち帰れるならそれが良いと思うけど、優先すべきは敵の兵糧を減らす事。米俵を川に流しても良いし、ドツボに落して腐らせても良い」
「草(間諜・スパイ)を使って、頃合いを計らせよう」
「次に、鳴海城と大高城の兵站を分断する方法ね」
「二つの城の間に砦を築く。これは昨夜考えていた。ここかここ。どちらが良いか迷っている」

 信長が迷っているのは、いわゆる、鷲津砦と丸根砦の位置である。
「私たちの中島砦があるから、今川は迂回しているのよね。それで何に迷っているの?」
「どちらがより効果的か」
「ここに砦を築く目的は?」
兵站へいたんを切る事、鳴海城を孤立させること」
「ちょっと違うわね」
「えっ」
「それは手段。目的は今川義元を急かして、織田に有利な時期に出て来させる事よ」
「・・・」
「それに上手くすれば、敵兵力を分散できるのではなくって?」
「砦を作れば、取った砦に人を常駐させる事になる・・・か」
「だったら、取られても良いから、もっと作ってしまえばどう?そうすれば、敵はより分散する。できそう?」
 胡蝶は挑戦的に言った。
「うーん、できる。三つの砦で鳴海城を囲むのはどうかな。先に善照寺を砦化しておけば、中嶋砦を加えて、鳴海城を囲んでしまえる。こちらには砦作りが達者なものを選ばないといけないが」
「もう一つはどこ?」
 信長は黙って指さした。ここで、丹下砦と善照寺砦が計画に加わった。

「こうなると如何にも、鳴海城狙いね。これだけ砦を作ったら、今川軍はすぐにでてくるでしょうね」
「その前に大高城の兵糧を焼いておく、だったね」
「そうすれば次の収穫まで大高城も鳴海城も兵糧が少ない状態にできる。今川を急かして出陣させることができる」
 ここで胡蝶が気付いた事があった。
「ちょっと待って。ここは今川義元が出てくる理由にはならないわね。尾張を守る砦に見えるわ」
「どういうこと?」
「ほら、ここと善照寺は先に作っても怪しまれない」
 胡蝶は、鷲津砦、丸根砦の印を左手で隠すと、丹下砦予定地と善照寺を右手で指さした。

「つまり?」
「つまり、信長様の最初の二つは、鳴海城と大高城を分断するから明らかに今川への挑発だけど、この二つは尾張の守りにも見えるから強い挑発にならない。先に作っても怪しまれない。つまり、一度に大勢を動員する必要はない。砦作りの訓練が事前に出来て、そのまま鳴海城包囲の砦になる」
「良いね」
 信長も同意した。
「少しでも有利な状況を作って、今川義元を焦らさないとね」
 胡蝶はいたずらっぽく笑った。
「じゃあ、どの時期に仕掛けるのが良いかしら」
 胡蝶は再び真面目な顔をして信長に質問した。
「兵士を減らすなら、農民が忙しい時、田植えや稲刈りの少し前が良い」
 信長は断言した。この時期は、まだ兵農分離が不十分な時代である。
「それって織田軍でも問題になるのではなくって?」
「近いから大丈夫。最初から分かっていれば対応できる。それに駿河・遠江の今川軍を待っている間にすればよい」
「確かに、そうね」
  (今日、信長様、冴えてる!)
 胡蝶は、信長を誇らしげに見つめた。
「駿河遠江の繁忙期を邪魔すれば、使える兵糧が減らせるかな?」
「・・・いや、進軍途中の今川領で調達するだろう。わしならそうする。兵糧を運ぶだけでも疲労は溜まる。急ぐなら、猶の事・・・」
 ここで、信長がニタリと笑った。何か閃いたようだ。
「なに?」
「砦を作ると同時に、吉良を焼く」
「えっ?」
 今度は胡蝶が驚きの表情を見せた。三河国吉良庄は岡崎のやや南の完全に今川領にある。しかも、吉良庄にある地名から今川の名を付けたとされる今川氏発祥の地である。そんな所を襲撃すれば、間違いなく、今川義元の逆鱗に触れることになる。戦国大名にとってメンツは重要なのである。
 しかし、遠い。今の愛知県西尾市である。名古屋から約60km。

「できるの?」
「できる・・・と思う」
 実は、信長は吉良に行った事がある。初陣が吉良だったのだ。
「できたら、間違いなく、今川義元本人が出てくるわね。それこそ農作業の繁忙期であろうと大急ぎで」
「それに今川義元の出陣時期をほぼ確定できる。こちらの計画も立てやすい」
 二人の顔に笑顔が浮かんだ。初めて主導権を握った瞬間だった。
「次は合戦の筋書きね。今川義元はどの街道を通ってくると思う?」
「岡崎経由でまっすぐ来るなら、東海道から沓掛城へ入るだろう。大脇城には水野信元が居るが、わざわざ大脇城を攻めて時間を浪費するような事はしないと思う。そんな事をしていたら、鳴海城、大高城が先に飢えて落ちる」
「では、沓掛城が起点で3万という事ね?」
 多く見積もり過ぎて、存在しない敵に怯えてしまうのは良くない。しかし、農作業の繁忙期にぶつける事で減らすとしても、希望的観測で、少なく見積もり過ぎても良くない。
「いや、既に三河、大高城、鳴海城、それらの支城を合わせれば5千ほどいるが、それらは3万に含まれるはず。沓掛城には駿河・遠江で2万5千としよう」
 信長が言いたいのは、今川の動員兵力を石高比例で予測しているが、石高の中に三河が含まれているという事である。今時であれば、フェルミ推定のようなものである。根拠を持って概数を予測するのである。
「変な数字ではなさそうね」
 ここを細かく議論しても意味が無いので、胡蝶も話をすすめる。
「鳴海城と大高城に兵糧が無く、織田軍に攻められているとすると、信長様が今川義元ならどう指揮します?」
「先に鳴海城や大高城が落とされたら大変だから、急いで出せる軍勢を先行して送る」
「例えば?」
「まずは三河の竹千代に行かせる。近くに居る竹千代が兵糧を持って大高城に入る。万一、織田軍が全軍で大高城を攻めていたら各個撃破されてしまうから、竹千代も全軍で来るだろう。今川義元も出来るだけ多くの援軍を送る筈」
 竹千代とは後の徳川家康である。徳川家康は、幼少期、織田家に人質として送られていた時期がある。その時に会っているので、信長は竹千代と呼んでいた。
「三河はどれくらい?」
「2千から3千」
「先行する今川の援軍はどれくらいだと思う?」
「今川先発隊1万前後」
「既に城に居る者を加えると、合計で1万5千は超えてきそうね」
「今川義元になったつもりで織田軍を攻めるなら、どんな配置になるかしら」
「二つの砦にそれぞれ千人いるなら、5千づつ派遣して確実に潰す。もし、砦がおとりで織田本隊5千が別動隊として先発隊を待ち受けている場合を考えて確実を期するなら、その背後をとれるように更に後備え3千が欲しい。あと鳴海城に2千はおいて援護させる」
「やっぱり、全部で1万5千以上が沓掛の本陣に先がけて、鳴海、大高に出てくるのね」
「そうなる。あとから沓掛を出てくる本陣は1万から1万5千」
「まだまだ多いわね。これが繁忙期でもそんなに来るかしら」
「わからん。でも1万は残るだろう」
「対する織田軍は後詰に千、さらに砦に千を割くとして、いいところ3千ってところね」
「少なくとも1万対3千。・・・まだ、きついなぁ」
「じゃあ、もっと地の利を活かしましょう。これとどこで戦う?沓掛?」
「いや、行軍途中」
 信長は即答した。
「どうして?」
「兵が1万もいれば、行軍する時は長く間延びする。そこに隘路があれば、なお良し。隘路があるとそこを通る人数は限られる。つまり、隘路を塞げば分断できる」
 続けて信長がその狙いを説明する。
「今川軍は強い。開けた地で布陣する時、右翼が負けそうなら左翼から援軍を出せる。常山の蛇だ。だが、隘路を通って行軍している時には、前が負けているとしても後ろから援軍は出せない」
 信長は孫子の九地篇から次の一節を意識して説明している。
   卒然とは常山の蛇なり。その首を撃てば即ち尾至り、
   その尾を撃てば即ち首至り、その中を撃てば即ち、首尾倶に至る
 孫呉の兵法と言われるように、孫子と並んで呉子も有名な兵法書である。
 呉子の第二篇・科敵において、次のように記される。
   長距離を徒歩して、先着者の休息は足りても、
     間延びして後続者はいまだ休息していないため、
     気勢の揃わない敵は撃破できます。
   河を徒渉し、半分が渡り了りおわり
     半分はいまだ渡らない敵は撃破できます。
   険しく、また狭い道路で前陣後陣が
     分離されている敵は撃破できます。
 信長の意図を察して、胡蝶は質問を変える。
「孫呉の兵法ね。でも、そんな都合の良い所があるの?それに街道は三つあるわよ。そこを都合良く通ってくれるの?」
「相原郷の街道はとにかく道が悪いから、大軍の移動には向かない。避けるだろう」
「だとすると、東海道か、今川が使い慣れている補給路になるわね」
「可能性が高いのは東海道」
「どうして?」
「先発隊に追い付くのに近道になる。わしが今川義元なら、先発隊は簡単に鷲津砦と丸根砦を落とすと考える。だったら、わざわざ遠回りして大高城を経由する必要はない。中島砦を攻める先発隊に早く合流したい。それに川を渡らずに中島砦の背後を狙える。もし、鷲津砦と丸根砦が落ちてなければ、織田主力軍はそこにいるから、中島砦は容易に落ちて、織田主力軍の逃げ道を塞げる」
「なるほど。今川義元は東海道を選ぶ可能性が高いのね。そうだとして、都合の良い所があるの?」
「ある。ここだ。林道がいくつかあって使える」

 信長は会心の笑みを浮かべて地図を指さした。桶狭間と呼ばれる地域である。『武功夜話』では田楽狭間、『信長公記』では桶狭間である。この物語ではまとめて桶狭間と呼んでいる。なお、桶狭間とは、名古屋市緑区から豊明市に跨る地域名であり、桶狭間地域の中に田楽坪という地名がある。
「あら。もしかして、この道、補給路にも行けるのね」
「わしらに都合が良いのは東海道。合流地点近くは街道の両側が深い泥田になっていて、重い鎧を付けて入れば動けなくなる。ここなら少人数で隘路を塞げる。1万を二つに分断できる。どちらの道でも中央で分断すれば、敵は5千。こちらは分断に5百を使って残る精鋭2千5百」
「5千対2千5百。やっと2対1。これで、勝てる状況が作れたわね」
「万一、相原郷経由だと、目も当てられんがな」
 勝てるとは言ったものの決して必勝という訳ではない。まだまだ「海道一の弓取り」今川義元を相手に半分の兵力で勝たないといけないのだ。それでも勝てる可能性が見出せた。それは二人にとって、大きな一歩であった。
「ん~。疲れた」
 信長は大きく伸びをして、横になった。その横顔を見ながら胡蝶も姿勢を崩した。
「次は実行計画ね」
「んん」
 胡蝶が気付いた時には、既に信長は寝息を立てていた。

(ビジネスメンター帰蝶の戦国記③に続く)

#創作大賞2024 #ビジネス部門


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