ビジネスメンター帰蝶の戦国記③

あらすじ
 主人公・濃姫(胡蝶)がメンター、織田信長がメンティとなり、壁打ちしながら戦略を組み立てる戦国ライトノベル。歴史を楽しみながらビジネス戦略の基礎知識に触れる事ができます。
 第1章・桶狭間の合戦は尾張統一を果たした岩倉城の戦いの後から桶狭間の合戦まで。ビジネス戦略のフレームワークや兵法を駆使し、圧倒的に不利な状況から勝機を見出し、戦略・戦術・行動計画を組み立てます。
 見えてきたのは桶狭間の合戦は信長が仕掛けた大博打という事。そんなメンタリング(対話による戦略構築)の面白さを共有できればと思います。


第1章 桶狭間の合戦
  ~信長様、鉄砲隊では勝てません~

第7節 戦術からアクションプラン・己を知る

 さらに翌日も、信長は胡蝶の寝室に来た。
「昨日の書き付けはあるか?」
「こちらに」
 胡蝶は昨日の書き付けを広げた。
・事前・善照寺と丹下に砦を築く。大高城、鳴海城の周辺で兵糧を焼く
・開戦・鷲津と丸根に砦を築く・吉良を焼く
・合戦・桶狭間で行軍中の義元を討つ
 ここからは、具体的な実行計画、つまりアクションプランである。アクションプランは、ビジネスでは費用を明確にすることが主目的である。収入は計画通りにはならない事が多く絵空事になりがちだが、出費は計画通り出て行く。大抵は超過して出て行く。もう一つの目的は労働負荷の見積もりである。戦国時代の戦仕度いくさしたくの場合は、こちらが主目的である。誰がいつまでに何をするかを決める。人が足りない場合、人は増やせないから、作業を減らす必要がある。どれを諦めるか決めないといけない。
 つまり『収支計画の見通し』と『労働負荷の見積もりと優先順位』をはっきりさせる目的で作成するのがアクションプラン・行動計画である。この時、重要な事は、自分の能力を正しく評価する事である。孫子の言う『己を知る』である。
「事前の鳴海と大高の兵糧を焼くというのは、いつも通り。砦も支配地域だから大丈夫」
 信長は自信を持って言った。
「開戦の、『鷲津と丸根に砦を築く』のと、『吉良を焼く』は、難易度が高そうね」
「うむ。まずは、砦構築組。ここに割り当てられた者は砦を作り、鷲津と丸根に籠城する。これを少人数で行う。今川軍が来たら多勢に無勢。頃合いを見て逃げるという判断が必要になる。出来る限り死んで欲しくないが、難しいだろう」
 信長は家臣や兵を無駄に死なせたくない。しかし、この方法が現在、唯一の勝ち筋なのである。負けたらどれだけ死ぬかわかったものではない。だから合理的に考えて、他に選択肢が無いのである。心苦しいのは、死ぬ人間を指名しなければならないということだ。数百人。二つの砦を合わせても千人居ないのに、相手にする今川軍は1万以上、もしかすると2万近くを砦に引き付ける事になる。生きて帰れる保証はない。そして、どこに間諜が居るか分からないので、味方であっても囮である事を悟られてはいけないのだ。
 砦は落ちる前提で考え、目的に合ったスキルで人選をしないといけない。
「そうすると、ここに充てる人は、それらの練度を上げないといけないのね。砦作りには素早さよりも腕力、砦の守りには剣術よりも槍術や弓術。鉄砲は敵に渡したくないので最後の籠城戦に回すのかしら」
「稲生の経験が役に立つものもいるだろう。だが、地形によっては砦作りに手間がかかる」
 実戦で現場を知っている信長は気になる点を指摘した。
「じゃあ、人が決まったら、忍び込んで、現地確認させた方が良いわね」
「人選が決まり次第、そうさせよう」
「砦作りに選ばれた人には、丹下と善照寺の砦を作りながら実地で訓練してもらう事になるのね」
「そうだな」
 信長の頭の中には、既に誰を充てるか決まっているようだ。
 一つ目の戦術が決まったので、胡蝶は二つ目の戦術に入る。
「じゃあ、つぎ。吉良は遠いわよ」
「分かっている。騎馬隊になる」
「どういう道順を選ぶの?大高や沓掛は今川よ。そんな所で戦っていては、吉良なんてたどり着けない」
 胡蝶はひと呼吸おいて続けた。
「往路で戦うような事があれば、帰ってこられないわよ」
「そうだな。まず中島砦までは問題ない。そこから先だが、村木砦攻略で一緒に戦った水野信元殿が居る。そこまでは夜のうちに駆け抜ける。その後、刈谷城まで一気に行く。足軽や鉄砲隊は連れて行かない」
「斥候に見つかったら?」
「斥候が今川に報告する頃には火を放って帰路についているさ」
「そうか、こちらは騎馬隊だものね。確かにそこまではできそうね」
「信元殿からは、岩倉攻め戦勝の祝いの文が届いた所だ。信元殿は対今川の最前線にあって、目立つ動きは出来ない。今川方から何度も寝返りを誘われているらしい。だから事前に馬を準備してもらうが、わしらがその馬を盗んだ事にする。なぁに、今川義元とはすぐに戦になるから、信元殿にはウソをつく間もない」
 胡蝶はそれで理解した。昨日、信長がいきなり吉良を焼くと言い出したのは、水野信元との繋がりがあったからだったのだ。刈谷まで無事にいけるなら、吉良は狙える。
「ちょっと待って、信長様が行くの?」
 信長は危険を承知で無茶をする。しかし、その表情には微塵も不安を色が無い。
「行かねば信元殿も納得するまい。仕掛ければ、今川の大軍が東海道をすり抜けていくのだからな」
 信長としては水野信元には、今川の大軍を相手にしないように言っておかないといけないのだ。先を急ぐ今川から攻めてくる事はないだろう。だが、水野信元は義理堅く、勇猛果敢な武将であるから、自ら打って出かねない。だから、信長が今川義元を討ったのを確認してから、追撃せよと伝えなければならないのだ。
 胡蝶にしてみれば、信長に無茶はして欲しくないのだが、受け入れるしかない。そういう人なのだ。
  (本当に心配ばかりさせるのだから)
「そうすると、吉良攻めの部隊には、騎馬が得意で長い距離を走っても大丈夫な者を選抜しないとね」
「そうだな」
 胡蝶がこの作戦に必要なスキルを指摘した。そして、続けて言う。
「吉良でも、出来るだけ多くの兵糧を焼きたいわね。でも、馬に乗る事と火をかける事は同じなの?」
「まあ、同じとは言い難い。行軍するだけなら差が無くても、騎乗しながら、上手く動けるものとそうでないものはいる」
「やっぱりそこでも練度の差がでるのね」
「そういう事だ」
「やっぱり、大高と鳴海で練習しないとね。どうすれば良く燃えるか試行錯誤するの」
「こちらも早めに人選したら、練習しないとな」
「そうね。鳴海城・大高城の兵糧を焼くときには中島砦を使うのでしょ?」
 地図を見ながら、胡蝶が確認する。
「もちろん、そうなる」
「桶狭間の下見もしっかりしておきましょうよ」
「わかった。中島砦から桶狭間に向けて邪魔になりそうなものは排除しておくように言いつける」
「今川にバレないようにね」
「そうだな。沓掛焼き討ちのための準備と伝える事にしよう」
 二つ目の戦術が決まると、なし崩し的に三つ目の戦術。合戦の話になった。
「新しい砦の構築組以外は、全て桶狭間で今川義元の首狙いなの?」
 信長の回答は分かっていて胡蝶が質問する。
「今川軍の先発隊が大高城、あるいは鳴海城まできている。これが那古野城まで進軍すると、わしらの兵糧を奪われることになる。桶狭間が決着したら、すぐに戻るが、間に合う保証はない」
「今川先発隊をどこかで足止めしないといけないのね。つまり、大きく二つに分けるという事ね」
「一つは桶狭間で今川義元の首を狙う。一つは先発隊を足止めする、となると・・・」
 信長は地図に目を向ける
「鳴海城の目先なら星崎城か、或いは、少し引いて山崎城で足止めしないと。いずれにしろ、状況次第」
「こちらには籠城に長けた者を配置しないとね」
「星崎城だと近すぎて、落とされるかもしれない」
「だったら、先発隊に落されて兵糧が敵に使われるのは困るから、兵糧は城兵にとっての5日分を残して、那古野城に輸送しましょう。それまでに決着がついていなければ、那古野城で籠城するのだから」
「敵が5倍だったら、1日分も無いという城にするのか」
「そう、那古野に籠城するつもりなら、今川軍の兵糧切れを待つ以外に勝てない。兵数が違い過ぎる」
 桶狭間でなら勝ち目があると言っても、少なく見積もって倍の兵力と戦うのだ。そんなに都合よく勝てるとは限らない。負けても全然おかしくないのである。
 もちろん勝つ前提だが、それに全面依存しない。失敗した時の傷口が小さくできるなら、二の手や三の手があるのなら、時間と手間の許す限り出来る準備は全て行う。コンティンジェンシープランである。それが胡蝶の考え方である。この戦はそれ程に重要、且つ、リスキーなのである。
「残りは中島砦から桶狭間に向かう」
「どんな部隊編成になるの?」
「まずは騎馬隊。そして、主力の槍隊、鉄砲隊。弓隊はどうかな」
「おそらく田楽坪のあたりで隊を整えて出陣ですよね。田楽坪と街道までの道は細いのですよね」
 胡蝶が念を押す。
「そうだ。隊を整えるのは、田楽坪を過ぎた所、釜ヶ谷だ」
「馬は速いから、信長様の言う通りに騎馬隊は働くでしょう、槍隊はどうでしょう?いつもの長い槍を持って走れますか?」
「・・・難しい・・・かもしれない。」
「長い槍を持って走って、東海道から見えませんか?」
「見えるかもしれない」
 地形を良く知る信長は少し考えた。
「全員分の馬が無いので、自分の足で走らせる事になりますが、槍が長いと走るのには向きません。見つかるかもしれません。けもの道のような場所は草木が邪魔をします。林道では尚更です。短い槍、或いは、刀剣でないと戦場にたどりつく事すらできないかもしれないのではないですか?」
「長槍を使う事ができないなら、長槍隊は、短い槍か刀剣による戦闘訓練が必要になるということか」
「はい。それに鉄砲隊が問題です。」
「鉄砲隊がどうした。鉄砲隊の練度は織田軍の強みだぞ」
「信長様、鉄砲隊では勝てません」
 そう言うと、胡蝶は続けた。
「鉄砲隊は事前準備が必要です。それに隘路を塞いで、敵を分断するのですよね。飛び道具では確実な分断ができません。だから先に騎馬隊や槍隊が突っ込むのですよね。そうなると乱戦ではありませんか。そんな所へ、鉄砲隊が到着して撃てば、味方まで撃ってしまいませんか?」
「近くからなら確実に仕留める事はできるだろう」
「そうかもしれません。しかし、鉄砲を撃つには火薬と弾の充填が必要で、撃つまでに時間がかかります。一発撃ったら、大きな音で自分の場所が敵に知られます。そんなに近づいたら、二発目を撃つ前に殺されます。上手く敵軍を分断できたとしても敵兵は倍の数です。だから、一発撃ったら火縄銃は置いて、刀で戦って敵兵を切らないといけません」
 技術力や特徴に優位性や自信があっても、それが市場のニーズに合ってなければ意味が無い。この場合、鉄砲隊という最新技術や長い槍という独自性、および、それらの熟練度において、信長は圧倒的自信がある。しかし、それが桶狭間の合戦という局地戦において、ニーズが合致していないのである。強いか弱いかではなく、合う合わないの問題なのである。
だから胡蝶は、組織変革を提案したのだった。

 強みは活かせる所で活かす。鉄砲は移動が遅く、発砲の間隔が長い。一方、音で馬を驚かし、遠距離から筋力の弱い者でも強者を殺す事が可能である。つまり移動のない籠城戦に向くと考えたのだ。
「となると、・・・」
「鉄砲隊・弓隊の多くは籠城組です。寧ろ、彼らの中で刀や短槍が使える者を桶狭間向けに訓練して、連れて行くようにしないといけません」
「私たちの優位性は、近くて地形を熟知している事、疲労が少ない事、そして、準備です」

 翌朝、信長は手勢を連れて中島砦から沓掛城近くまで、桶狭間地域、田楽坪周辺の視察に向かった。信長は三現主義(現場、現実、現物)を徹底していた。視察から戻ると、信長は隊を分け、伝令を飛ばした。

第8節 決戦、桶狭間

 信長の伝令が発せられた数日後、砦の構築や籠城戦の訓練を始まった。女子衆にも火縄銃の弾の充填方法を教えた。兎に角、兵が足りないのだ。これは今川軍が来た時に籠城するという考えを示していると理解され、今川方の間諜によって今川方にも情報が流れた。これは信長・胡蝶が意図したものではなかったが、今川義元の脳裏に織田は籠城するという認識を植え付けることになった。長槍隊には刀剣による乱戦の訓練が追加された。

 1559年夏になると、騎馬隊の練習をかねて、鳴海城、大高城周辺の穀倉地帯を狙って焼くようになった。恒例行事のようなものなので、今川方としては、「またか」という認識だったに違いない。これが後の吉良侵攻の良い予行練習となった。
 砦構築組は初秋までは体力トレーニングと砦作りの熱い議論を繰り広げた。中秋の頃になると、テストを兼ねて善照寺砦を作った。計画に見落としや間違いが見つかり、砦作りの見直しが行われた。
 1560年雪が消える頃、砦組は丹下砦を完成させていた。致命的な問題は見つからなかったが、いくつか計画に見落としが発見された。そして、吉良侵攻の計画から逆算して、鷲津砦・丸根砦の砦作りに着手した。尾張に残った主力が中島砦から出て、大高城、鳴海城からの妨害を阻止し、両砦の完成を支援した。信長率いる騎馬隊は田植えが始まる直前を狙って、吉良侵攻に向かった。

 5月5日、吉良侵攻は単に今川発祥の地、吉良を攻撃したという事実だけでなく、兵糧を焼き、田植えを邪魔するという意味でも十分な戦果を挙げる事ができた。鷲津砦・丸根砦の工事は順調に進み完成が目に見えてきた。少し前に大高城守備兵に見つかり、今川義元に伝令が飛んでいた。そして、その直後、吉良庄が焼かれた事が報告されると、今川義元は当然に激怒した。今川義元は檄を飛ばし、急いで軍を編成する。
 5月12日、田植えの繁忙期にあるにも関わらず、今川義元は僅か数日で約2万もの兵を集め、駿府を出発した。もし、田植えの繁忙期でなければ、・・・もし、今川義元が出陣の時機を決める主導権を握っていたら、その数は4万近くになっていたかもしれない。
 5月17日、今川義元は大軍を率いて沓掛城に入り陣を構えた。今川先発隊は僅かな休息で大高城に向かった。この時、もし、太原雪斎が生きていたら、状況は変わっていたかもしれない。太原雪斎は今川義元の軍師、あるいはメンターであった。今川義元と対等に議論をし、ある時は促し、ある時は、知恵を出し、ある時は諫める。そんな立ち位置に居た。そんな太原雪斎は1555年、60才で死去していた。以来、今川義元に意見する者は無く、今川軍は皆、今川義元の言葉に盲従していたのだった。
 5月18日夕刻、三河の竹千代こと、松平元康(のちの徳川家康)は、丸根砦からの妨害にあいながらも大高城に兵糧を持ち込む事に成功し、その後、今川先発隊が合流した。この事は斥候より信長に知らされ、19日の潮の干満に合わせて、鷲津砦、丸根砦を攻撃するという情報がもたらされた。

 5月19日、運命の日を迎える。今川先発隊の大軍が二つの砦の攻撃が始める頃、信長が動いた。信長が善照寺に達した時、鷲津・丸根の方角で煙が上がっており、既に陥落したものと思われた。事実、陥落しており、今川先発隊は鳴海城に向かう準備をしていた。大高城に兵糧を持ち込んだ松平元康はそのまま大高城で休息をとっていた。
 信長は事前に数名の斥候を出していた。その中で沓掛城を偵察に行かせていた梁田鬼九郎が「今川義元が沓掛城を出発した」と報告した。これで信長の想定通り、今川本隊が相原郷を通るルートを通らない事が確定した。その本隊の兵数は恐らくは5千強と推測され、多く見ても1万には遠く及ばないとの事だった。田植えの繫忙期に仕掛けたのが功を奏したようである。また先発隊にも多く兵を出したのであろう。この本隊の人数は胡蝶と戦略を練っていた時の想定の約半分である。しかも移動速度の遅い鉄砲隊・小荷駄隊(兵糧、武器、弾薬の補給部隊・後方支援)が多く含まれていた。先発隊が連れて行けなかった者たちが、今川義元の本隊に合流しているのだった。
 信長は更に馬を進め、中島砦に入る。この時、信長に従う兵士数はまだ2千に届いていなかった。これでも単純に今川本隊を中央で分断できれば、2対1ではなく、ほぼ拮抗する兵数である。完全に勝算が立った。
 事前に信長が恐れたのは、今川義元が相原郷ルートを通った場合の対応であった。確認せずに桶狭間で主力を伏せ、万一、今川義元が相原郷ルートを通った場合、何もできずに全ての砦、城を落とされてしまうという最悪のケースがあった。だから、相原郷ルートを通らない事を確認してからでないと、小心者の信長は動けなかったのだ。しかし、遅れてしまうと、枝道に入る前に今川軍の先頭と遭遇してしまい、本隊全軍と戦う事になってしまう。 斥候が如何に早く報告するかが作戦の成否に大きく影響していたのだが、梁田鬼九郎は信長の予想よりも遥かに早く報告したのだった。そのおかげで時間的余裕ができた。ここからはタイミングの勝負である。

 その後もバラバラと追い付く兵士が加わっていた。そこで、信長は中島砦守備隊に伝言を頼んだ。
「遅れた者も急いで釜ヶ谷へ向かうように。但し、一刻以上遅れたものはそのまま中島砦の守備隊に加わるように」
 そう言い残すと、直ちに、東海道を東進し、途中から枝道に入いると釜ヶ谷に向かって走った。
 一刻近く遅れてしまった佐々隊・千秋隊の約3百人は、慌てて信長を追いかけたが、今川軍先頭に見つかってしまい、信長が隊列中央に突撃する前に、今川軍隊列最前線で乱戦になってしまった。多勢に無勢で50人前後が命を落とした。しかし、その中でも前田利家ら数人は乱戦を切り抜け、更にはいくつか敵の首をとって信長に合流した。

 信長が釜ヶ谷に着くと斥候の一人、梁田弥次右衛門が待っており、現在、今川本隊は東海道を中島砦に向かっていると報告された。それは概ね信長の予想通りの位置であった。
 この日、信長に熱田大明神のご加護があった。激しい夕立である。これは双方にとって体力を奪い、双方の鉄砲の種火を消す事になった。しかし、今日城を出てきた織田軍に対して、駿府を出発して既に7日が経過し、疲れが出始めた今川軍。鉄砲隊を籠城組にまわした為、鉄砲隊が少ない織田軍に対して、足が遅いために先発隊に置いて行かれた鉄砲隊が多い今川軍。激しい夕立の影響は今川軍の方が大きかった。しかも、ここ数ケ月剣術を練習してきた織田軍鉄砲隊と異なり、今川軍の鉄砲隊は優秀だが刀剣で戦う準備は無かった。その鉄砲隊が行軍中に種火を消してしまったのだ。撃てない鉄砲隊は案山子と同じである。激しい夕立は、一方的に今川軍の戦力を大きく削いでいた。
 雨が小降りになった所で、信長が叫ぶ。
「掛かれ!掛かれ!」
 今川本隊に織田の騎馬隊が押し寄せる。続いて刀剣や短槍で武装した足軽たちが続く。
 今川軍は織田軍の突撃に気付いたが、小雨の中、ほとんどの鉄砲隊は何も出来ないまま切り捨てられた。後方の異変に気付いて行軍の前方から応援を出そうとするが、織田軍の一部が隘路を塞ぐ。数人対数人の同数勝負なら織田軍の方が優勢である。それを見て迂回しようとすると、隘路の両側は草木が茂る深い泥地である。先ほどの雨でぬかるみ、思うように動けない。他方、行軍の後方は非戦闘員で構成される小荷駄隊であり、大混乱していた。
こうなると一方的蹂躙である。
 3百騎程が今川義元を守りながら、逃げ道を探していた。ラグビーのモール戦のような動きであった。今川義元は、一旦は沓掛側に逃げようとした。しかし、行軍の後方は小荷駄隊の大混乱が邪魔になって思うように動けない。そうこうするうちに、織田軍の攻勢に次第に数を減らしていた。そこで、沓掛城へ行くことを諦め、側道を見つけて大高城側に逃げようとした。
 時は既に遅かった。遂に、服部春安、続いて毛利良勝が今川義元に迫り、その首を獲ったのであった。
 その瞬間、どよめきが戦場に広がった。今川軍には動揺が走り、織田軍は沸き立った。そのまま今川軍は総崩れとなった。織田軍の圧倒的勝利であった。

 信長は、今川義元の首を確認すると、今川軍の捕虜3人を連れてくるように言った。そして、捕虜3人に今川義元の首を見せながら、
「『今川義元は討たれた。背後から織田が来る。星崎城にも砦にも兵糧は無い』と織田・今川双方に聞こえるように叫びながら星崎城まで走れ。わしは沓掛を落としたら、お前たちを追いかける。次、星崎以外でこの顔を見る時は死ぬ時と思え」
 勝負はついた。今川先発隊が星崎城を攻めても、すぐに落ちなければ背後から織田主力に攻められて挟み撃ちになる。今川義元を討ち取った精鋭である。仮に星崎城や砦を落としても兵糧はなく籠城できない。兵糧の少ない今川先発隊への脅しである。今は、信長は兵数の少ない籠城組・砦組が気がかりだった。戦の勝敗に関係の無い死は避けたいのである。
 信長はその後、一旦は沓掛まで追い打ちをかけたが、小荷駄隊の兵糧に火をかけると早々に切り上げ、すぐに中島砦に急いで帰った。もし、まだ今川先発隊が星崎城を攻めていたら援護に行かなければならない。万一、早々に落ちていたら山崎城か那古野城に向かわないといけない。
 だが、信長の懸念は杞憂に終わる。今川義元が討たれた事が伝わると、今川先発隊は瓦解した。信長が善照寺に戻る頃には、今川先発隊はいなくなっており、結局、星崎城籠城組も無事であった。
 松平元康(竹千代・後の徳川家康)は持ち込んだ兵糧があるので、大高城に一旦は籠城したが、今川義元が討たれた事を確認すると脱出し、今川軍が撤退して空になった岡崎城に入った。
 兵糧が入らない事が明らかになった鳴海城の岡部元信は脱出できず籠城するが、すぐに兵糧が尽きて投降した。鳴海城の足軽たちは、もともと山口教継の寝返りで今川方にならざるを得なかった者が少なくない。その中には、信長が子供の頃から合戦ごっこをしていた者も含まれていた。そうした事情もあり、足軽たちの話を聞いて、岡部元信の助命を了承した。そもそも人の無駄な死は信長の好む所ではないのだ。
 また、この時の前田利家は、まだ譴責処分のままであり、許しを請うための参陣であった。大活躍したにも関わらず、信長は前田利家を許していない。それ程に、無駄な死に対して強い嫌悪を持っているのだった。
 なお、岡部元信は駿府へ戻る途中、刈谷城を攻め水野信元の弟・水野信近を討ち取っている。助命した事で安全に駿府に戻る事を保証した者が、途中で信頼を裏切り信長の味方を殺した事になる。これもまた、信長にとっては、無駄な死であった。つまり、岡部元信は内心では信長を馬鹿にしており、メンツを潰した事になる。このことは今川氏真をとても喜ばせ、信長をひどく狼狽させた。後日、第二次高天神城の戦い(~1581年)で、岡部元信が投降し助命を願い出た時、信長が家康に岡部元信の投降を拒否させた最大の理由である。
 信長の信念として、一度信頼を裏切れば、二度目は無い事を内外に示す必要がある。ゲーム理論の『しっぺ返し戦略』である。信賞必罰である。しっぺ返し戦略は単に勝つ為の戦略だけでなく、敵味方に自分の行動を予測させる事になり、相手の行動を牽制する効果がある。
 こうして、桶狭間の合戦は幕を閉じた。

 首実検では、捕虜となった今川義元の同朋衆の一人が立ち会った。首実検の後、この同朋衆には、金銀飾りの太刀・脇差を与え、今川義元の首を持たせて駿河に送り返した。さらに清州から熱田に通じる街道に義元塚というものを築かせた。ここで千部経を読経させ、大きな卒塔婆を立てて今川義元を供養した。戦国の世でなければ、或いは、立場が違えば、と信長が思うような人物だったのだ。
 6月に入ると、石ヶ瀬の戦いを皮切りに、織田の支援を受ける水野信元と今川方の松平元康は、ぶつかることになる。今川からの支援が得られない松平元康は苦戦を強いられた。信長としても人質だった頃の竹千代を知っているので、討ちたい訳ではない。そうした意を汲んだ水野信元が仲介する形で、松平元康(徳川家康)は織田と同盟を組むのである。桶狭間の合戦の翌年、1561年のことであった。本来の家格が近い事もあり、信長と家康はこの後、互いに強く信頼を置くことになる。
 今川義元が討たれた後、今川氏真が後を継いだ。今川氏真は、松平元康からの支援要請を受けた時、支援したいと思っていた。しかし、この時、武田晴信(信玄)は三国同盟を理由に、執拗に今川氏真に出兵を要請した。表向きは当然、小田原を攻める上杉謙信への対策である。しかし同時に、弱体化した今川を攻める口実にしようと考えていたのだ。立場が弱くなった今川氏真は、武田晴信に今川攻めの口実を与えないために、武田の上杉攻めに付き合うしかなかったのだ。そのため、松平元康を支援する余裕がなかったのである。松平元康の離反をきっかけに、今川氏真は急速に力を失っていく。

 結果的に戦国の世を大きく変える転換点となる桶狭間の合戦。1年遅ければ、戦力差は更に大きくなり信長に勝機は無くなっていた。現地確認して準備を整え、吉良侵攻で主導権を握り、迷わず行動した事により千載一遇の機会を手にした。信長の大博打は会心の勝利で終わった。
 局地戦で最重要ポイントを奪取する、ベンチャー企業がビジネスチャンスを掴んだ瞬間を彷彿させる戦国イベントであった。


(ビジネスメンター帰蝶の戦国記④に続く)

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