結局、“変わらない”安心感や普通であることにいちばん幸せを感じて過ごしたい
音楽を聴いていると、ふとその歌詞に「なるほど〜」とか「たしかに〜」と妙に納得してしまうことってありませんか。
私の好きな歌に、こんな歌詞があります。
『明日と今日はつながってる。なのにどうして、日付ひとつで変われるの?』
もう解散してしまったけれど、ハロプロ出身の鈴木愛理さん、夏焼雅さん、嗣永桃子さん3人のユニット、Buono!の『Last Forever』という曲です。
昨日と今日、明日、明後日と時間は流れる。
朝が来て、昼が来て、夜になって眠ってまた次の朝が来る。
地球が自転し昼と夜を繰り返すのは、身近なものに例えると山手線をぐるぐる周回する電車に似ているけれど、その一見何も変化のない、安定感のあるルーティンに安心しきってしまうと、いつかきっと後悔することもあるのかな、なんて感じます。
明日と今日はつながっているけれど、決して“同じ”ではない。
アハ体験の間違い探しみたいに、「意識しなければ気づかないままスルーしてしまうけど、正解を見た後にとんでもなく違うものになっている」ことに気づき、何で今まで気づけなかったんだろう、なんでもっとよく見てなかったんだろうと、そこで自分の愚かさを知る。
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人間関係についても、ちょっとした変化に気づけたり気にかけられるかが大事だと思う。
ある日、一人暮らしの部屋で普段通りの休みを過ごしていたところ、実家の母からLINEが来ました。
母はときどき、LINEとTwitterを間違えているのではないかと思うような「つぶやき」を送ってきます。
例えば、
「これから銀座へショッピング♪」
「久しぶりに買い物楽しかった♪」
「今日はジムで運動。つかれた」
私はそのLINEをみて、心の中でよかったねと返事をし、老後を楽しそうに過ごす母を微笑ましく思いながら、ただ一応スタンプで返信します。
デフォルトのクマとかうさぎではない、ちょっと可愛いキャラクターのスタンプ。
それから数日後、再び母からLINE。
「元気してますか?」と。
「元気だよ」と一言返すと、「今度いつ帰ってくる?」と。
LINEの文字から伝わってくる感情とか表情ははっきりと見えない。だから、受け取るこちら側が想像してあげることが大事です。
実家には片道1時間くらいで帰れるし、”今”じゃなくても帰ろうと思えばすぐに帰れるからと思って今まで過ごしてきたけれど、
今じゃなくても、今じゃなくてもと楽観的に時間だけが過ぎていき、肝心なその「今」に気づく時はくるのかどうかと問われると、きっと答えられないと思います。
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人はみな平等に歳をとる。自分が1歳歳をとれば、親だって1歳歳をとる。
その事実は当たり前のことだけれど、10年後や20年後の当たり前は、誰にも分からない。
10年度、自分はまだ元気で仕事していたり(たぶん)結婚して家庭をもって暮らしているだろうと想像することが当たり前でも、10年後、高齢者になった親が今と同じように元気でいてくれるかは、当たり前ではないと思う。
もちろん、元気でいてほしいと思うけれど、年齢を考えると現実的なことも考えるようになります。
だから、もともとそのつもりはなかったけれど、母にLINEしました。
「明日休みだから、仕事終わったらそっち帰ろうかな?」と。
実家に帰ると、いつもと変わらない母の姿。母の晩ご飯。
今見ているドラマの話になって、「あれ観てる?」「あれが面白いよ」等とプチ情報交換したり、ショッピングモールに出かけてご飯をたべながら話をしたり、ただ普通の時間を一緒に過ごしました。
「普通」をちゃんと感じられるって幸せ。
明日と今日はつながっている。でも、つながった先に何が見えるのかは想像してみることしか出来ない。
いつも通りの普通の「明日」かもしれないし、いつも通りの日々が急に変わってしまう初日になるかもしれない。
明日と今日はつながっている。日付ひとつで「変われる」と可能形でいうとポジティブだけど、「変わってしまう」ということもできる。
もし、親が病気や認知症になって、今普通にできることが当たり前じゃなくなった時、「変わってしまった」と悲しい気持ちや後悔を全く感じないのは無理だと思う。
でも、その日からどうスタートを切れるかは、「普通」であった日々を疎かにしないで幸せを大切にしてきた”思い出”や“記憶”で心強くなると思う。
だから「普通」であることに安心しきらず、甘えず、面倒くさがらないことを、いつも心の片隅に置いて過ごしていきたい。
・・・と、ちょっと真面目に考えていたところ、後ろで母がソファーに寝転んで「フガ—」と鼾をひとつ。
今のところは何事もなさそうで、安心です。