マガジン一覧

空よりも軽い

これはすべて、現実のこと。

空よりも軽い (1)

   空よりも軽い 丸山 篤郎     光が流れ落ちてゆくのを見ていたら、それは明るい雨のようだった。  ゆっくりと光が白く溶けて、私はキッチンの壁を見上げていた。壁には五十音のポスターが貼ってあって、〈く〉だと茶色くてまるいクマ、〈ふ〉だと白いカバーに包まれた布団、そうやって文字の横にイラストが描いてある。  これは? あ。これは? い。  母親が指さす文字を見上げ、私は答える。私が文字を読み上げるたびに母親はおかっぱの髪を軽く揺らし、嬉しそうな顔をして、そう、

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空よりも軽い (2)

 私が出会った小学生のなかで、広田くんは一番いろんなことを知っていた。学校の勉強は苦手のようだったが、彼は私の知らないことをいっぱい話してくれた。広田くんには中学一年のお兄ちゃんと、小学二年のコウタくんが弟にいて、時々彼の話に出てきた。  ゴールデンウィーク明けの教室は窓の外がやけに青くて、日の差さない室内は暗かった。短い休み時間に私の隣にやってきた広田くんは、しんちゃん、バイクに乗ったことあるか? とたずねた。私は首を振った後、あ、でも、お祖父ちゃんのバイクの後ろに乗せて

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空よりも軽い (3)

 毎朝六時に起きて、顔を洗って中公園に行くのは大変だ。もっと寝ていたいのに外が明るい。ビニールの紐が通された青い台紙に白いざらざらした紙が貼り付けてあって、ラジオ体操が終わると大人がハンコを押してくれる。元気そうな男の子のハンコ。七時前には太陽が高く上って公園の広場にほとんど日陰はない。広場を取り囲む森から蝉たちの合唱が響いていて、池田くんも大木くんも初日だけ来て、あとはずっといない。大木くんの弟は毎朝来ている。まだまだ先だと思っていたらいつの間にかハンコはいっぱい押されてい

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空よりも軽い (4)

 部下の子がね、泣いちゃって、もう泣くなんてやめなよって思ったけど会議室で二人だったからうんうんって話すのを聞いた、わたしも若い頃あったな、あれ、つらいとか口惜しいとか、そういうんじゃないんだよね。なんだかわからないかたまりがブワッてあふれてくるの、自分でもどうしようもないんだよ、それで泣いたらあとはスッとするんだよね。浄化っていうの? そう、わたしたちは自分で浄化できるんだ、それって側から見たら滑稽かもしれないけど、美しいことだってわたしは思うんだよね。  キッチンで話し

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パースペクティブ

冒険は、日常の中にあるのだ。

パースペクティブ (1)

 ある春の日、土の上に小さな二枚葉が顔をのぞかせていた。  知人の冷蔵庫に入っていたその種を一年前に蒔いたことは覚えていても、何ヶ月経っても芽を出さないので、保存状態が悪かったせいでもう死んでいたのだろう、そう思い込んでいたのだが、その日ベランダで伸びをしていたら、片隅に置いてある植木鉢の端から、小さな緑が顔を出しているのを見つけたのだった。  植木鉢をのぞき込みながら、すごくない⁉︎ とぼくは言った。水をあげていない時期もあったのに、今になって芽を出したのだ。これを生命

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パースペクティブ (2)

 閑静な住宅街に立つ低層マンション、といえば聞こえがいいが、アパートに毛が生えた程度の我が住まいを後にし、ぼくは駅へ向かって歩いた。途中、大きな銀杏がすっくと立つ小さな坂道を下り、かつては坂道の中腹に通行人から餌をもらう野良猫がたむろしていたのが、今ではすっかり姿を見かけなくなり、寵を受ける一事のみで生き抜くことの大変さをしみじみと感じつつ、駅へ向かう。パンデミック以降、このあたりもすっかり人通りが減ってしまった。それでも午後の三時頃には近くの小学校から大量の児童が解き放たれ

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パースペクティブ (3)

 テーブルの前の丸椅子に座ると、女性は上目遣いでぼくを見たが、彼女の目元がどことなく死んだ祖母に似ているような気がして、ぼくは気味が悪いと思うこともなく神妙にしていた。 「道に迷ったんだね?」  想像していたよりやや高い声で女性が尋ね、ぼくはうなずいた。女性は金と黒の編み込みが入った灰色のセーターを着ていて、化粧はそんなに厚くなかったがマスカラが少し取れて目の周りが黒く、彼女の顔を見ているうちにぼくの死んだ婆さんはこんな顔をしていただろうか、さっきの印象は何だったのだろう

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パースペクティブ (4)

「えっ」  突然のお告げに驚いてぼくは占い師の顔を見たが、彼女は卓上のカードをじっとのぞき込んだままだったので、彼女の髪の生え際がうっすらとピンク色なのがよく見えた。そのピンク色と子どもを授かるという宣告とが目の前で混ざり始めると、テーブルの上に置かれたカードの絵柄は、胎内で目覚めを待つ赤子のように見えてきたのだった。 「子どもって、ぼくの子どもですか?」 「そうです」 「いつ頃のことなんでしょう、それは」 「もうすぐですね」 「もうすぐ!」  子どもができることすら想

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森とクジラ

都会を離れて海辺の町へやってきたミトは、海岸沿いのカフェでオオノと、森のなかでキタムラさんと出会う。静かに降り積もる時間とそれぞれの思い。

森とクジラ (1)

 南へゆっくり下る長い道の先に海が見えた。  薄水色をした水面がうねりながら盛り上がると、あちこちで小さな波が生まれては浜に寄せ、やがてまた別のどこかで海が盛り上がった。  さっきまで集落を照らしていた太陽は山の陰に隠れ、あたりは涼しかった。来た道を振り返ると、新居は緑に覆われた小山のふもとに見えなくなっていた。今日からこの土地で暮らすんだ、そう思うとミトはなんだかくすぐったいような、ちょっと心細いような気がした。  海へと続く道の途中にある踏切で警報機が鳴り、ゆっくり

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森とクジラ (2)

 濃紺色のウェットスーツに身を包んだ男は、まだ乾ききっていない長髪を振り乱しながら店の外を指さした。 「何か?」 「よくわからないんだけど、サメじゃないみたい。かなり大きいよ」 「なんだろう?」  オオノがカウンターから出ていくと他の客たちも気になる様子で後についていくので、ミトも立ち上がって外へ出た。人々は駐車場を横切り、道路を渡って、海沿いの歩道から海を眺めた。  夕方の海は濃い青色にうねっていて、上空を二羽の海鳥が飛んでいった。オオノの横に立って遠くの海面を見てい

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森とクジラ (3)

 翌朝ミトが目を覚ますと、まだカーテンのついていない窓の外が明るくなっていた。スマートフォンを持ち上げて見ると、いつも起きる時間よりずいぶん早い。  ベッドから降りて歩き出すと足元で木張りの床がミシミシと音を立てた。使い込まれて飴色になった床を素足で歩いていると、この家の歴史に直接触れている気がした。  古ぼけた鏡の前に白い陶器のボウルが置かれただけの洗面台で、ミトは顔を洗った。白いボウルのなかで虹色に輝く水しぶきを手のひらに集めて顔につけると、冷たい感覚がミトの内側に染

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森とクジラ (4)

 森の小道からやってきたのは、一人の老婦人だった。  灰色がかった髪を後ろに束ね、紺色のジャージのセットアップを着た婦人は、少し背中が曲がっていたが静かな目をしていた。ミトと目が合うと軽く頭を下げ、婦人は泉の前にしゃがみ込んでじっと手を合わせた。なんとなく邪魔をしてはいけない気がして、ミトは物音をたてないようにその場で立っていた。  やがて彼女は背負っていたリュックを下ろすと空のポリタンクを取り出し、泉の水を汲み始めた。コポ、コポと音を立ててポリタンクのなかに水が流れ込ん

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Game Start

子供と一緒に始めたオンラインゲームのなかで、ぼくは知らない男に声を掛けられた。彼に託されたものは…。

Game Start

(1)  ステイホーム期間中に、10歳の息子と一緒にビデオゲームをするようになった。  ゲームをやらなくなって久しいのだけど、大学時代の先輩から偶然古くなったゲーム機を譲っていただいたこともあり、子どもとゲームでもやるかという気になった。昔なら父親と息子はキャッチボールなんかをやるものだけど、今はビデオゲーム。時代が変わったんだなと思う。  息子がやっているのはジャンルでいえばバトルゲームというのだろうか、未来の世界に降り立ったプレイヤーがランダムで100人集められ、バ

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降下作戦

(2)  オンラインゲームで知らない人から一緒にプレイしないかと誘われた。そんなことは初めてだったので、緊張とちょっぴりの不安、そして子供の頃のようなワクワクした気持ちになった。  新しい世界の扉を開ける感じ、今まで知らなかった世界から呼ばれる感じ。  そんな雰囲気を感じ取ったのか、朝の食卓で「父ちゃん、なんかいいことあったの?」と息子が聞いてきた。 「なんだかソワソワしてるよ」 「そう?」  昨夜オリジン・シティを歩いていると、知らないプレイヤーから一緒にプレイし

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初めて出会ったVTuber

(3)  朝、ベッドから起きだしてリビングルームへ行くと、息子が興味津々な顔で駆け寄ってきた。  昨日はどうだったと聞くので、砂漠の地下にある遺跡で光の玉に触れたら全部消えた、と言った。 「消えたって?」 「消えたんだよ、何もかも。気がついたらオリジン・シティに戻っていた。《ダズ》もいなくなっていたんだ」 「ダズって?」 「父ちゃんを誘ったプレイヤーだよ」  ふうんと言って息子はソファの上に放り出してあったコロコロコミックを手に取った。 「それで?」 「それだけ」

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砂漠で水を汲む

(4)  あざやかな手並みで暴漢たちを片付けた美少女は、ゆっくりとこちらに歩いて来た。  少女はぼくのそばにしゃがみこむと、救急セットを取り出して治療してくれた。回復液をかけ、包帯をぼくの足に巻きつける彼女の黒髪のあいだから、ネコのような獣耳が二つ顔をのぞかせていた。 「ずいぶんやられたね、間に合ってよかった」 「あいつらは?」 「さあ、面白半分で他人を襲うプレイヤーキラーならいいんだけど」  体力が回復してお礼を言うぼくに彼女は小さくうなずき、魔法使いがかぶるような

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神様がきた

郊外の町を舞台に、日常に差す光を描く小説です。

神様がきた (1)

 笑ったり落ち込んだりするぼくたちの毎日に、思いがけない静寂が訪れるときがある。  早朝の路上や、見上げた街路樹から光がさしこむ午後。それから雲の切れ目に小さな星を見つけたとき。時間が止まったような感覚がぼくたちに訪れる。  厨房の片隅や電車を待つ駅のホームで、ふと頭をよぎる考えがある。シンプルに生きられればいいなと思う。澄んだ気持ちでこの世界を見られたら、もっと近くに感じられたら。  日々の暮らしのなかでわずかに扉が開いた瞬間、無色の光がぼくたちの意識に差し込む。その

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神様がきた (2)

 目が覚めると窓から白い光が差し込んでいた。ベッドから起き上がり、カーテンを開けると、住宅地の静かな朝の景色が窓の外に広がっていた。  洗面台で顔を洗ったとき、指先に灰白色のペンキがついているのに気がついた。石鹸をつけて何度も洗ったが、ペンキは取れなかった。  インスタントコーヒーをいれ、スマホをいじりながら、昨日コンビニで買った菓子パンを食べた。コーヒーを一口飲んで見上げると、窓の外にくっきりとした光が輝いていて、今日、季節が変わったのがわかった。窓を開けて外に顔を突き

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神様がきた (3)

 ぼくたちは電車の高架に沿って駅の方へ歩き出した。横断歩道で信号が変わるのを待っていると、光にあふれた駅ビルからばらばらと人々が出てきた。 「この町のことまだよく知らないから、ちょっとお店を開拓してみようと思って」 「サエキさん、ここの人じゃなかったの?」 「先月のはじめに引っ越してきたんです」  駅から出てきた人々は、住宅地の方へと静かに歩いていた。古い雑居ビルが通り沿いに立ち並んでいて、牛丼屋や消費者金融やスナックに混じってチェーンの居酒屋の看板が黄色く光っていた。商

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神様がきた (4)

 バイトが休みの日でも、ぼくは普段と同じような時間に目を覚ました。休みの日は洗濯をしたり、部屋を掃除する時間があって気持ちがすっきりとする。それにゆっくりランニングする時間があるのがうれしい。  ぼくは速く走れるわけではないし、距離もそんなに長くは走れない。一度に走るのは五キロほどだ。だが走るのは好きだ。  いつのまにか走るのが好きになったのは、きっとこの住宅地のある丘のせいだろう。傾斜のきつい坂を上るときは息が上がるし、いつも走るルートの途中には百段ほどの階段があって、

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