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空よりも軽い (2)

 私が出会った小学生のなかで、広田くんは一番いろんなことを知っていた。学校の勉強は苦手のようだったが、彼は私の知らないことをいっぱい話してくれた。広田くんには中学一年のお兄ちゃんと、小学二年のコウタくんが弟にいて、時々彼の話に出てきた。

 ゴールデンウィーク明けの教室は窓の外がやけに青くて、日の差さない室内は暗かった。短い休み時間に私の隣にやってきた広田くんは、しんちゃん、バイクに乗ったことあるか? とたずねた。私は首を振った後、あ、でも、お祖父ちゃんのバイクの後ろに乗せてもらったことがあるよ、と思い出して言った。それ、走ったわけじゃなくて、止まってるバイクに座らせてもらっただけだろ、広田くんに言われて、たぶんそうなのだろうと私はうなずいた。お祖父ちゃんは私が三歳のときに病気で亡くなっていて、バイクに乗った記憶もない。ただ写真が一枚家に残っていて、小さな赤と白の子供用ヘルメットをかぶった二歳くらいの私が、バイクの後部座席に座ってこちらを見ていたのだった。その硬くて黒いシートの感触だけでも体のなかに残っていたら、私は今でもお祖父ちゃんと一緒にバイクに乗っていたはずだ。

 こないだの休みにさ、兄ちゃんが自転車を改造したんだよ、バイクのエンジンを載せて、すっげー速く走れるようにしたんだ。そんなことできるの? 広田くんはいつもとんでもないことを言って私をおどろかせる。だが広田くんは平気な顔で、兄ちゃん機械に強いからさ、そんなの簡単なんだよ。オレも手伝ったよ、エンジンを載せるときにオイルの匂いがするんだ、手もベタベタしてさ、でも、機械に触ることはそういうことだって、兄ちゃんが言ってた。それで、その自転車で走ったの? ああ、エンジン積んでるからパワーがあるだろ、後ろの荷台にさ、板乗っけて、その上に大きな段ボール箱をかぶせてガムテープで補強して、そこに部屋をつくって乗れるようにしたんだよ、オレとコウタが入れるくらいの大きさで、つってもかなり狭いけど。カッターで段ボール箱に四角い窓をつくって、外の景色が見えるようにした。それでオレとコウタが後ろに乗って、兄ちゃんが運転して、海沿いの国道を走ったんだ。広田くんは目を細めて窓の外を見た。私は勢いよく国道を走る改造自転車を思い浮かべ、小さな窓から段ボール箱のなかに吹き込む五月の風を感じた。改造自転車はものすごいスピードで走り、遠くの水平線は太陽の光を反射して小さな粒がいくつも光っている。窓から外を見てたらさ、車を運転してる人と目が合って、オレとコウタを見てすっげーおどろいてるの、なんで子供がこんなことしているのって顔して、しかもこっちの方が速いんだよね。あれは六十キロは出てたな、どんどん車との距離が広がっていって、大人たちが小さくなっていくのは面白かったよ。広田くんはそう言って目を輝かせた。ねえ、ぼくも乗せてくれない? 私がそう頼むと、広田くんはうん、ああ、と口ごもってから、それがさ、スピード出して走りすぎたせいで自転車がぶっ壊れてさ、もうないんだよ。もうない? そう、廃車っていうのかな、エンジンも故障して、ほら、もともと自転車だろ、フレームもバラバラになっちゃって。私はとても残念に思って、せめて改造自転車の残骸だけでも見てみたいと食い下がったが、広田くんは取り合ってくれなかった。

 広田くんと話をしているとあっという間に時間が過ぎていく。いつも話すのは広田くんで、私はずっと聞き役だったが気にならなかった。放課後も広田くんの話が聞きたかったけど、帰り道が逆だったし、彼はいつも忙しいようで、広田くんと遊ぶチャンスはなかなかやってこなかった。ある日小川先生に、いつも広田くんと仲良くしてくれてありがとうね、と言われた。岡田くんや山口くんと遊んでいてもそんなことは言われないのに、どうして先生がそんなことを言うのか、私にはわからなかった。

 雨がよく降る日が続き、体育館で体育をするようになった。雨が屋根を叩き、ゴーッという低い音に包まれながら跳び箱をやった。体操服は濡れているわけでもないのにじっとり重たくて、順番を待つ女子たちのグループの明るい声が高い天井に跳ね返った。列の先頭から走り出し、跳び箱に手をつくまでの二、三秒は残酷だ。でも白くて硬いマットの上に着地した男子たちは目を輝かせて、その残酷さをすっかり忘れている。広田くんは私から少し先で順番を待っている。足元をきょろきょろ見たり、体育館の二階部分にある窓から空を見上げたりしている。順番が来て、広田くんは両足をやや広げたフォームで走り出し、四段の跳び箱のかなり手前でダンっと跳ぶ。薄汚れた白いクッションに手をつき、遅れて開脚したお尻がクッションに座り込む。広田くんはうつむき加減にマットの上を歩いてこちらに戻ってくる。私はほっとしたような、がっかりしたような気持ちで前の子の後頭部を見る。前の子がマットの上を歩いていくとずいぶん遠い気がする。私は走り出す前から恥ずかしくなっている。踏切板と、クッションと、天井で輝く照明と、外の雨の音が入り混じってぐちゃぐちゃしたなかに私は飛び込む。惜しい、あとちょっとだね、と先生の声が背中に張りつく。私は生乾きの匂いがする。

 オレ、背が低いから不利なんだよ。体育館と校舎を結ぶ屋根のある通路を歩きながら広田くんが言う。跳び箱の上も長すぎだしさ、もうちょっと短かったら飛べるよ、しんちゃんだってそうだろ。鯉の池に小さな波紋がいくつも生まれては消えていく。不利だ、ずるい、と広田くんはまだ言っている。池の底や横のところには黒いタニシがいる。鯉は生き物係が毎日餌をあげているけど、タニシは何を食べているんだろう、遠くの校庭が白くけぶっている。どうかなあ、ぼくは運動苦手だからなあ。体を動かそうとするとぎくしゃくして、何かがおかしいという思いがいつも体に張りついている。大勢に見られると自分のぎこちなさが恥ずかしくなる。しんちゃんは背が高いからさ、跳び箱が低過ぎるんだよ、逆に。校庭のあちこちに水溜りができている。前の方の廊下で梅野くんか誰かのふざけた声が反射している。給食カレーかな、広田くんは調理室から漂ってくる匂いをつかまえる。火曜日と金曜日はご飯の日なので、私は嬉しい。

 

 雨が降らなくなって、校庭の上空が真っ青だった。業間休みにみんなで泥警をやって、私と広田くんは二人とも泥棒だったが捕まってジャングルジムの牢屋に入れられていた。見張りの女子が目を光らせ、校庭を逃げ回る同級生たちはクルクル回転しながら水のなかを進む小さな昆虫だ。広田くんは私の隣で腕をだらんと鉄棒から垂らして、昨日と同じ白いTシャツを着ている。梅雨が明けて暑くなると、広田くんからは少し匂いがした。

 鉄の棒に掴まりながら助けを待っている間、不思議なものを見たことがある、泡が弾けたみたいにパッと思い出して広田くんに言ったら、おどろいたような顔をしてから、なんだよ、それ、と広田くんは不機嫌そうに言った。どうしてそのことを思い出したのかというよりも、どうしていままで忘れていたのだろうと私は思った。二年生のときに、UFOを見たんだ、えーっ、嘘だろそれ、いや、本当に見たんだよ、近所の友達と中公園で遊んでたんだ。四、五人はいたよ、アスレチックジムにのぼってみんなで遊んでた。ぼくたちの他に誰もいなくて、三時か四時ごろだったなあ、アスレチックジムの一番上にみんなで集まっていたら、東の空にオレンジ色のまるい光が浮かんでたんだ。

 最初に気づいたのは私だった。それは音もなく静かに浮かんでいた。西日を浴びた飛行機か何かだと思ったのだが、一箇所にじっとしているのはおかしいし、ヘリコプターでもなかった。まるい楕円形をしていて、私はあれ、とだけやっと声を出して指さした。いつもなら公園の前の道を走る車の音が聞こえてくるはずなのに、あたりはテレビのミュートボタンを押したみたいだった。みんな黙って空に浮かんでいるそれを見ているうちに、オレンジ色のそれはゆっくりと動き出した。こちらに近づいてくると、楕円形のなかに小さな窓のような白い光が見えた気がした。怖いと思う間もなくそれは私たちの頭上に迫ってきて、それから海の方へと方向を変えて飛んでいった。

 ほんとに見たのそれ、つくったんじゃないの? 広田くんのつくったという言葉の意味がわからず私は首をひねった。本当に見たんだよ、ぼくだけじゃなくて、池田くんも大木くんも大木くんの弟も見たんだよ。ほんとかよー、警察の目をくぐり抜けて勇敢な同志がそっとジャングルジムに近づいてきたので、私の話はそれきりになった。牢屋の裏で手を差し出すと、仲間は前にあった広田くんの手を避けて私だけにタッチして体育倉庫の方へ逃げていった。私はすぐに広田くんの肩に触ってから二人でジャングルジムを抜け出し、体育倉庫と逆の方向へ走り出した。


 終わりの会が終わって、ランドセルをつかんでみんなが出ていく。廊下が一気に爆発したみたいに騒がしい。小川先生が机の列と列の間を歩いて、白いプリントを拾い上げた。それから机のなかを引き出して、くちゃくちゃになった紙をいくつも机の上に並べた。

「松山くん」

 机の上の紙を押し広げて、どうしよう、夏季補習の同意書月曜日までに提出してほしいんだけどな、私に言っているのかわからず曖昧にうなずくと、広田くんのうち知ってる? と聞かれた。えっと、上ヶ丘のコープの近くだったっけ、なんとなく以前広田くんに聞いたようなことを言うとちがうちがう、センターの上よ、と小川先生は言ってから、松山くんならいいか、本当は生徒の住所を教えたらいけないんだけどね、と紙を揃えた。コウタくんに渡したらいいんじゃないの、誰それ? あの、広田くんの弟です、二年生の、クラスは知らないけど。小川先生は急に黙ってそれから、広田くんって弟いたっけ……とつぶやいた。

 学校の反対側はよそよそしかった。母親の買い物に付き合って何度か行ったことはあっても、センターのあたりは普段の生活圏から外れていて友達もいない。坂を上った先にセンターがあって、入ると床が黒く湿っている。入り口近くの豆腐屋にはガラスケースのなかに厚揚げやがんもどきがひんやり置かれていて、値札を枕にアジやタイが並べられた魚屋の前を通り過ぎ、誰が着るのかわからない紫色のドレスが飾られた洋服屋の角を曲がると、すぐに別の出口に出てしまう。どこに広田くんのうちがあるのだろうとセンターのなかを何度も回遊してから、センターの上にあるという先生の言葉を思い出し、外に出ると急にまぶしくて目を細めてしまう。

 建物の横に小さな鉄製の階段があって、赤茶色に錆びた手すりを触らないようにして急勾配を上るとセンターの屋上に物干し竿がいくつも並んでいて、そこに服やら下着やらと一緒に白いシーツや布団カバーが風に揺れている。階段すぐ近くの室外機からむわっとした熱風が吐き出され、室外機の足元には黒っぽく淀んだ水たまりができていて、ヘドロのような緑色が浮いている。生乾きの洗濯物の匂いと熱風とで気持ち悪くなりながらシーツの海をかき分けていくと、小さなプレハブ小屋のようなものが現れる。表札はなく、窓から覗いてもすりガラスになっていてなかの様子はよくわからない。広田くんは本当にここに住んでいるのだろうか、なんだか不思議に思いながらランドセルをおろして預かったプリントを取り出し、ドアの横の小さな茶色いブザーを押した。プラスチックのボタンはざらざらして埃っぽく、人差し指をズボンで拭くと、紺色の生地にかすかな白い跡がついた。しばらく待ってもなんの反応もないのでもう一度押し、次に押しても出てこなかったらプリントを郵便受けに入れて帰ろうと思った。

 三回目のブザーのあと、奥からくぐもった声ではあーいと返事があって、後ずさりするとばたんとドアが開いた。少し不機嫌そうな顔をした女性が顔を出し、私を値踏みするように見てから、あんた誰、と言った。

「広田くんに、先生からプリントを預かってきました」

 差し出した紙の束を受け取ると、女性はちらっとプリントを見てから、ありがとう、それからもう一度、今度はじっくり目を通しはじめた。女性はてろてろになったピンク色のTシャツを着ていて、襟ぐりも袖口も少し伸びていて、ピンク色は褪せて白っぽかった。室外機の音が屋上の空気を震わせ、どこかでカラスが鳴いていた。私は審問を受ける証人のように緊張して、紙を繰る彼女の指先を見た。マニキュアの塗っていない爪は乾いていて、指の腹はごつごつと硬そうだった。プリントを一巡してから、彼女は私を見た。

「あのね、あの子いないの」

 私たちの間に深い谷があって、女性の言葉は口からこぼれた途端そこへ転げ落ちていった。私はただプリントを渡しにきただけなのに、私と女性との間には必ず広田くんという存在がいないといけないと彼女は思っているようだった。

「だからね、いないのよ。さっき帰ってきたんだけどランドセル置いてすぐに出てっちゃったから」

 女性とドアとの隙間から暗い室内が見える。部屋の片隅に置かれたプラスチックの透明なボックスのなかに、服やらおもちゃやらがくちゃくちゃに詰め込まれている。どこかでタバコの匂いがする。そうですか、どこへ行ったんですかとたずねると、女性はさあと首をひねってから公園かなあ、でもあの子あんまり運動とかしないよね、と逆に聞いてきて、うん、体育はそんなに得意じゃないかも、あ、でもそれって広田くん背が低いから、他の子と比べたらって意味で、ぼくもスポーツ得意じゃないし、でも休み時間にみんなで遊ぶのは好きです、なんとか伝えようと思って一生懸命そう言ったのだけど急によそよそしい顔になって、ごめんいま忙しいから、プリント持ってきてくれてありがとうね、じゃあね、私がうなずくと、彼女はドアを閉めた。

 こんなに遠かったっけ、と思いながら私は家へ歩いた。幼稚園と小学校との間のゆるやかな坂道をうつむいて歩くと桜の木々が緑色の影をまだらにつくっていた。道路脇の溝は乾いていてところどころ落ち葉が張りついている。何かいるかもしれないと目を凝らしながら、ゆっくり溝に沿って坂を下っていくとしんちゃんと声をかけられた。広田くんはハンドルに手をかけたまま自転車にまたがっている。まだ家に帰ってないの? うん、広田くんの家に行ったんだよ、プリントを渡してきてって小川先生が、そこまで言ったら広田くんは一瞬泣きそうな顔をして、なんで来るんだよと怒った。え、でも先生に言われて、明日でもいいだろ、広田くんに言われてたしかにと私は思った、それから明日は土曜日だよ、と思い出して言うと、広田くんはあそうか、と言ってこっちへやってきた。何のプリント? ドウイショ? とかいうやつ、なんだそれ、広田くんが笑ったので私もほっとして笑ったら、二人の間で循環してもっと笑った。それから広田くんはプリントを母ちゃんに渡した? ときいてきて、うんとうなずいたら広田くんはちょっとしょげたみたいだった、でも、俺の母ちゃんな、昔ピアノ弾いてたんだぞ、プロでさ、有名な人ともいっぱい一緒に演奏したんだ、だから俺もピアノ習おうかなって思って、音楽の時間のあとにこっそり音楽教室のピアノ触ってるんだ。蒸し暑い屋上に干されたシーツと緑色の水たまりはピアノとうまく結びつかない、それでも私は色褪せたTシャツを着た広田くんのお母さんを思い出して、すごいな、ぼくはピアノなんてとても弾けないよ、そりゃそうだよ、いっぱい練習しなきゃ弾けないんだよ、ぜんぜん弾けないときがずっと続いてさ、もうやめたくなるだろ、でもある日急に弾けるようになるんだよ、だからピアノは諦めたらダメなんだ、広田くんがそういうことを言うのは初めてで、私は素直にうなずいた。

 広田くんどっか遊びに行くところだった? うん、大公園に顔を出して、それからゲームショップへ行くんだ。しんちゃんも来るか? 一人で駅前まで行ってはいけないと母親に言われていたので迷っていると、だったらさ、しんちゃんがUFOを見た公園に行こうよ。え、いいけど、ただの中公園だよ。いいんだ、行ってみたいから一緒に来てよと広田くんは強引で、ランドセルを置いてから公園に集まることになった。放課後に広田くんと遊ぶのは初めてで、私は急いで家に帰り、台所の棚に入っていた個装のおにぎりせんべいを二つカバンに入れた。

 小学校の近くには大きなグラウンドのある大公園と、小さな森のような丘の上にある中公園の二つがあった。大公園は小学校の延長みたいな社交場で、公園の入り口を入ったところに自転車が何台も止めてあって、砂場や遊具には親と一緒に遊びに来た小さな子供たちが動き回っている。小学生は管理棟近くの床がコンクリートになっているところでカードゲームをしたり、公園の木々の間を駆けたり、あとは誇らしげな顔でグラウンドに立ってボールが飛んでくるのを待っている。私は探検ごっこが好きだったので、中公園でよく遊んだ。ゴツゴツした坂道が入り口から続き、途中カーブしているので入り口から公園の奥は見えない。鬱蒼とした森を抜けるように坂道を上がっていくと高台にあるアスレチックジムやブランコ、少し離れたところに広場があって、夏になるとそこでラジオ体操をする。不審者がいたら困るというので、暗くなったら公園に立ち入らない、すぐに帰ることというのが約束だったが、そんな人はいままで見たことがなかった。

 公園入り口の車止めに腰掛けていた広田くんは、私を見つけると黒い半ズボンから手を抜いて空気をかき混ぜた。私はプールに入りたいと思った。歩いて二十分くらいの区の体育館はプールが併設されていて小学生は百円で二時間泳げるし、もうレーンの真んなかの一番深いところでも足が届く。両側を森に囲まれた公園の坂道を上っていくと、丘の頂上で低学年の男の子たちがサッカーボールを蹴っていて、彼らが走るたびにグラウンドの砂埃が幻のように消えていく。あたりをぐるりと見渡した広田くんに指差すと、黙ってうなずいてアスレチックジムに近寄っていき、登り棒に手をかけて、そのままのぼるのかなと思ったら階段から滑り台の高台に駆け上がった。

 高台の上は風が吹き抜けていて、いつもこうだったかなと思ったが思い出せない。日差しは熱い。赤い塗装が少し剥げた手すりはずっと触っていられない。どっち、と言って広田くんはぐるぐる見たので、あっちだったよ、と私は指差すと、あのときオレンジ色の光が浮かんでいた空は青かった。

 ふーんとだけ言って広田くんは落ち着かなそうに空を見上げ、それから灯台のようになった。公園を取り囲む森から蝉の声が広がっている。暑いな、水筒に麦茶を入れて持ってくればよかった、しんちゃんさ、宇宙人に会ったことある? 突然広田くんが真面目な声で言ったので私はビクッとした。本で見た大きな黒い目をした銀色の宇宙人が怖くて、想像するだけで心臓が震えそうになる。え、あの銀色のやつ? そうそう、あいつ、結構小さいんだぜ、オレくらい? 広田くんは右肩の上に手のひらを浮かべて上下させた。広田くんはほんとに私の知らないことばかり知っている、ドキドキして広田くんと肩を並べる宇宙人を見る。どこで会ったの、うん。広田くんは遠くの空を見て言い淀む。いつもなら目を輝かせて洪水のように話してくれるのに、広田くんは私から目を逸らす。

 私はカバンからおにぎりせんべいを取り出して広田くんに一枚あげた。袋を破ると口のまわりがベタっとして、ばさばさするので水を飲もう、私たちは藤棚の下に行って水飲み場の蛇口ハンドルをひねった。藤棚は日陰だったけど暑さは変わりなかった。ぬるかった透明の水がゆっくりと冷たくなっていき、でも冷たくなる手前で口のなかを流れていった。さっきまでサッカーボールを蹴っていた低学年たちはいなくなっていた。小学生はすぐいなくなったり現れたりする。公園と森とを区切る茶色い鉄製の柵の手前に子供が一人立っていて、こっちを見ている。広田くんは口元を手の甲で拭って立ち上がり、じーっと子供を見つめていたが、知ってる子なの? うん、なんだか嬉しそうな表情で近づいていった。

 二人は柵の近くで向き合って何か話していた。あんなにまっすぐ立って話すだなんて、ウルトラマンのソフビ人形みたいだ、藤棚の下にまぶしいエネルギーが入り込む、蝉の声が聞こえない。遠くから子供が私を見て、なんだか変な気分がしたけど私は二人の方へ歩き出していた。広田くんはTシャツの背中にしみをつくって話していて、その子は話を聞きながら私を見ていた。男の子か女の子かよくわからないし、何年生かもよくわからなかったがたぶん私たちとそう変わらない、長袖の緑色の服を着ていて表面はつるつるしていた。背丈は広田くんくらいだ。子供は信号のように笑った。きみも一緒に遊ぼう。

 私たちは柵を乗り越えて森のなかへ入っていく。マムシが出るから気をつけて、そう言ってもその子は平気な様子で森の奥へと歩いていく。足元に生い茂っている草を靴でかき分け踏み越えして、でもマムシが怖いので広田くんの歩いたとおりを歩く。その子の後をついていく広田くんは全身で喜んでいる。こんなに嬉しそうな広田くんは初めてだ。斜面になっているところを降りて、木々を抜けてどんどん進むと急に開けた場所に出る。周りを木で囲まれた空き地のようなその場所を、広田くんもその子も元気よく走り回ったので、私もすぐに楽しくなって走り出した。足元には割れたガラス瓶や汚れたビニール袋のようなものは落ちていない。生き物係の当番で朝早く学校に行って、誰もいない校庭を歩いているような清らかさを感じる。ぐるぐる走って疲れると、私たちは木陰に座り込んで、上を見上げた。ぽっかりとまるい空をしばらく見てから前を向くと空き地の真んなかに白くて楕円形のものがあった。横に長くどら焼きのような形をしているが、輝いている。何か金属のようなものでできている細い棒が四本、地面に伸びている。子供が立ち上がって楕円形のものを指さすと、広田くんもうなずいて立ち上がる。私はズボンの下の押しつぶされた草の感触を感じながら、二人が輝くそれのなかに入っていくのを見る。木々の間を縫って風が吹き、私は喉の渇きも感じない。二人の姿が消え、空き地の中心に白く輝くそれがとまっている。さっきから蝉の鳴き声が聞こえない。私はゆっくり立ち上がって日陰を出て、それに近づく。それの表面はうっすらとした銀色をしていて、金属のような表面全体が輝いて見える。そのようにきれいなものを見たことがなかったので、そうっと手を伸ばして表面に触れる。少しひんやりしていて、学校の手洗い場の濡れたタイルを思い出す。そうして手を触れたままバスくらいの大きさの楕円形の周りを反時計回りに一周する。

 私は家の前に立っている。近所の家はどこも窓から光が漏れていてあたりは真っ暗だ。ドアを開けて玄関に入るとこんな遅くまでどこに行ってたの、警察に連絡しようと思っていたところよ、と母親に怒られる。時計はもう七時を過ぎている。あっと思ったがごめんなさい、とだけ謝って食卓につく。テーブルの上の冷めたオムライスとわかめのサラダと味噌汁、母親の作るオムライスは上の薄焼玉子とチキンライスが一つの料理になるのではなく、別々のまま存在している。どこへ行ってたの、誰と遊んでたの、とスプーンを口に運ぶたびに聞いてくる母親に、母親が直接連絡をとっていなさそうな親を想像しながら私は適当に答える。

 翌朝いつもより早く家を出て、誰もいない教室で広田くんを待った。窓から差し込んできた光が黒板を染め、金魚の水槽にオレンジ色の光がひるがえった。どこかで子供の声が聞こえる。ランドセルを置いて校庭に出ていったクラスメートたちが戻ってきて、朝の音楽が鳴って教室が騒がしくなってようやく広田くんが入ってくる。私は駆け寄って広田くん昨日、と言ったら、うんとだけ、広田くんはいつものように余裕のある笑みを浮かべ、チャイムが鳴ってすぐに小川先生が入ってくる。

 昨日、あれからどうしたの、あれからって? 五分休みの廊下で広田くんは首を傾げる。だから、あの子と銀色のUFOみたいなのに入っていったじゃない? 広田くんは時間が止まったみたいに私の顔を見てから、何言っているの、つくり話はやめろよ、しんちゃんはそういうの言わない方がいいぞ、と真剣な顔をした。覚えてないの? 中公園に行ったじゃない、うん、アスレチックジムにのぼって遊んだよね、そう、それから、その後に。チャイムが割り込んできて私たちは教室のなかに引き戻される。

 しんちゃんがUFOを見たという公園に行って、二人でちょっと遊んでから、そのまま別れて先に帰った。その後しんちゃんがどうしていたかは知らない、周りに人がいない花壇のところで広田くんはそう言った。私たちの話はアスレチックジムにのぼったあたりから別の世界みたいに平行線だった。暑いからこまめに水分補給すること、先生に言われなくても子供たちは水飲み場に顔を突っ込んでいる。蛇口を上向きにしてハンドルをひねるとやわやわと震える水の柱が現れ、口に含むとあふれる。太陽に照りつけられて校庭は砂埃も立たない。早く夏休みになんないかなー、チャイムが鳴って空が青い。広田くんは花壇を駆け出て校庭をばーっと走っていく、そのすぐ後ろを何かの影がついていく。(続く)

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