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空よりも軽い (4)

 部下の子がね、泣いちゃって、もう泣くなんてやめなよって思ったけど会議室で二人だったからうんうんって話すのを聞いた、わたしも若い頃あったな、あれ、つらいとか口惜しいとか、そういうんじゃないんだよね。なんだかわからないかたまりがブワッてあふれてくるの、自分でもどうしようもないんだよ、それで泣いたらあとはスッとするんだよね。浄化っていうの? そう、わたしたちは自分で浄化できるんだ、それって側から見たら滑稽かもしれないけど、美しいことだってわたしは思うんだよね。

 キッチンで話している秋乃の声は換気扇にかきまわされてちがう人が話しているみたいだ。いま何時だろうと時計のない部屋で思う、サイドテーブルの上に置いてある秋乃のスマホを取り上げてちょっと斜めにすれば時間はわかるけれどそうしない。私は自分で自分を浄化したことがない、それはいつも外部の力によってなされることだと思っていた、でも私たちの体から体液を分泌することで浄化ができるのだとしたら、たしかにそれは美しいことだ。さきほど秋乃の下腹部に吐き出された私の体液、秋乃はそれを指先でしばらく円を描くように撫でていた、いまはティッシュペーパーに吸い取られてゴミ箱のなかだ、あれは浄化だったのだろうか。でもそうだとしたら、それは秋乃がいたから慰めではなく浄化になったのだ。換気扇の音が止み、ゆっくりやってきた秋乃が私を見下ろす、私はだらしなくベッドに横たわったまま秋乃に全身を見られている、キッチンの明かりが閉じかけの引き戸に区切られて私の胸や腋を照らし、私の体にある昼と夜を秋乃は見下ろしている。いつのまにか私の体が緩んでいるように、秋乃の体つきも変わった気がする、リモートワークはダメね、気持ちが上がらないし部下の様子もわからない、それに運動不足で太っちゃう、秋乃は少しふっくらした自分の体を気にしている。二十代とは少しちがう二人の体は、成熟にはまだ遠い。秋乃がベッドに上って私の体に跨るとぎしぎしと音を立ててベッドが沈み込む。このベッドももう古いからね、十年以上使ってる、救命ボートに乗り上がるように私の体に覆い被さると秋乃が言う。この部屋も来年更新だし、どうしよっかなー。秋乃の体を受け止めながら、私はこのやわらかな引力を感じる。お互いの軌道と速度がわかれば、何年先だって二人の相対距離はわかるはずだ、くっついたり離れたりを繰り返しながら、だが自分たちよりもっと大きな天体の引力に囚われて、私たちはその周りを回る、そして星々の軌道は愛によって決定される。秋乃は私の首筋を吸う。キスマークつけるなよ、意外と目立つんだから、大丈夫、どうせいつもリモートなんでしょ、何かに火がついたみたいに秋乃は何度も私の首筋に唇を強く押し付ける。私も腹が立つような、子供っぽい反抗心が湧き上がるような、そんな気持ちになって秋乃の尻をわざと乱暴につかむ。相手をまるごと取り込みたいとか、相手を屈服させたいとか、そういう欲求はすべて生殖につながっている、そう考えることは容易いし事実そうかもしれない。秋乃の体は少し湿っている、その吸いつくような感触を体全体で感じながら、肌の合わさったところからお互いの体温を交換する。秋乃のやわらかさと重みを受け止めながら、私は自分が赦されていくのを感じる。私が誰かを赦したことなんていままでなかった、いつだって赦されるのは私の方だ。私が抱いているのは秋乃であって秋乃でない、もっと大きな存在が秋乃の体を通して私に流れ込んでくる。

 同じ部屋で二人一緒にリモートワークはできないので、平日泊まった翌朝は早く出なければならない。秋乃の部屋を出ると外はしんとして急に秋になっている。ストールでも持ってくればよかったと思いながら、黄色くなった街路樹の下を歩いて駅へ向かう。ホームの反対側に滑り込んでくる上り電車はもう混雑していて、みんなスマホをのぞきこんでいる。大柄で髪の長い男が緑のナイロンジャンパーに包まれた背中をまるめてベンチに座っている。眠っているのか、動けないのか、男はうつむいたままピクリともしない。隣には衣類か何かが詰まったビニール袋が置いてあって、私は声をかけたほうがよいのかどうか迷う。彼が行き場をなくして途方に暮れているのか、それとも夜通し活動したせいでたまらず眠ってしまったのか、どっちだっていい、声をかけたいと思えば声をかければいいだけのはずなのに、私の頭は声をかけるべき理由と声をかけなくてもいい理由の両方を同時に探している。下り電車がホームにすべり込んできて私はほっとする。時間は慈悲深い、卑怯者を卑怯者のまま赦してくれる。上り電車ほど混んではいないにしろ、立っている人をかき分けて私は電車の奥へと逃げ込み、窓際のスペースに落ち着いて外を見る。朝の街は静かに広がっている。

 駅に向かう人の流れと逆行して歩いていくとヘルメットをかぶった二人の男が空き地で作業をしている。黄色い重機が置いてあって、黒っぽい土のあちこちに瓦礫が転がっている。ついこないだまで何かが建っていたはずのその場所を、私は思い出せない。街の記憶はひとつずつ差し替えられ、住む人も去っていく、新しい人がやってきたとき、街は別の街になっている。重機のキャタピラについた泥は乾いて固まり、私は立ち止まっていつまでもそれを眺めていたい気持ちになる。だがすぐに頭のなかに今日一日のスケジュールがダウンロードされてきて、朝一番の会議にはじまり私の一日が決定されていく。選択の余地もないその行動予定の積み重ねが私の毎日を形づくり、私の人生そのものとなっていく。私はもう一度解体現場の空白とまだ眠っている重機を見る。コンビニに立ち寄って朝食を買い、自分の部屋へ戻ることよりも大事なことがあって、私はそれを思い出そうとする。頭上でスズメが鳴いている。

 

 ランニング用の腕時計を持っていないのでタイムのことはわからない、それでもはじめた頃より少しだけ速く走れるようになった気がする。ランナーたちは颯爽と私を追い抜いていくが、もう打ちのめされる気分にはならなくなった。自分がどの程度の脚力と心肺機能を持っていて、どれくらいのペースで走れば脚を痛めることなく一周を走り切ることができるか、実際に走ってみて私は理解するようになった。

 仕事の様子を見ながら、今日は残業しないでよさそうだと思うと午後からでもオフィスに出て、定時になるとすぐに退勤する。自宅の周辺でも走れるのに、わざわざ皇居の周りを走るためにオフィスに出るなんて、藤本室長や狭山が聞いたらどう思うだろう。オフィスの近くにあるランニングステーションで着替えると皇居前広場に向かい、軽くストレッチをしてから走りはじめる。あたりはもう暗くなっていて、ウィンドブレーカーを着ていないと冷える。寒くなっても皇居の周囲を走るランナーたちの姿は減るどころか増えていて、道の狭いところではつかえるときもある。誰もが一心不乱に前を見ていて、おしゃべりをしながらゆっくり走っている二人組でさえ、どちらも視線は進行方向に向けられている。走ることがシンプルなのは、前だけ見て体を動かせばいいからだ。こんなに自由になっていいのだろうかという戸惑いは、だがやがて私の内部でいっぱいになる鼓動や血流の音にかき消されて、私はただ体を動かして前へ進むだけの存在に変わっていく。そんなときはいつも祈りを捧げたくなる。

 一周の距離も体で覚えて、多少の余裕を持ってスタート地点の皇居前広場に戻ってくると、もう座り込んだりせずにそのまま歩いてクールダウンする。足元のアスファルトをのぞき込みながらゆっくり円を描くように歩く私に声がかけられる。振り返るとつやつやしたウィンドブレーカーに身を包んだ男が立っている。

「やあ、あなたも走ってるんですね」

 男の体に張りついたウィンドブレーカーがすぼんだり大きくなったりしている。男は私と並んで広場を歩きはじめる。

「どうです、お世辞にも空気がいいとは言えないけど、走るのは気持ちいいでしょう」
「ええ、定期的に走るようになりました。ペースはゆっくりですけど」
「ペースなんてどうだっていいんですよ。速く走りたい人はそうすればいい、それだけのことでね」

 内堀通りを走る車の流れがやみ、しばらくするとまた北と南へタクシーやトラックが走り去っていく。ウィンドブレーカーのジッパーを下ろすと、冷たい外気が汗でぐっしょり濡れたランニングウェアに染み込んでくる。私は自分の体が冷やされていくのにうっとりしながら男と並んで歩き、男は鼻から空気を吸って口から勢いよく吐き出す呼吸を続ける。

「お仕事はこの辺ですか?」
「はい、大手町の方です」
「そうですか、近いですね。僕は丸の内です」

 男は壁のようなビル群を指さした。

「ずっと皇居ランしているんですか?」
「走ったり走らなかったりですね。何年か東京を離れていて、戻ってきたら懐かしくってね。でも人増えたよね、高層ビル群を見ながら都心を走るのがオシャレだっていう軽薄な動機でみんな始めるのだろうけど、こういう罪滅ぼしのようなことがあってもいいと思うよ」

 お互いのランニングステーションが近かったので、着替えてから一杯飲むことになった。フィッシュ&チップスだのフライドチキンだのが置いてあるパブで、店にはまだ誰もいなかった。テーブル席を勧められたが男が断って、私たちはカウンター席に並んで座った。男は店員に渡されたフードメニューに目を通してから私に渡した。フィルムでコーティングされたメニューはつやつやしていて、反射する照明の光がまぶしい。

「あれからね、よく夜空を見ているんだけど宇宙ステーションは見えないね」
「毎日おおよそは日本の上空を通過しているんですけどね、ただ地球は完全な球体じゃないし、重力場のひずみや空気抵抗などで少しずつ軌道がずれていくんです。日没後と日の出前の時間帯で、ISSに太陽の光が当たっていて、空が晴れていれば見えると思うんですけど。数分で日本の上空を通り過ぎるからそのタイミングで見てないとだめですね」

 男は運ばれてきたグラスを持って、でも1パイントで重いからグラスをぶつけて乾杯するようなことはせず、私たちはそれぞれのグラスに口をつける。男は紺のスーツを着て臙脂色のネクタイを締めていたが、派手な印象はなく、むしろコーディネートには抑制的な雰囲気がある。金融か、商社か、何の仕事をしているのだろうとぼんやり思いながらビールをすする。タイミングって、自分で選べると思います? と男はたずねる。僕はね、自分で選択できるタイミングってほんの少しだって思うんですよ、僕たちは自分で何かを選択する、日常生活のなかで無数の選択を積み重ねて、それが人生になっている、でもその選択のほとんどは自分で主体的に選べる類のものじゃなくて、むしろ僕たちが選ばれているんだって、そう思うんだよね。運命は決定されているってことを言ってるんですか? 走ったあとにこうしてあたたかな店で冷たいビールを飲むことも、ぼくたちの選択ではなく、あらかじめ与えられていたと? グラスの表面は汗をかいていて、薄暗い店内の奥に絵が飾ってあるが、ターナーのような風景画であることはわかっても何の絵を描いたものかはわからない、店のそこだけ妙に雰囲気がかしこまっていて、ターナーだなんてとおかしくなる。それとも、意識的な選択よりも無意識による決定が多いってことですか、だったらわかるな、意識して決定するのは脳のエネルギーを消費しますからね、意識的な選択って面倒くさいんです。だからぼくたちはなるべくいろんなことをルーティーンに組み込んで効率的に、半ば自動で生きているんですよ、その方が楽ですから。そう言ってから、いつからこんなことを言うようになったのだろうと、私は自分自身におどろく。脳のエネルギーだとか効率だとか、そんな概念は以前の私にはなかった、そうだった、母親と一緒に初めて文字を読み上げたとき、夜にハムスターのケージを掃除していたとき、校庭を横切る雲の影を走って追いかけたとき、私は空っぽだった。いつから効率だの自動的だの、そんな考えが私のなかに入ってきたのだろう。

 ちがうんだよ、無意識の選択とかそういう話じゃなくてね、僕たちは選ぶ側じゃなくて選ばれる側だってことだよ。もちろん僕たちには意志がある、だからって、自分がいつだって選択する立場にいるってわけじゃないと思うんだ。僕はその不思議さについてよく考える。

 じゃあ誰が選んでいるっていうんです? 入り口から客が入ってきて人数を告げる、店員が出ていって男女三人をテーブル席へ案内する。喉が渇いたという声が聞こえる。みんな同じ歳格好だろうか、横柄な口調で話す男に、相槌を打つ女も同じレベルだ、世の中のことをわかったかのように話すのがカッコいいと思う年代があって、ついこないだまで私もそうだった、もしかしたらいまだってそうかもしれない。私と男の二人きりだった店内が急に賑やかになる。私たちは追加のビールを注文する。

 あなた本当のことを言える? 横で男がつぶやく。僕たちは期待される答えを言うのが上手くなっていくだろう、そういうふうに訓練されてきたし、求められているもんな、私たちの前にグラスが置かれ、男はグラスの残りを飲み干す。だけどそうして何十年も経つと、僕たちは本当のことを話すのが苦手になってしまう。僕はね、本当のことを話すのが怖いんだよ。僕の話すことがちゃんと受けとめられなかったらどうしようって、何かにそぐわなかったらどうしようって。男は白い泡に口をつけてしばし休む。天井の隅についているスピーカーから、トランペットとテナーサックスの二菅アンサンブルが黄金のように煌めく。英国風のパブでどんな音楽がかかっていれば正解なのか私にはわからないし、おそらく正解などなくて、ただそれっぽくなるというだけだ。そんな、気にしすぎですよ、という言葉は無責任だから口にできない、それでもきちっとスーツを着こなしたこの男が何かに囚われているのだとしたら、いいですよ、リラックスして言ってください、あなたの言葉をそのまま聞くようにします、私はそう言って男にうなずく。男は苦笑いしてうつむく、その横顔は怒っているようにも恥じているようにも見える。そうしてしばらく黙ってから、一杯の予定が長くなってしまった、引き止めてしまって申し訳ないねと男が言う。申し訳ない、というきちんと畳まれた服のようなその言葉に、私は寂しくなる。二人の間から何かが引っ込んでしまい、1パイントのグラスは大きく、ほとんど手のついていない残りを全部飲み干せるかしらと私は思う。

 

 私の部屋に来た人で、クマの話す声が聞こえた人は一人もいなかった。彼らにとってクマは年季の入ったただのぬいぐるみで、大人になったいまもそれを部屋に飾っていることに私の意外な一面を見出して微笑むか、少々気味悪く思うかのどちらかだ。同じ地球上に生きていても、我々一人ひとりは周波数の帯域が異なる。無数の電波が飛んでいるこの地球上で、私たちはラジオのダイヤルをまわす。ときどき雑音が入り、金庫の鍵を開けるようにゆっくりダイヤルに触れていると、突然鮮明な声が聞こえる。そんなことを夢見ながら、私たちは日々ダイヤルをまわしている。

 地下鉄の暗い窓ガラスに、座っている人のスマホの画面がぼんやり映っていて、さまざまな色のニットを指先が流している。クリーニング店に預けていた冬物のスーツやニットはずいぶん引き取った、でもダウンのコートはまだだ。私は秋物の薄いコートを持っていないから首にストールを巻いている、カシミア混の黒のストールはあちこちに小さな毛玉ができている。買ったブティックはもうなくなって、他店に移ったスタッフも退職した。みんなそれぞれの軌道で宇宙を飛んでいる。

 隣とひとつ間隔を開けて座るフリーアドレスのオフィスは群島だ。みんなバラバラに座っていては一体感やつながりが失われると年配の管理職たちは嘆いている。仕事に対する責任感はあっても組織に対するロイヤリティーなんてないですよ、そう簡単に口にする狭山にうなずく私は、同じことを思っていても言葉にしないだけの知恵がついた。室内ミーティングが終わってパントリーでコーヒーをいれていると藤本室長がやってきて、今日も走るのかとたずねられる。皇居ランのことを社内で話したのか、もう忘れている。藤本室長はストライプのブルーのシャツに茶色のネクタイを合わせていて、そういえばスーツはイタリアンが好きだと言っていた。

「もう夕方はだいぶ冷えるだろ」
「暑いよりは寒い方が走りやすいみたいです」

 夏は何をしていたのか思い出せない。子供の頃はラジオ体操に行ってたな、十日だか二週間だか、よく毎朝通ったものだ、そう思ってから私は何かに触れた気がする、あれっと思って、それは大きな青空だったか、蝉の抜け殻だったか、どうしたんだと室長に声をかけられて私は変な笑顔になる。

「健康にいいってわかっていても、はじめるのが億劫なんだよな。習慣になったらこっちのものなんだけど。スポーツジムの会員になったけど、バッグにトレーニングウェアを入れたり準備するだけでもう面倒くさくなっちゃってね、全然行ってないなあ」

 パントリーに漂っているコーヒーの香りが私たちを気楽にさせる、室長は仕事の話をすることなく自分のマグカップを置いてコーヒーマシンのボタンを押す。紺色のマグカップにはロゴも文字も描かれていない。ブーッと音がしてからガリガリと豆をひくマシンの前で私と室長は沈黙を分かち合う。ブラジル駐在時代は会社の車で外出するのが規則なのに、一人自転車でコパカバーナの朝を走るのが日課だったので総務からずいぶん怒られたと言っていた、藤本室長が言うと嫌味に聞こえないから不思議だ。どうして宇宙事業室を立ち上げたんですか? いつかの飲み会でそうたずねたら、松山くん、そんなの面白そうだからに決まってるじゃないの、宇宙ステーションをつくるだなんて、自分の一生をかけていい仕事だと思うんだよ、そんな仕事なかなかないぜ。前職もいまも、そんなことを言った人は一人もいなかった。人生をかけるに足る仕事、そんなものは私にはない。私は何かに殉じたり、何かと自分を同一化したり、そんなことは極力避けてきたのに、藤本室長の言葉を聞くとうらやましく感じるのはなぜだろう。マグカップにコーヒーが注がれ、それが合図となって私はその場を離れる。室長は小さくうなずく。

 定時になってオフィスを出ると、ランニングウェアとシューズを入れてきたはずなのにバックパックが軽い。あれっと思ってエレベーターホールの隅で開けるとなかは真っ暗で、キラキラと輝く光が闇に浮かんでいる。遠くに見える星たちが赤く、白く燃えているのがわかる、あんなに激しく燃えているんだ、なのにそれをただ美しいと思っていたなんて、私は静かに進みながら自分の軌道が何かの力に捉えられているのを感じる。身近な惑星の配列が及ぼす影響にすら気づかない私たち、私はゆっくりと大きな楕円を描くように曲がっていく。何もない空間だなんて嘘だ、さまざまなものがこの宇宙を飛び交っている、おーいと呼びかけても声が届かないくらい遠くを、白く輝く何かがすべるように飛んでいく。私は離れていくその輝きを受け入れる。一匹の犬がやってきて私の足元にうずくまる。おまえ、そんなとこに寝ていたら風邪をひくよ、私は彼のやわらかくもピンと張った毛を後ろへ撫でつける。いろんな人や生き物と関わってきた、あのときどうしてもっとやさしくしてあげられなかったのだろう、そう思ってもそのときはそのようにしか振る舞えなかった自分の限界を私は理解する、そうして過去も遠くへ離れていってしまった。あの子は嘘ばかりつく、その言葉を私は後から知った、教科書を忘れても、通学途中に知らない子に盗られたと言って絶対に訂正しないのだと。そんなことがあったなんて私は知らなかった。仲良くしてくれてありがとうね、そんなの先生に言われてもどうしようもない。私は進む、でもそれは多くのものたちがそうであるように、大きな引力に引き寄せられているからだ。

 まっすぐ地下に潜る気になれなくてヘッドライトがひっきりなしにやってくる道を歩くと、皇居のシルエットさえ見えない。夜の街灯に照らされて誇らしげに走るランナーたち、私はスマホの画面を見る、まぶしいのに何のメッセージも入っていなくてホッとする。寒くてストールをぎゅっと引っ張って首元の隙間を埋める。自分の体はあたたかいのにそれを自分で感じることはない。ランナーたちは暗くて街灯の光の範囲しかわからない、近くで見ると苦しそうな顔をしている者もいる、私の目の前を走りすぎていく彼らは前だけを見ている。一人だけ走り過ぎてしばらくしてから戻ってきた。黒いタイツのようなものを履いているから痩せている足が余計目立った。

「今日は走らないの?」
「ウェアやシューズを忘れたんです」
「ただ立っているのは寒いでしょう」
「ええ、もうすぐ帰ります」

 そうか、と言った男の体から湯気が立ち上っている。男は大きく息をしながら、腰に手を当てて私の前をゆっくりと行ったり来たりしている。たしかに犬みたいだ。

「あのね、あなたに次会ったら伝えようと思っていたんだけど、やっぱりいい言葉が浮かばないね。ただ、こうしてあなたとここで会っている、このことはね、与えられたことなのよ。それだけは伝えたいんだ」

 男はウィンドブレーカーのジッパーを下ろし、前をパタパタやった。むんわりした熱気が空気に触れて急に冷える。それは私のところには届かない。

「夏にね、京都のある寺に行ったんだよ、蒸し暑い日だった。きれいに掃き清められた静かな庭があって、観光客もほとんどいない。そこの宝物庫では国宝や重要文化財の仏像が公開されているんだけど、宝物庫のなかはエアコンがついてないから汗だくになりながらさ、薄暗いなかで仏像を見ていたのね。弥勒菩薩や大日如来、観音様の木像がいくつも並んでいて、人々を救済したり、赦したり、知恵を授けたりするんだって説明に書いてある。見上げるように大きなものもある。西洋の教会には壮麗な空間があって、美しいステンドグラスがあるだろ、あれはさ、無学な者たちにも神の存在を知らしめる、一種のエンターテイメントであり、装置なんだよ。こんな素晴らしいものが存在するなら神も存在するはずだって。仏像はさ、どうなんだろうな。でも本堂の暗がりを見ていると、僕たちが認識している世界とは違う世界があるんだろうって直感的に思うよね。僕はね、そうした世界がバラバラに存在するとは思ってなくて、どれもひとつの全体の一部だと思っているわけ。すべての源があり、一切がやがてそこへ帰っていく、そういうものが信仰上の想定ではなく、現実に存在するんだよ。それに名前をつけるのは難しい、どんな名前をつけても既存の意味を帯びてしまう。言葉は認識の前にあるものじゃないから。だからってね、諦めちゃいけないと思ったんだ。僕はこうやって東京の真ん中を走って、あなたのような人と出会うのを待っている。そうして話す機会を得たら、なるべく伝えようって。子供の頃はね、よく話していたんだよ。虚言癖っていうのかな、思いついた話をさも本当のことのように友達に話していた。あちこち引っ越ししてずっとそばにいる友達もいなかったけど、面白い話をしたら新しい級友たちも聞いてくれた、そうやって話しているうちに、それって全部つくり話なんだけど、僕たちの間では本当の話になっていくんだ。本当の話を共有しているときは、僕たちは本当の友達だった、本当の友達っていうのかな、挨拶したり休み時間にふざけあったりしても相手が遠いんじゃなくて、距離が近くて、お互い透明なくらいの関係ってこと。言葉や物語は新しい世界を生み出す、僕たちはそこで生きることができる。僕が級友につくり話を話して聞かせるたびに、泡が生まれて上に上がっていく、見上げると無数の泡が浮かんでいる、一つひとつの小さな泡が一個の宇宙なんだ、ああ思い出せる、そうやってすべての宇宙を見たとき、あれは誰の視点だったんだろう。僕の視点だけど、僕はもっと大きかった。僕は一人で公園で遊んでいたとき、その光景を見た。僕に友達はいなかった、でも一人だけ公園で会う子がいた、その子も引っ越しが多かったのかな、あちこちの町の公園で見かけたよ。その子にはつくり話をする必要がなかった、ずっと昔からの友達だったから。見上げたときその子がいたのかな、もう覚えていないな。何も覚えていない。母親が昼間から部屋で落ち込んでいるのを見たくなくて、どこにも行く場所がないのに外に出るしかなかった。僕を受け入れてくれた場所は公園だけだった。だからここを走っているんだろうな、ここは公園みたいなものだから」

 男の体からはもう湯気が消えている。砂利の上を行き来するたびに男の足元から音がしていたのが、やがて聞こえなくなる。内堀通りを走る車の流れがぱたりとやみ、ランナーたちもちょうど広場から姿を消す。不思議なくらいあたりは静かで、私は男の顔を見るがうつむいていてよく見えない。何かに気がついたみたいに男が顔を上げる、私もつられて空を見上げる、雲の合間から天の川が見える、無数の白い点が大きなひとつの流れになって空を縦に貫いている。いつもは空が明るすぎて見えないその銀河の姿を私は懐かしく思う。男はどう思っているのだろう、彼がいま感じていることを聞きたいと思って、そうしたら男が何かを言おうとする気配が伝わってきたが結局男は黙っている。突然高速でトンネルを出たみたいに耳がポンと抜けてあたりの音が戻ってきて、初めて聞いたみたいな車の音に私はおどろく。何台もの車がヘッドライトをつけてすぐそこの道を走っていたのにどうして気がつかなかったのだろう、そうして車の走る原理を、自分はまったく知らないのだ。私は急に風と寒さを感じる。男はうなずく。

 それじゃ、男はウィンドブレーカーの前を閉めると右手を上げて去っていく。ランナーたちが何人も走っていく、何周目だろう、一周でへばるのは私くらいかもしれない。みんな速そうだ。私は空を見上げる、真っ暗な空間が広がっていて、天の川は見えない。都心で天の川なんて見えるわけないのに、どうしてそう思ったのだろう。ねえ、さっき天の川見えましたよね、そう男の背中に叫ぼうと思っても、もういない。遠くの信号が赤になった、横断歩道を渡っているのが彼なのかな、革靴の底が砂利を噛む。以前にもこんなことがあった気がする、目の前がひどく明るい。それはこちらを見つめる光で、私はひんやりした金属のような手触りを遠くに思い出す。(了)

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