見出し画像

空よりも軽い (1)

   空よりも軽い

丸山 篤郎 

 

 光が流れ落ちてゆくのを見ていたら、それは明るい雨のようだった。

 ゆっくりと光が白く溶けて、私はキッチンの壁を見上げていた。壁には五十音のポスターが貼ってあって、〈く〉だと茶色くてまるいクマ、〈ふ〉だと白いカバーに包まれた布団、そうやって文字の横にイラストが描いてある。

 これは? あ。これは? い。

 母親が指さす文字を見上げ、私は答える。私が文字を読み上げるたびに母親はおかっぱの髪を軽く揺らし、嬉しそうな顔をして、そう、よく読めたね、と言う。

 見上げる私は手にクマを持っている。父親がアメリカ出張のお土産に買ってきたもので、胸に赤いハートマークが刺繍してある。ハートの上下には黒い文字でSan Franciscoと書かれてある。空港の土産物コーナーで、クマは仲間たちと一緒に一つ十ドル、三つ買うと二十ドルの棚に入っていた。

 息子に何を買って帰ればよいか、クッキーやチョコレート、マグカップなどが並べられた土産物コーナーをうろうろしていると、黄色いぬいぐるみと目が合う。そのときクマくんがこっちを見ていたんだ、とあとで父親は教えてくれる。

 クマのおなかのなかには綿と一緒に小さなビーズのようなものが詰めてあって、手で掴むとふしゃふしゃしていろんな形になる。私は小さな手でクマを掴み、その感触に安心する。クマは二歳の手には大きい、大きいものは私を安心させる。五十音のポスターをゆっくりと指さす母親はもっと大きい。母親はア行からひとつずつ順番にひらがなを指していく。私はあたたかな息とともに文字を言う。し。

 えらいね、とか、すごい、とか、母親が口にするその言葉、それは海の水をすくうコップのようなものだ。私は母親を見上げながらコップでもなく、コップに汲み上げられた水でもなく、彼女の海そのものに手を差し入れ、直接その水に触れたいと思う。彼女の黒い髪が電灯の光を浴びて川のように流れる。彼女は誇らしそうに微笑んで私を見る。私が文字を読んでいくのをクマも一緒に見上げている。


 その日、母親は一階のキッチンで昼食の準備をしている。私はクマと二階にいて、フローリングを足の裏に感じている。クマが床の上をたたたと駆けていって、私は後を追う。見上げると網戸のむこうは五月晴れ、風がざっと吹いてきて、どこかでヘリコプターの音が聞こえる。窓の外に蝶がいるのを見つけて、私はかたい網戸をガリガリとずらす。小さな紋白蝶はつがいで飛んでいて、蝶の羽ばたきはどうしてあんなに儚いのだろう、目を離すと次の瞬間にはフッと消えている。

 窓のむこうは少し錆びた鉄の柵が突き出ていて、晴れた日には母親が布団や枕を干すのだが今日は空っぽだ。私は窓枠に足をかけ、ざらざらした柵を掴む。下りてきなよとクマが呼びかけるが、真っ青な空気を吸い込んだ私は雲梯の上を歩く要領で細い柵に足をかけ、見渡すとマンションや家が遠くまで並んでいる。左に目をやると、遠くに小さな海が見える。海は銀色の光がいくつも輝いてまぶしい、あんなにきらきらしているものを見るのは初めてだ。もっとよく見ようと一歩、もう一歩と四つんばいで歩いているうちに、私は足を踏み外し、すとんと下に落ちてしまう。柵に両手でぶら下がったまま、私は目の前の白い壁を見る。体を引き上げようとしても三歳の私にそんな筋力はなく、掴まっているのが精一杯だ。下を見ると塀と家との間の狭い空間が見える、赤い三輪車は私のだ。泣き叫ぶこともできず、うーうーとうめき声のようなものしか言えない自分におどろきながら、私は両足で家の壁を蹴って上がろうとする。壁の表面はざらざらして素足に痛い。何も引っ掛かるものはない。腕がぷるぷると震えて力が入らなくなり、何度も壁を蹴る足の指から血が出そうになって、もうすぐ死ぬかもしれないとぼんやり思う、だが私は死ぬことがどういうことかまだ知らない。柵を握っている手がゆっくりと開いていく、そして私はいきなり大きな手に掴まれて、上に引き上げられる。

 部屋のなかに戻された私は痛いくらいに抱きしめられる。窓の外に出ちゃダメって言ったでしょ、きつく叱られながら、私はぼうっとしている。緊張が緩んで、あふれ出すように母親が泣き出す。母親の腕のなかで現実感が頼りない。もしかして私は死んじゃったのだろうか、足指の裏がヒリヒリと痛み、力の入らない手で触ると血が滲んでいる。クマがほっとした顔でこちらを見ている。母親はずっと泣いている。

 

 私の写真が重たいアルバムに貼り付けられたのは祖母のためだ。ふた月に一度、祖母の家に行くたびに父親がアルバムを持っていき、用意された茶菓子とともに四人で私の写真を見る。二ヶ月前と同じように、祖母はどれも初めて見るような顔をして、前と同じ感想を繰り返す。

 祖母の横でアルバムをめくっていると、いつも一枚足りない気がして、必ず前のページに戻る箇所がある。ほうらまたしんちゃんの写真探しが始まった、と祖母に笑われるが、たしかにあの写真がない。

 幼稚園に入った年、母親と一緒に近所のミニスーパーへ出かけ、私は外で待っていた。空もあたりも湿っぽい灰色で、狭い道路のむこう側は家一軒分のコインパーキングになっている。

 お金を入れる機械や白く区切られた地面を探検しているうちに、隣の家とパーキングを区切るブロック塀に行き当たると、塀の根元に黒緑色の苔に覆われた小さな割れ目があって、しゃがみこんでのぞくと割れ目は奥に続いていて、ちょっと怖いなと思いながら私はなかへ入っていく。洞窟のような隙間を歩いていくと薄暗くひらけた場所に出て、ホールのようなその空間はひんやりとして地下の国に来たのだと思った。不思議と怖くはなかった、岩肌はツルツルしていて、私が来たのと反対側に通路があったが暗くてその先はわからない。遠くから誰かの声が聞こえて、親しみのこもったそのトーンは覚えていても、私は声の主を思い出せない。もうずいぶん会っていない、きっと大切だったその人のことを忘れてしまって、私は情けないような寂しいような気持ちになる。気がつくと通路から誰かがやってくる、見るとそれは全身緑色の苔のようなものに覆われた毛むくじゃらの姿をしている。最初はびっくりして声も出なかったが、その人は何も心配することはない、きみはどこから来たのだと落ち着いた声でたずねる。駐車場のひび割れから来たの、そうか、ずいぶん深いところまで来てしまった、帰り道はわかるか、そう言われると急に不安があふれてしまう。緑色の毛むくじゃらはうんうんとうなずいて、ときどきうっかりここへ来る人間がいるんだ、洞窟のホールはカーテンコールが終わったみたいに明るくなり、毛むくじゃらと私は光に照らされている。さあ、来た道を帰るんだ、あっちだ、でもその前に記念写真を撮ろう。毛むくじゃらはホールから出ていく通路を示し、それからホールの片隅に置いてある三脚のカメラを指さした。そのへんに立っておくれ、カメラをのぞきながら毛むくじゃらは細かく位置を指示して、私は彼の言うとおり一歩前に出たり後ろに下がったりした。よしと一言つぶやくと毛むくじゃらは私の横にやってきて、少し私に身を寄せたがそれでも肩に手を乗せたり私に触れたりすることはなくて、私たちは一緒に写真を撮った。毛むくじゃらからは不潔な感じはしなくて、洗いたてのバスタオルのような匂いがした。ちょっと待っておいで、毛むくじゃらはカメラを持ってどこかへ行き、三脚だけがポツンと残された。風邪をひいたときのようなざわざわした不安が収まって、私はそろそろ帰りたくなった。もう母親の買い物が終わっているかもしれない、私の姿が見えないと大騒ぎするだろう、むずむずして泣きそうになっているところに毛むくじゃらが帰ってきて、お待たせしました、これ、と写真を一枚渡してくれた。写真のなかの洞窟は舞台セットみたいで、毛むくじゃらと並んで立つ私は嬉しいような困ったような顔をしていた。ありがとう、とお礼を言うと毛むくじゃらはさあと言って帰り道にうながす。バイバイと手を振ってホールを出ていき、薄暗い通路をしばらく進んだところで振り返ると、ホールは暗くなっていて毛むくじゃらの姿は見えなくなっていた。

 あの写真を探しているの、洞窟みたいな場所で緑色の毛むくじゃらの人と一緒に撮った写真、そう言っても祖母たちは理解できない。そしてそれ以上どう上手く言えばいいのか私にもわからない。なあにしんちゃん、夢でも見ていたんでしょう、毎日のようにミニスーパーへ行っているので母親はその日のことを覚えていない。何度もそう言われているうちに、あれは夢だったのかしらと私は思うようになる。でも二人がうつっている写真のことは思い出せるのだ。ただかたちに残っていないというだけで、たしかにあったはずのことがなくなってしまう、そうしていろんなことが忘れ去られ、私のなかから消えていく。そんなおかしなことってあるかしら、と私は不思議に思う。

 

 夏の夜は明るい、でも八時になるともう真っ暗だ。晩ごはんを食べ終え、私はハムスターのケージを外へ出す。昼間の暑さも落ち着いて、家の前の小さな道路を自転車が走っていったきり誰もいない。自分が飼いたいと言ったのでお世話は私がすることになっていて、ゴミ捨て用のビニール袋と水の入ったバケツ、雑巾を置いて父親は家のなかに戻る。ケージの底に敷いてあった新聞紙を指先でつまみ出し、ビニール袋に入れる、トイレはもう取り出してあるけど、新聞紙はハムスターのおしっこが染み込んでいてツンと臭い。私は雑巾をしぼり、ケージの床を拭いていく。手のひらの上に乗って鼻をヒクヒクさせるハムスターは可愛い、池田くんも大木くんも目を輝かせてそっと撫でていた、でも彼らはハムスターのおしっこが臭いのを知らない。

 ケージの床をきれいにして、バケツの水で雑巾を洗ってから空を見上げた。星はあまり見えない。ため息みたいに鼻から息を噴き出すと、我が家と向かいの家とで細長く区切られた夜空を、オレンジ色のまるい光がすーっと横切っていった。オレンジ色はすぐに見えなくなり、しばらくしてからハッとして、私は急いで玄関に入って母親を呼ぶ。代わりに父親が出てきて、手のひらにハムスターを乗せたまま、どうしたのと私を見る。

 私の話を聞きながら父親とハムスターは空を見上げる。月の光じゃなさそうだし、ヘリコプターならまだ音が聞こえるはずだけどなあ。あの光がまたやってくるのではと期待して、父親と一緒に空を見上げたが何も起こらず、私は父親の手のひらの上で鼻をヒクヒクさせているハムスターを撫でた。あれは絶対にUFOだったよ、児童館で読んだばかりのUFOやネッシーを扱った本を思い出しながら言うと、そうだな、そんなオレンジ色の光が空を飛んでたなんて、と父親は言った。あれは宇宙人が乗っているんだよ、と私が言うと父親は手のひらの上のハムスターを見て、宇宙人はUFOに乗って地球に来たりしない、だってここから一番近い生物が住んでいそうな星ですら光の速度で数十年かかるし、そんな速さで飛ぶ乗り物なんてありえない、そう言う人もいるけど、僕は宇宙人いると思うな、だってさ、こんなに広い宇宙なんだもん、きっと無数の生命がいて、僕たちがまだ理解できない方法でこの地球に来ることだって、大いにあり得ることだよ。さあ、ケージの掃除が終わったらこの子をなかに戻してあげよう。今夜は蒸し暑いから、ケージは家の外に置いてあげよう、その方が涼しくてこの子も過ごしやすいだろうから。父親はケージを私の自転車のすぐそばに置き、水入れやトイレを設置したあと、そっとハムスターをケージに入れる。

 その夜はドキドキしてなかなか寝付けなかった。階下から両親の話し声がうっすら聞こえてくる、私はレースのカーテンを引いた窓を見上げる。窓の外に再びあのオレンジ色の光が現れるのではないか、そうして私を知らない間に外へと運び出し、あの光のなかで何か実験をするのではないか、そう考えただけで私は震える。

 翌朝、塀の内側に置いてあったケージを戻そうと玄関を出ると、ケージの入り口が開いていて、ハムスターがいなくなっていた。私はハムスターの名前を呼びながらあたりを探したが見つからなかった。すぐに母親を呼び、会社に行く前の父親と三人で家の周りを見て回ったがだめだった。野良猫が開けたのかな、ほら、猫って器用だったりするでしょ、空っぽのケージを見下ろして母親が言ったが、私は違うことを考えていた。もしかしたら、昨日のUFOが寝ている間にやってきて、人間をさらう代わりにハムスターを連れていったのではないか、父親にそう言おうと思ったが、いつもより家を出るのが遅れてしまった彼は少し不機嫌そうに急いで行ってしまった。母親は私の肩に手を乗せ、生き物はいつかいなくなるから辛いねと言った。

 

 私は小学校の校庭にしゃがみ込んで、白っぽい砂が散らばっている地面をのぞき込んでいる。よく見ると地面にぽつんと黒い点があって、細かく精力的に動いている。青いTシャツの上を風が撫でていき、半袖から突き出た私の腕は新しい空気に包まれていく。暗い影が私をふと包み、すぐに消えていく。見上げると空のあちこちに低い雲が浮かんでいて、風に吹かれて海の方へと流れている。私は校庭の真んなかに移動し、次の雲の影を待ち構える。校庭の隅が薄暗くなり、私はスタートを切って走り出す、そしてすぐに追いつかれ、影はあっという間に去っていく。私は何度も何度も、校庭をダッシュしては雲の影に追い抜かれていく。

 へとへとになって校庭の隅にしゃがみ込んでいると、何してるの? と声をかけられる。私の後ろに、同じクラスの広田くんが立っている。雲がね、速いんだよ、と私は言う。広田くんは四年生になって初めて同じクラスになったので、彼のことはあまりよく知らない。

 ほら、一瞬あたりが暗くなるときがあるでしょ、でもすぐに晴れるでしょ、それって雲の影だったんだよ。それで、雲ってすごく速いんだよ、走っても全然追いつかないの。また校庭のあちらにぼんやり暗い影が生まれて、あっという間に私たちを包み込み、そのまま去っていく。おまえ、変なやつだな、雲と競走するなんて初めて見たよ。広田くんは眉毛にかかるまっすぐの前髪をきらきらさせて言う。ぼくは走るの速くないからダメだけど、梅野くんならいい勝負になるかもしれない、私はクラスで一番足の速い梅野くんの名前を挙げる。梅野? 広田くんはちょっと眉毛を寄せてから、梅野でも無理じゃない、だって雲だよ、空飛んでんだよ、と言って笑ったので、そっか、空を飛んでるんだもんね、地面を走っても追いつけないよね、と私も笑った。

 オレさ、兄ちゃんがいるんだけど、兄ちゃんの友達がすっげー足速いんだよ。前に不良に絡まれたことがあって、あれはいつだったかな、川沿いにある公園の近くでさ、中学生が三人いて、こっちはオレと兄ちゃんと兄ちゃんの友達の三人で、周りに誰もいなくて、金出せって言われたんだ。三千円出せって、なかったら親の財布から盗んでこいって言われてさ、そんなのできるわけないだろ、でも嫌だって言ったら殴られそうでさ、相手は中学生で、囲まれてさ、お前ら家どこだって聞かれて、ヤバい絶対無理って、もう泣きそうだったよ。あ、でもオレは泣いてないけどね。そしたら兄ちゃんの友達が、ふざけんなバカヤロー! っていきなり叫んで相手を押しのけてさ、ブワーッと走り出したわけ。当然不良たちが追いかけたんだけど、もう全然追いつかないの。川沿いの道をダーッて走っていくんだけど、兄ちゃんの友達は靴履いてないんだよ、ビーチサンダルで、ペタペタ音を立てて走ってってさ、バカヤローとかおまえらウンコとか、すっごい悪口言いながら走っていくんだよ。もうめちゃくちゃすごくてさ、グングン差が開いて、あっという間に見えなくなって、あんなに足速い人見たことないよ、あれは絶対オリンピックに出るな。あの人なら雲にも追いつけるよ。

 それで、どうなったの? 私はドキドキしながら広田くんに聞く。お兄ちゃんの友達はうまく逃げおおせたかもしれないが、不良たちはこちらに戻ってきて、広田くんたちをもっとひどく追い詰めるのではないか。大丈夫だよ、そんなの、広田くんは平気な顔をして言う。あいつらが兄ちゃんの友達を追いかけている間に逃げたから、それで近所の交番に行って、通報したんだ。交番に入ったの? 私はおどろいて言った。子供だけで交番に足を踏み入れるなんて、勇気のいることだ。知ってるか、交番ってさ、変な匂いがするんだ。どんな匂い? そうだな、うまく言えないけど変な匂いなんだよ、牢屋みたいな匂いっていうか。広田くん、牢屋の匂い知ってるの? え、ああ、知ってるよ。もちろんオレが捕まったんじゃなくて、親戚のおじさんが警察でさ、一度連れて行ってもらったことがあるんだ、野菜が腐ったような匂いっていうか、口じゃうまく言えないなあ。私はもうびっくりしてしまって、牢屋に行ったことがあるのなら、そりゃあ子供たちだけで交番に行くなんて朝飯前だろうと思ったのだった。

 空気を震わせて空にまるいチャイムが鳴り、校庭はどんどん広くなっていって、遠くで砂煙が舞っていた。私と広田くんも校庭の端から本校舎の二階にある四年二組の教室へ向かった。広田くんとちゃんとしゃべったのは今日が初めてだ。一緒に歩きながら振り向くと、少し背の低い広田くんの白いTシャツの襟首が薄茶色に汚れているのが見えた。(続く)

ありがとうございます。皆さんのサポートを、文章を書くことに、そしてそれを求めてくださる方々へ届けることに、大切に役立てたいと思います。よろしくお願いいたします。