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向き合うって、何?

2021年末、映画締めしようと渋谷へ向かい、映画『偶然と想像』を観ました。

3編の短編映画のオムニバスで、どれも会話劇から成る作品でした。2人の対話の中で自分がどちらの立場により共感できるかを考えたり、自分がこれまで理解することができなかった人の気持ちを知ることができたり、ずっと心に留めておきたい映画のひとつになりました。

中でも私の印象に残ったのは1作目の『魔法(より不確か)』です。話の中で主人公が元恋人に対して「(付き合ってた時)私と向き合ってくれたことあった?」という質問を投げます。これに対して元恋人は「芽衣子(主人公)の話はよく聞いていた、芽衣子の話を聞くのは好きだった」というような内容を答えます。

この対話を聞いて、私も昔主人公と似たようなことを人に言ってしまったことがあったなと思い出しました。また、「あなたはもっと自分と向き合いなさい」とピアノの先生に言われたことも思い出しました。

他人に対して「向き合う」ことも、自分と「向き合う」ことも、巷ではよく大切なことだとされます。しかし、具体的に「向き合う」というのはどういうことなのでしょうか。

まず、自分との向き合い方について考えてみます。ピアノの演奏において、「自分と向き合う」ということは楽譜に示されたひとつひとつの音符に対して、どのような感情を抱き、どのような音色で弾きたいのか自問自答することだと考えます(そして思い浮かべた音色を身体のテクニックによって再現することが演奏するということです)。

※このことに関して詳しい説明は以前の記事にまとめたのでよろしければご参照ください。

これを一般化すると、「自分と向き合う」とは、ある事象に対し自分はどのように感じるのか、そして自分はどうしたいのか、どうなりたいのかを納得いくまで考えることだと思います。

他の誰の意見でもなく、自分がどうしたいのか、どうなりたいのかを知る。そうすると、自分の選択の責任を自分で取らなければならず、また、自分がやりたいと思ったことが何かしらの要因でできなかった場合、大いに心に傷を負うことになります。そして、それは「自分に期待すること」と同義であると思います。自分の努力量や意志の強度次第で、その期待は自分によって裏切られる可能性があります。つまり、「自分と向き合う」ことは傷つく覚悟を持つことであるとも言えます。

では、「他人と向き合う」ことはどうでしょうか。上述の「自分と向き合う」ことの定義の「自分」の部分を「相手」に変えて、それに合わせて文末を調整してみます。

「相手と向き合う」とは、ある事象に対し相手はどのように感じるのか、そして相手はどうしたいのか、どのようになりたいのかを納得いくまで知ろうとすること。

となりました。

相手を深く知ること。これもまた自分が傷つく可能性を秘めた行為だと考えます。

私たちはどうやっても自分の人生しか経験することが出来ないため、相手の感情を自分の経験に基づいて想像したとして、それが100%合っているということはありません。そのため、相手の心を知れば知るほど、相手は自分から見えているその姿と離れていってしまう可能性もあります。

見えている部分を信じていた人にとっては、本当の心の形を知ったとき、裏切られたと感じるかもしれません。大きな傷を負うことになるかもしれません。

つまり「他人と向き合う」ということもまた、傷つく覚悟を持つことであると言えるでしょう。



もちろんそんな覚悟を負うことをせずとも、きっと人は生きていけるでしょう。それでも、「向き合う」という行為が美しいとされているのはなぜなのでしょうか。

あくまで一個人の経験に基づく考えですが、私はピアノを通して自分と向き合ったことで、絶対的に安心できる場所を作ることができたと感じています。少し大袈裟ですが、たとえ世界中が自分の全てを否定したとして、自分の心は自分のピアノの演奏を肯定できるようになりました。そうなるまでに、たくさん自分で自分のことを傷つけたし、ものすごく手間暇をかけましたが、それを乗り越えたからこそ得られた場所がひとつでもあることが、今の私にとってはとても救いになっています。

尊敬している友人が「自分が大丈夫になれる場所をひとつでも多く作ることが生きる上で大切だと思う」と言っていたことを思い出しました。

きっと「向き合う」という行為の先に、自分が大丈夫になれる場所が待っているに違いありません。

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