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ピアノを通して知った「大人になる」の意味

こんにちは。友人の勧めで始めようと思っていたnoteですが、バタバタと日々を過ごす中で半年近く腰が上がらず手付かずでいました。大学四年生、あと半年で学生生活が終わるこのタイミングで、自分の頭の中を整理しつつ生産的な表現ができる場所がやっぱり欲しい!と思ったのでちょろちょろと書き始めようと思います。


突然ですが、「大人になる」ってどういうことだと思いますか?


これはここ数年、私の頭を悩ませていたテーマです。


私は大学でピアノ演奏を専攻しています。そして、ある日のレッスンで先生から頂いた言葉のひとつが「大人になりなさい」でした。


自分で言うのもなんですが、私は基本的に他者の意見に寛容で、性格的にも外見的にも「大人だね〜」「落ち着いてるね〜」とよく言われるタイプです。中学生の時音大にレッスンに行った際には先生から大学生に間違われたこともある程でした(笑)


「自分は大人っぽいんだ」という自負があったからこそ、この日の言葉は、喉に刺さった魚の小骨のように引っかかり続けたのです。


ここで少し専門的な話になってしまうのですが、楽器を演奏する、という行為は単に楽譜の音を追う、ということではありません。音が音楽になるためには「音色」「旋律」「強弱」「音の重なり方」「テンポ」「リズム」「構成」「形式」といった要素が必要になってきます(教科書的な言葉ですみません…)。もちろん、作曲者はこれらの要素に何らかの意図付けをして楽譜を起こしているわけですが、ただ音を追うだけではその意図の全てを表現することは出来ないのです。演奏者自らが楽譜上の音に対し、どのような意図があるのか考えた上で、それを自分の持つ身体的技術でもって音に乗せていく必要があります。つまり、音楽を奏でるということは、楽譜から読みとった自分の考えを、音で表現するということです。


この言葉を頂いた当時の私は、今考えるとかなり迷走していました。大学進学を機に上京し、慣れない一人暮らしの寂しさと、学科同期の演奏技術の高さに対する劣等感と、気難しい先生からの評価が常に自分の頭を悩ませていました。「誰かに認められたい」。練習室に引き篭る日々の中で最も大切だと思っていたのは「他者の自分への評価」でした。


もう1つ先生が仰った言葉で心に引っかかったことがあります。「そういう音楽との向き合い方は自分を疲弊させるよ、人間関係と同じで。」


当時の私のことをもう少し掘り下げると、2週間に1度のレッスンまでに、文字通り「楽譜通り」弾けるように練習していました。つまり、上述した「楽譜の音を追う」ということです。それは、自分の考えで音に意図づけするよりも、先生からの指示を仰ぐ方が"正しい"表現ができると考えていたからです。先生の言う通りにすることで、自分を認めて貰えると思っていたのです。


ところが私の考えとは反対に、そのような演奏をすればするほど先生は曇りの表情を見せ、レッスンの最後には上述の言葉を突きつけて去っていきました。


ここまで読んでくださり、ある程度の読解力をお持ちの方は、私の言いたいことがわかるはずです。


今の私が考える「大人になりなさい」という言葉の答えは「自我を持つ」ということです。


自分の考えで楽譜の音に意図付けし、表現しなさい。それが先生が私に求めていた「大人になること」だったと考えます。


そして音楽とは切り離した一人の人間としても、このことが言えると気がつきました。他者の意見に寛容なことと、自分の考えがないことは紙一重で、後者は一見「大人である」ようで、厳しめに言えばただの思考放棄です。他者の評価に囚われず、自分の有り様や価値観を自分で決断すること、その責任を自分で負うこと。今の私的「大人になる」はこういうことだと考えます。


ところで、「自我を持つ」ことと「ワガママになる」ことも紙一重であるように感じます。実際に、私が自覚的に自我を持つことに対して躊躇いがあったのは、「自己中だよね」と言われて仲間外れにされた過去があったからです(当時は自我がうんたらとか考えずに、ただ自分のあるがままに過ごしてたわけですが…)。しかし、そのような憂慮は自分の意識次第でどうにかなる(というかどうにかする)ものだということもわかりました。このことについてはまたいつか。


最近は先生との関係も良好で(笑)、自分の音に責任を持てるまでピアノと向き合うことを楽しいと思える日々を送っています。自分の決断、選択に責任を持つことを「自由である」と捉えて、これからも進んでいきたいです。

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