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老害とは何か?~偏見的考察~


前書き

どうもKyojinです。Kyojinには京人、強靭、狂人など様々な意味が無理矢理込められていて、逆説的に何者にもなれない現代の若者の心理を表現しています。適当です。前回の投稿は「主体的且つ能動的な人生観の再構築について(前編)」でした。大学のレポート課題よりも手間暇かけて頑張って書いたつもりですが(それでいいのか)、人によっては読む気すら起きないとのフィードバックをいただいております。確かに読む人を選ぶ内容ではありますが、はっきり言われると堪えますね……。人生になんとなくの不安を抱えている方、自分の在り方が他人に依存してしまっていて困っているという方などには特にオススメですので、良ければそちらも読んでいただきたいです。力作です。

さてさて、今日は超高齢社会@日本でお馴染みの「老害」とその発展的解釈について軽く述べていこうと思います。

※この記事において老害という言葉を用いることにより、不快な思いをさせてしまったら申し訳ありません。老害という言葉には時として攻撃的なニュアンスが含まれうるということは承知ですが、筆者の浅学のため他に適当な言葉が見つからず、やむを得ず老害という言葉を使っています。この記事においてご高齢の方一般を中傷する意図は全くありませんのでご了承いただけると幸いです。

「老害」の再定義

Weblioの新語時事用語辞典によると老害とは、

組織や社会で幅を利かせすぎて言動が疎まれる高齢者、あるいは、傍若無人な振る舞いによって若者に必要以上の負担や迷惑をかけている高齢者などを指す表現。ひらたく言えば迷惑な老人を侮蔑交じりに指す表現。
 「老害」の語は、もともとは組織の世代交代・新陳代謝を阻む高齢層といった意味が主流だったといえる。昨今では、組織というよりは世間・社会において迷惑な振る舞いをする老人一般を指す語として用いられている。

とのことである。しかし僕は敢えて補足したいことがある。それは、ここで言う「老人」とは肉体の年齢によってではなく、精神年齢によって定まるものと捉えるのが自然だということだ。老害の拡張定義としてのこれを、「悪老」と呼ぶことにする。(老害という言葉に含まれる攻撃的ニュアンスをなるべく抑えるという意図を反映しつつ)だから例えば、前時代的な理論を振りかざして生徒に体罰を加える40代の教師も「悪老」である。この定義の長所は、知らず知らず人に迷惑をかけてしまうご高齢の方、例えば認知症の方が「老害」として糾弾されるのを防げるという点だ。そもそも人間は多少の迷惑を許容しつつ生きている。その上歳を重ねるとどうしても体や脳の機能にガタが来る。これはもうどうしようもないことであるし、「子供叱るな来た道じゃ、老人笑うな行く道じゃ」の精神ですべからく許容するのがまともな人間である。老いの全てを拒絶する(自称)若者は寧ろ「若害」であろう。と、造語のつもりで「若害」などと書いてみたのであるが、同様の考えをする人は世の中に多いようで既に存在しているらしく、若害と検索すると出てきた。Weblioの実用日本語表現辞典によると若害とは、

周囲の大人の困惑や反感を招く言動が目立つような若年層(若者)を、社会的な害悪というニュアンスが多分に込めて呼ぶ罵り交じりの表現。周囲に迷惑をかける高齢者(老人)を「老害」と呼ぶ言い方が、先行して半ば定着しつつあり、「若害」は老害をもじった表現と解釈できる。

とのことである。世の中には色んな言葉があるものだ。ともかく、気に食わない年上を誰彼構わず「老害」や「悪老」扱いするのは若害にほかならないということと、若いからと言って何でも許されるわけではないことに注意しなければならない。悪老だけをやり玉に挙げるのも不公平なので、いずれ若害についても記事も上げようと思う。

悪老とは具体的にどんなの?

悪老には大まかに三種類ある。ここでは保身型、自己中型、攻撃型と呼ぶことにする。字面から何となくイメージが湧くという方も多かろうが、順に説明していく。また、あまりにも一般的な意味での老害(電車内で騒ぐご老人だとか)はわざわざ解説するまでもないので、ここからは悪老についてのみ記そうと思う。

保身型の悪老

保身が第一、我が身が一番可愛い系の悪老で、主に組織の中でその害を発揮する。わりとよく居る……。年を取るにつれて保守的になるのは当然といえば当然のことでもあるから「悪」と断罪してしまうのも酷な話ではあるかもしれない。しかしあくまで若者の立場から言わせてもらうとするならば「邪魔」である。想像してみてほしい、画期的な提案には悉く反対し現状維持に固執する上司を。生徒総会で可決された案を(およそ非論理的な理由を添えて)悉く却下する教師を。きっと容易に想像できるであろう。若者の可能性や想像力を頭打ちにするような行動は容認されるべきではない。若い力こそが組織、延いては世の中をより良い方向へと進める原動力であるのだから。

自己中型の悪老
断っておくが、自己中心的な人間が周りに迷惑をかけるのは、何も老人に限ったことではない。ただここで敢えて悪老というのは、一般に年長者は敬われるべきであるとの社会的通念のせい、或いは年長者ほど組織において地位が高い傾向にあるせいである。影響力が強く、そしてそれを自覚している人間ののわがままほど迷惑度が増すのは当然のことである。逆に言えば、強い影響力を持ちながら利他的な意思決定をする人間には心からの敬意を抱く必要がある。生徒思いで偉ぶらない校長先生や、国民の理想を実現するために骨を折り、必要とあらば上にも意見するような政治家ほど尊敬すべき人種もそう多くあるまい。

攻撃型の悪老
他の二つの悪老に比べて圧倒的に数は少ないような気がする。しかし部活動での体罰が明るみになって度々ニュースで取り上げられるように、体育系の組織などに根強く残っているのは紛れもない事実である。彼らを蛮行へと突き動かすのは、暴力を教育上の必要悪として肯定する前時代的な価値観だけではない。己の感情を抑えられずに生徒に暴行を加えるということもあるのだ。その事例として岐陽高校体罰死事件が挙げられる。学校にヘアードライヤーを持って来るという些細な校則違反のために生徒が命を落としたこの事件は痛ましいというほかない。

こういった真剣に向き合わねばならない事例を扱うのにはためらいがあったが、悪老という問題が存外根深い問題であるということをお知りいただくために敢えて挙げさせていただいた。(一口に悪老、とくくるべき問題ではないかもしれないが)

このような極端な例を除いても、若者の言動を頭ごなしに否定することや前時代的な価値観を強要することも広義的には「攻撃」である。たとえば「女の子はおしとやかに振る舞い、いいお婿さんを見つけて家庭を作りなさい」と娘に教育するのは、人格に対する立派な攻撃である。攻撃される側はその言葉を直接相手にしてはならず、あくまでも俯瞰的な視点からその言葉の持つ意味を分析し、弁証法的に己の価値観を発展させながら立ち振る舞いを決定しなければならない。その過程は恐らくストレスに満ちたものになるだろう。(筆者も似たような経験がある)しかし若者に向けられたこういう類のアンチテーゼは、ある意味で若者の成長を促す大人からのエールととらえることもできよう。闇雲に悪老の言葉を否定するのではなく、十分な根拠と信念で以って論駁することは、新たなるより良い価値観を構築する上で必要な作業であるのだから。

悪老の成り立ち

さて悪老は如何にして悪老となりし乎。一概に述べることは難しいがある程度の推測はできる。

すべての大人はかつては若者だった。そして現代の若者と同様に、彼らもまた当時の大人たちの価値観と戦っていた。学生運動をはじめ、様々な抵抗が具体的な現象を伴って行われた。親の反対を押し切って田舎を出、東京で一旗揚げようとするのもささやかながら立派な抵抗であったろう。しかし彼らは大人になるにつれて既存の価値観に迎合するようになった。処世術を身に着けていく程に、社会の中で生きていくことが快適に思えるようになってきた。これまで自分を苦しめてきたものー自分の価値観と社会の価値観との不和が解消されて楽になり、「ああこれが大人になるということなのだ」と謎の自己肯定感を覚える。ここで悪老になるかならないかの境界が現れる。その境界というのはいくつかあるので、先に紹介した三種についてそれぞれ説明するとともに、それぞれの悪老への対処法を一言ずつ述べる。

保身型の悪老における境界
保身型の悪老になるか否かは、自分が楽になるために行った社会への迎合をどこまでも肯定するか否かである。自分が楽な状態であることをどこまでも追求しそのためには手段を選ばないという人間が行き着く先は、究極の現状維持である。迎合して楽になったという状態をいつまでも維持しようと思い、思考放棄に陥った結果が保身型の悪老である。この種類の悪老への対処法は、「その人と同等以上の立場にある他の人に頼る」くらいしかない。悲しいことに何を熱弁したところであまり響かないので、真っ向から向き合おうというのはおそらく時間の無駄である。唯一の救いは、積極的に危害を加えてくることはほとんど無いという点であろうか。
自己中型の悪老における境界
自己中型の悪老になるか否かは、社会への迎合によって楽になったことを成功体験と見なして調子づくか否かであろう。確かに自らのマインドセットを変化させることにより気持ちが楽になったというのは、捉え方によっては成功体験に思えなくもない。しかしそれは南極の調査隊が遭難中に、仕方なく調査に必要な装備を廃棄して身軽になったようなものである。(たとえが下手)生き延びることが先決とは言え、貴重なものを捨てて身軽になるということを成功体験に位置付けてしまっては、この先の人生でなにが大切なのかも分からなくなってしまう。その上無駄に調子づいて成功者面をするというのが自己中型の老害である。対処法としては、関わらないのが一番である。
攻撃型の悪老における境界
攻撃型の悪老になるか否かは、社会(or自分が信じている価値観)への迎合を若者に強要するか否かである。または単に、老化によって感情の制御が利かなくなるか否かである。ここでは前者について考える。前者は、タチの悪いことに自分が若者を導くのだという正義感、使命感に駆られているので多少の暴力や人格否定をも必要悪だとみなしがちである。それが更にカッとなりやすい気性と合わさると過剰な暴力に発展するのは、先に挙げた体罰事件の通りである。対処法については安易なことは言えないが、信頼できる第三者を介してしっかり話し合うことである。もし暴力を受けることが有れば、その後の謝罪の有無にかかわらず信頼できる大人の誰かに話しておくべきであろう。暴力とはエスカレートし易いものであるので、耐え難い暴力になった時に手遅れにならないように早めに手を打っておくべきである。

あとがき

ざっくり考察するつもりだったのですが、気付いたら4000文字を超えていました。ここまで読んでくださった方は勿論、ざっと流し読みして下さった方もありがとうございます。途中深刻な話題にも触れましたし、きわどい表現もあったと思うので、もし不適切だと見受けられる部分がありましたらコメント欄にお書きくださると助かります。
次回何を挙げるかは未定ですが、自殺をテーマにした考察、自作の詩、人生哲学の後編などを考えています。そちらもお読みいただけると嬉しいです。最後に、もしこの記事が少しでも面白いと感じられたらいいねを押してくださるとすごく励みになります!(Kyojin)

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