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△時代の変容を受けながら綴る、わたしのこと1

先日読んだ本から始まる、「音楽とわたし」についての記述です(後述しますが、先日といってもかなり前のこと)。大きなタイトルをつけましたが、続編があるかどうかは未定です。ありそうな予感がしている、という程度。

菅野恵理子 著
未来の人材は「音楽」で育てる
 世界をひらく5つのリベラルアーツ・マインド
株式会社アステルパブリッシング 2018年

本文中に出てくる曲のうち、「知らないなあ」「あっ、これ聴いてみたい」と直感的に思ったものを、YouTubeで検索して、流しながら読み進めました。

普段は静かに読みたいタイプなのですが、この本に間しては、たくさん楽曲が紹介されていたので、興味を持ちまして。章が変わるときには、前の章の気持ちを引きずりたくなくて、曲が終わるまでぼーっと待ってみたり、窓辺を眺めてみたり(この日は雨でした)。
流した楽曲のリストは、また後ほど。

読了感

別に、文化的な暮らしをしている自分に酔ってるとか、そういうことではないですけれど(音楽とかこういうテーマの本とかに興味がない人からは、そう見えるのかな?と勝手に想像しています)。でも、我ながら、ちょっと文化的なことをしたなぁと興奮したのは事実です。

「興奮」というのがミソなんですが、この読書体験は個人的な満足度に密着したものです。それを記したこの投稿も然り。人に自慢したいとかどうこうではなく、自己満足なわけです。

音楽、好きなんですよね。やっぱり。

それでふと思い出したのが、こちらの記事です。

「好きなこと」とは

大意は「好きなことをして生きようと考えるがゆえに、好きなこと探しから始めなければならないという矛盾」「好きなことをして生きている(ように見える)人は、たまたまそれが性に合って、それで生きているというだけの話」「無理に好きなことを仕事にせずとも、日々のちょっとしたことに喜びを感じていればそれでいいじゃない?」と言ったところ。
詳しくは記事をご参照ください。

これを読んだとき、すごく考えさせられました。
たしかにわたしは「好き」なだけで、それ以上なにができるわけでもない。でも、やっているうちに何かできるようになるのではないか、という期待めいたものも、ないわけではない。

・好きだからやりたい
・好きでも(=やってみたけど)できるとは限らない
・やればできるかも
この3つは、無限ループしてしまうんですよね。
やればできるかも→じゃあやろう、好きなんだから
というように、容易に振り出しに戻ることが可能なので…。

その無限ループのせいで苦しくなってしまうようであれば、ループから脱してずっと好きでいられる方法を考えるほうが自分のためだし、はたまた苦しくともそのループの中で生きていくことによって「好き」と付き合い続けたいのならば、それなりの覚悟を決めなければならない。

「好き」という気持ちは、
・ループから脱することによって維持できる場合
・ループの中に居続けることによって維持できる場合
どちらもあると思います。きっといろいろなんだよね。人によって、ものによって、時によって。

だから、好き<苦しい、になってしまったら、付き合い方を変える必要があると思います。

わたしも、一時期、ループの中にいて「苦しい」が「好き」を上回ってしまったことがあって。それ以来、少し距離を置いたり、頭をやわらかくしたり工夫していて、今はまた「好き」を噛みしめている。なんて幸せ者なんだろう、とも思う。

ずっと同じものを「好き」でいなくてもいいし、仮に同じものが好きだとしても、ずっと同じ強さで「好き」と思い続ける必要はない。「不変の好き」なんて存在しないのだな、というのが、ここ最近の学びです。

こんな人におすすめ

冒頭で載せた本の話に戻ります。

これは幅広い人に読んでほしいなと感じるトピックなので、本の内容をひとことに集約してみます。無理を承知でがんばると、
作曲家の業績をテーマごとにまとめ、現代の教育にどう活かすかという視点で書かれた本
です。

「教育にどう活かすか」なので、対象(想定される読者)は、音楽が好きな人だけではありません。音楽好きにはもちろん興味深いでしょうが、本のタイトルからはピンとこない人も、ぜひ。

教育関係者、教養を身につけたい人、人間に関心のあるかた、などなど。子育てのイメージを膨らませるのにも良いかも(具体的な育児の指南書ではないので、「イメージを膨らませる」というアバウトな言い回しにしました)。

電子書籍版も出ています。お好みに合うほうをどうぞ。

♪読書のお供(プレイリスト)

さて、本の紹介を終えたところで、わたしが読書時に流した楽曲を挙げておきます。

♪ストラヴィンスキー 《三つの日本の抒情詩》
♪リスト 《「ドン・ジョヴァンニ」追想》S.418
♪プーランク 《シテール島への船出》FP148
♪ショスタコーヴィチ ピアノ五重奏曲 op.57
※曲名からYouTubeのページへ飛べます。表記は、動画タイトルではなく、本に準じたもの。

あとがき

自分の内なるものと連動しすぎていて、ずっと投稿できませんでした。なんと、下書きの作成は19年7月…!これはnoteを始めた翌月なので、かなり初期からの #熟成下書き ということになります。
また、11月には「今、書きたいこと」と題した投稿の中でも「わたしと音楽について」というトピックを挙げて、自分なりに「書くぞ」という思いを高めていたのですが、それでもなお、投稿に至らず。

重い腰をあげたきっかけは、ひとつには、昨今の状況下において音楽というものが、これまでのような在り方(たとえば広い空間で大人数に向けて生音を届けること)を続けられなくなっていることがあります。

とても悲しいことですし、このジャンルを生業としている人にとっては、毎日が戦いだと思います。でも、わたし個人の話で言えば、この状況はある意味での息抜きにもなっています。
自分にとって魅力的なプログラムや出演者での催しがあるとき、純粋な「行きたい」という気持ちから出向けるならよいのですが、「行かなければ」とか「行くべき」とかそういう邪念が混ざることもある。それってもったいないことだと思うんです。自分の心の在りようのせいで、せっかくの催しの魅力が半減してしまうのだから。

ちなみに、わたしは元々、ミュージックプレイヤーや動画サイトから音楽を聴くことが少なく、ときたま訪れる生音で楽しむ機会を、楽しみにしていたタイプです。あとはテレビで放送されるものをみるぐらい。

では、そういった催しがなくなってしまった今はどうでしょう。
自粛の初期には、客入りを予定していたはずの演奏会が無観客で行われ、ラジオやインターネット上で無料配信されることがたびたびありました。その後、リハーサルや本番時における「人の密集」にもリスクがあると判断されるようになり、今はほとんどリアルタイムで演奏が生み出されることはないと思います。その分、過去の音源・映像が放出され、新たな需要を生み出している。

かく言うわたしも、自宅で音楽を楽しむことが増えてきて、新たな需要の一端を担っています。これまでとは違った形での、音楽との関わり方。きっかけは「(生で楽しむ機会がないから)仕方なく」だとしても、実際にはそれを楽しんでいる自分がいる。

こうした変化は、これからもっと大きくなっていくかもしれない。そう思ったときに、「今(の在り方)を書き残すのは今(の自分に)しかできない」という気持ちが強まり、こうして文章をつづっています。まとまりもないし、いつも以上に支離滅裂かもしれないけれど、書けてよかったです。

最後まで目を通してくださった方がもしいらしたら、貴重なお時間をいただき、ありがとうございました。
普段はもう少し軽めなトーンで書いているので、また覗いていただけたら嬉しいです。noteの更新状況は、Twitter @_oya_smi でもお知らせしています!

七志野さんかく△

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