22. 若さと分別

 誰もが受ける呪いというのがある。若いうちだけその呪いに苦しむ人もいれば、一生解けないままの人もいる。美醜と性についての呪いである。
 若い間に出会う美男美女の引力というのは、本当に底知れない。初恋の相手を思い出してほしい。一目惚れ、という人がほとんどではないだろうか。美容垢、整形垢なるものを覗いてみる。楽しさと苦悩がないまぜである。そして、性にまつわることもまた、苦悩の種である。性欲がなくなればいいのに、性器を切り落とせたらいいのに、と考えたことがきっと一度はあるだろう。
 かつて社会にのさばる「性」の意識が憎い、という文章を書いたことがあった。2019年頃の話で、すでにページは消えてしまっていた。もうネットの海のどこを探しても見つからないが、かなりの熱量(というよりは憤懣)を込めて書いたものだった。当時の私は失恋の真っ只中にあり、別れた恋人がどうやら自分を純粋にただ「人として」好いてくれたわけではないこと、それが原因で破局したと思い、怒っていた。怒り狂っている時に書く文章というのは痛々しくて読んでいてもばつの悪くなるようなものだが、やはりキレがあった。非常に活きの良い怪文書である。
 「性」が寝食と同列に扱われればいい、性によってハンディを負うことも下駄をはかされることもなくなればいい、セックスワーカーも性的少数者もいわゆる「恋愛弱者」も苦しむことがなくなればいい。社会が性を重視しすぎるために、私たちの生態の一つに過ぎないものが自己評価にまで響きこんなにも苦しむのだ、と思っていた。誰も「性」に今ほど頓着しなくなれば問題は幾分解消されるはずだ、という主旨のことを書いた。
 しかし、実際の問題はもっとずっと入り組んでいる。直近で、上智大学のミスコンが廃止された際にも小さな炎上が見られたが、ただ抑え込めばいいものではない。

 美醜について、私が考えたのと似たような構想で、しかしとても精緻に書かれたSFがあることを、後になって知った。テッド・チャンの『あなたの人生の物語』(浅倉久志訳、2003、ハヤカワ文庫)に収録された『顔の美醜について』という一編である。
 美醜についての認識を変える技術が存在したら、我々はどのように選択をするだろうか。
 物語の設定はシンプルで、「カリー・アグノシア」(美醜失認処置。以下カリー)を大学に導入するかどうかを巡る、様々な人々の討論がドキュメンタリー風にまとめられている。
 「カリー」は、薬剤によって特定部位の脳損傷を真似る「きわめて選択的な麻酔剤」である。これによって個々人の顔が見分けられなくなったり、顔の特徴が見えなくなったりするわけではない。見たままの顔を認識し、ただ美醜への感度をなくすだけである。ある大学への入学の条件に、美醜の失認を含めるべきか否か。大学教員や委員会、美容業界や広告業界まで巻き込んだ激しい論戦が始まる。

・SNSからの影響が大きすぎる。美容整形を受けたがる子どもたちが増えている。必要のない苦しみである
・自分の子どもを不当な差別から守りたい。分別のある子どもに育てたい
・カリーを受けてからコンプレックスを感じず、リラックスして誰とでも話せる
・すでに導入された高校では、外見にハンディを負った学生の割合が世間一般より高い
・クラス委員の選挙で選ばれたのは、顔の半分に火傷の痕のある少女。一般の学校では仲間外れにされていたに違いない
・顔の美醜が分からずとも、行いの美醜は誰にでもよりよく分かるようになるはずだ
・カリーを選択している時点で成熟している

・テクノロジーによる目隠し。エキスパート・システムに判断を委ねているだけ
・善意ではあるが、子供扱いに近い。誰もが美の恩恵を受けられるはずである。その権利を奪うのは犯罪に等しい
・外した後に人との付き合い方を一から学び直すことになった
・頭が良く、話の面白いボーイフレンドが全くモテなくなっていた
・100パーセントの賛同を得られる可能性はない。処置を受けない少数の人間が外見による差別をした際に、大部分の人間は気づかないことになってしまう。ルッキズムを許さないのであれば、なおさらカリーを選んではならない

・好きな時に有効化と無効化を切り替えられれば、仕事中はカリーをつけ、プライベートでは外したい

 ざっとまとめたため、表現の異なる部分もあるが、それぞれ納得できるものである。学生の中にも教員の中にも、「成熟」という言葉を使った意見があった。「成熟に近道はない」。答えのない問いであるが、私はこの意見には賛成である。美も性も祝福であり、呪いである。良いものとして享受することもできれば、苦しんだり苦しめられることもある。ただ、それを見ないものとして抑圧してしまえば、私たちは一生乗り越えられないままである。
 主人公(に近いポジションにある)のタメラは、カリーを外してから自分が美女であることを知り、その魅力によって不器量な元恋人とよりを戻そうと試みる。元恋人が不器量であることを知っても、彼女の気持ちは変わらない。一時ボーイフレンドはタミラに釘付けになるものの、再びカリーを受けることを選択する。「あてが外れた」と言いつつ、タミラは自身ももう一度カリーを受け、真っ向から彼と向きあうことを選択する。
 幾分美談めいたものはあるが、彼女は成熟した上で「カリー」を選んだのではないだろうか。美醜への心の動きと功罪を理解した上で、選択できたのである。
 もし社会の大部分の人が、性や美醜についてタミラのように理解することができたら。少なくとも本気で考え、討論する時間や場、そもそもの土壌を得ることができれば。我々の青春はもっと明るく、健康的なものになるのではないだろうか。成熟を取り上げてはならない。自分と周りの人々を不要な苦悩から守りたい、と強く願う。

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