【騙されたと思って読んでみて】やみつきになる、高瀬隼子作品
またもや気になる本を見つけた。
このあらすじが妙に惹かれた。
そして写真を撮り忘れたが、本書の帯にはでかでかと書かれた「ぶつかったる。」の文字。(気が向いたときにぜひ書店で見てみてほしい)
攻撃性を感じさせる言葉である「ぶつかったる。」と、それに反してのポップなカバーイラスト。
その調和がなんとも良かったのである。
みなさんにもこんな経験はないだろうか。
・職場での一コマ。
コピー用紙や文房具が切れてる!在庫を出さなきゃ、って在庫もないじゃん!何で誰も気づかないの?もしかして見て見ぬフリ…?なんか腑に落ちないけど、とりあえず発注しとかなきゃ…。
・今度友達と旅行することになったとき。
飛行機と新幹線、どっちがいいかな。ホテルはどこがいいかな。いろいろ探して予約して、観光スポットも調べて予定を組んで…ってあれ?なんか私ばかりが動いてない??何でみんな何もしてくれないの?
このような日々の些細なモヤモヤでも、積み重なると大きなストレスとなって自分を押し潰していく。
そうやって自分ばかりがみんなの代わりに動いているような、損をしているような、そんな気がして納得がいかなくなること。それは私にもしばしば起こることなので非常に共感できた。
さらにそれを「割に合わなさ」という言葉でうまく表現されているのが良かった。
そして、「なんで私ばっかり」という気持ちは、私たちが普遍的に抱く感情だといえる。
モヤモヤはするけれど、結局我慢しがちなその心理に、本書ではメスを入れている。私はそこに興味を持った。
歩きスマホをしている人を見て、「危ないなぁ、一度ぶつかってみないと懲りないのでは?」と思うことはあるかもしれないけれど、そう感じながらも避けて危険を回避するというのが大抵の人の考えだろう。
けれど主人公の直子は、『ぶつかったる』という強い気持ちを持って、本当に避けずにぶつかってしまうのだ。
仕事でもプライベートでも「いい子」な直子。そんな直子も、内ではたくさんの「むかつきの感情」に満ちている。
職場で、友人の前で、彼氏の前で…様々な場面で損得勘定を感じざるを得ない直子は「割に合わなさ」を募らせていく。
著者の高瀬さんは本書の刊行記念インタビューでこう述べている。
「普通のOLが日々生きていると、むかつくなあということがやたら多いと思って」
そう。普通の人が日々の生活の中で感じることが書かれているわけであって、それは普遍的なことだ。
直子も普通のOLのうちの一人。
だけれど、そこに「異常さ」が垣間見えた気がした。
溢れ出てくるむかつきの感情が、そして「誰かの割を食いたくない」という強固な意志が、「スマホを見ながら歩く人とぶつかりそうなとき」という限定的な状況になると否応なく発揮されるのは何でだろう、と疑問になる。
要するに、ぶつかると自分も怪我をするおそれがある。それこそ損だ。
そうなると、自分が避けてあげる以上の割を食うことになる。
普段、損得勘定を意識する人間がそんな行動を取るだろうか、と感じたのだ。
当初はそれがある種の「異常さ」にも思えた。
そう考えた矢先、しかしながらそれは異常とは言えないことに気付く。
積もり積もったむかつきの感情が溢れたときの、異常にも見える危うさというものはきっと誰しもが持ち合わせているもの。
普段はみんな我慢しているけれど、その我慢が限界に達したとき、直子のように思わずして誰かを傷つける加害者になりかねない。
身体面でも精神面でも、なにか人が限界を迎えたとき、自分でも予期せぬ行動を起こす可能性は否定できない。
そういう意味でもこれは異常なんかではない、普通の人を淡々と描いているんだ、と思い至った。
物語の序盤でいきなりそれは起こる。
直子がわざとぶつかったことで車と接触してしまった男子高校生。そのことが次第に広まり、大ごとになっていく。
「えっ、どうなっていくの」とページをめくる手が止まらなかった。
この先直子に救いがあるのだろうか、救われてほしい。となかば祈るような気持ちで読了した。
個人的にはなんだかすっきりしない終わり方だった。けれど、この終わり方も、この主人公らしいのかもしれない。
高瀬さんといえば、芥川賞受賞作の『おいしいご飯が食べられますように』。
こちらの作品もラストがあまり自分の好みではなかったのだけれど、それを分かっていても、読まずにはいられない中毒性が高瀬隼子さんの作品にはある。
読後に感じたラストの腑に落ちなさも、結局は時間が経つごとに、乖離していたはずの自分の感情と徐々に馴染んでいき、やっぱりこの物語にはあのラストが相応しいのだなと振り返ることになる。
そしてこの時、「私は初めからすでに高瀬さんの掌の上だったというわけか」と痛感させられる。
高瀬さんの、巧みな心理描写でしか味わえない感覚を、私は欲しているのだ。
そして日頃感じてはいるけれど、なかなか言葉にするのが難しい、何気ない日常の「そこ(ある一部分)」を描くのが本当に上手い。
「いい子のあくび」のほか、同著に収録されている「お供え」「末永い幸せ」の2編にも、同じことが言える。
そこにはどんでん返しがあるわけではない。物語が大きく動く場面でも、やはり主人公の心の動きが淡々と語られている。
けれど、その微妙な内面がうまく言葉で表現されていて、そこに面白さがある。
『おいしいごはんが食べられますように』もそうだった。
気づくと最後のページを迎えている感じだ。
ページはそこで終わっていても、主人公の物語はこれからもずっと続いているような余韻があるが、主人公はきっとこう生きていくんだろうなと何となく分かるような、でもつかめないような、不思議な感覚。
もしかするとこれが、私が高瀬さんの作品に感じる中毒性の正体なのかもしれない。
このnoteを書いている今、早くも高瀬さんの次回作が待ち遠しくてたまらない気持ちだ。
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