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連載「建築におけるフィクションについての12章」序章 立石遼太郎

フィクションの輪郭/建築の語り口

本連載は、“建築におけるフィクションとはなにか”あるいは“建築におけるフィクションの対義語とはなにか”について考えていくことを目的としている。月に1回、ひとりの建築家の作品を取り上げ、1年間で計12の作品を通じて、“フィクション”という、わかっているようで実はかたちの定まっていないものに輪郭を与えつつ、同時に建築という曖昧模糊としたものにある特定の語り口を与えたい。
“なにかを通して建築を考える”ことは、語り口にある滑らかさを与えてくれる。その“なにか”が現実から離れていけば離れていくほど、口は滑らかになっていく。
かつて大学院の修士制作で取り組んだ《静かなレトリック》(2015)*1では、「修辞学」という現実から逃げ続ける作用が、303の語り口を生み出した。

建築はおもしろいのか

なぜ建築におけるフィクションなのか、と問われれば、フィクションが“おもしろさ”を目的としているからだと答えたい。一口に“おもしろさ”といっても、そこには様々なおもしろみがあることは承知している。しかし、少なくともフィクションに“おもしろさ”を見出さなければ、僕らはそれを消費することをやめてしまうことも事実である。あるフィクション──それが小説であれ映画やドラマ、漫画であれ、誰かにその評価を伝えるとき、僕らはまずそれが“おもしろいか/おもしろくないか”その評価を真っ先に伝えるだろう。この事態が、フィクションの目的がおもしろさであることのなによりの証明である。
翻って、建築の目的は、と問われれば、一般的には“その中で行われることを機能的に整えること”や、“その佇まいを美しくすること”、あるいは近年は“コミュニティをつくりだすこと”だと僕らは答えるのだろう。しかし建築がある特定の“おもしろさ”を生み出しているか否かは、現代においてそれほど重要視されていないように思える。建築の評価を誰かに伝えるとき、おもしろいかおもしろくないか、という評価軸を用意することは極めて稀だ。
建築にフィクションという視座を与え、改めて建築について考えてみることは、建築は果たしておもしろいのか、おもしろいとすればどのようなおもしろさがあるのか、それを問うことだと僕は考えている。

凍れる音楽の音色

かつて、フリードリヒ・シュレーゲル(1772-1829)という詩人が建築を〈凍れる音楽である〉と形容した*2。この至言には色々な解釈の余地が残されているが、仮に〈凍れる音楽〉を、“瞬間的に固まった美しさ”だと解釈するならば、果たしてその時点から建築は凍ったままなのか、建築のなにが凍っていて、もし溶かす必要があるのならば、なにを溶かすべきなのか──こうした疑問が生まれてくる。フィクションという視座は、その解凍方法のひとつになるのではないか、という予感が僕にはある。解凍された建築の形が、もしくは熱源となるフィクションの輪郭が、取り上げる作品の数だけ存在するのか、それともうまくひとつの像を結ぶのか、はたまた燃え尽きて形すら残らないのか。現時点ではこれもまた曖昧ではあるが、熱を与えるにはエネルギーが必要で、エネルギーを与えられたもののエントロピーは増大し乱雑さは増していく。建築(物の評価)を乱雑にし、建築という考え方が指し示す範囲をもっと広げていくことをこの連載の最終的な目的としたい。

音色は翼がもたらすか、土台がもたらすか

フィクションとは人間の想像力の産物であるがゆえ、想像力の翼に乗せて、建築を大きく飛翔させる、という常套句をここで用いることができれば格好がよいが、僕の貧しい想像力では建築という広範な概念、あるいはフィクションという難敵を飛翔させることは不可能だ。僕の見立てではおそらく、この連載が向かうベクトルはしばらく下を向く──これを飛翔と対比させれば地滑りとでもいうのだろうか。建築とフィクションという概念を支える台を取り去り、台無しにさせ、地滑りを起こす──10章、いや11章までは地滑りを続け、とても背の低い風景を用意したい。第12章でようやく、飛翔させるための小さな土台を用意する程度の、しかし新たな語り方のための強固な土台を用意したい。凍れる音楽に音色を与えるのは、一個人の想像力ではない。台無しの先に用意された論理という新たな土台が音色を与えてくれる。現時点で僕は、そのようなことを考えている。

予告

この序章は、時を追うごとに加筆される予告としても機能し、かつ、各章は次の章の呼水にもなる。
第1章では、青木淳《青森県立美術館》(2005)を通じてフィクションという概念をざっと整理してみたいと思う。
第2章は、古澤大輔の自邸である《古澤邸》(2019)を取り上げ、第1章の注釈内で少し触れた、フィクションの虚構性と物語性のうち、虚構性について考えていきたい。
第3章は、篠原一男《白の家》(1967)が一体なにを象徴しているのか、ということを考えたい。第2章で書いたように、〈虚構システム〉と〈虚構物語〉を交互に論じていく。そのため3章では、《白の家》の象徴を通して、虚構物語の理解を深めたいと思う。
第4章では、中山英之《2004》(2006)を考えたい。中山による建築物は、フィクションという言葉を抜きにしては語ることができないだろう。しかし、いったいなにが中山英之とフィクションを結び付けているのか。第2章と第3章で展開した虚構システム・虚構物語の議論を再考しながら、この問題について考えたい。
中山英之を考えるということは、日本の現代建築を考えることと同じことかもしれない。《2004》には不足しているなにかを、《弦と弧》(2017)で補いたいと思う。ふたつの建築物を取り上げるため、ふたつの章を跨ぐことになる。第4章は、やがて第5章で展開していく議論の序論と位置づけ、第5章で論を結ぶつもりだ。
第5章は、第4章での予告通り、《2004》と《弦と弧》のふたつの建築物を取り上げる。第4章の伏線を回収しながら〈虚構システム〉・〈虚構物語〉の議論に一定の結論づけを行いつつ、第6章以降の主題を投げかける。
ここで連載も折り返し地点を迎える。これまで、建築におけるフィクションを考察するにあたり、僕らはフィクションの側に立ち、議論を続けていた。第6章以降、視座は現実の側に移っていく。
第6章では、渡邊洋治《斜めの家》(1976)を観察しつつ、「事実」とフィクションの関係を考えたい。
第7章は「現実」について考えていく。連載も折り返し地点を過ぎた。第1章から第6章までの間、「現実」という言葉はフィクションの対義語として扱っていたが、第7章ではその「現実」を再定義したい。
冒頭で、現実という言葉が第6章まででどのような位置づけとなっていたのかを振り返る。中盤では、ジェラール・ジュネット『物語のディスクール』をはじめとした物語論の歴史を眺めつつ、生物建築舎《天神山のアトリエ》(2011)を通じて、建築における「現実」とはどのようなものか、建築におけるフィクションにとって「現実」とはなにかに言及していく。
第8章は、引き続き現実について考えていきながら、「実際」という言葉についても考えていきたい。精神科医の木村敏の著作を通じ、第7章で考察した現実のふたつの様相に対してより深い考察を与えつつ、伊東豊雄の代表作、とりわけ《中野本町の家》について考えていく。《中野本町の家》を通じて、建築におけるフィクションは定義づけられるだろう。第8章において、建築におけるフィクションの片方の土台が完成する。
第6章から第8章で、僕らはフィクションの対義語について考えていた。フィクションの対義語を事実・現実・実際と定め、ひとつひとつ定義していくことにより、建築におけるフィクションは、建築に内在するアクチュアリティ/外在するアクチュアリティのズレのなかにある、というひとつの結論を迎えた。
第9章からの3章では、僕らはついにフィクションそのものを定義づけていく。アクチュアリティのズレがフィクションの対義語から逆照射した建築におけるフィクションの定義=土台だとすれば、フィクションそのものを考えることは、建築におけるフィクションのもうひとつの土台を用意することと等しい。第9章では、もう一度第2章の地点まで戻り、これまでたどってきた道筋と同じ道を進もう。巻き戻してもう一度初めから再生する。そのなかで、いくつかの大きな矛盾が生じる。その矛盾を解消するために、本連載はふと、もうひとつの並行な世界に入ることを余儀なくされるだろう。これまでの僕らの道筋がモダニズム的な思考方法——対応説で舗装されていたとすれば、ここから先の3章は、いわば同じ道のりを別の舗装にリノベーションするようなものだ。並行な世界の中で、僕らは新しい舗装がノンモダニズムという素材でできていたことに気づくだろう。新たな舗装のうえで、長坂常《Sayama Flat》(2008)を眺めてみよう。
第10章も引き続き、並行な世界の新しい舗装の上を進んでいく。まずは第1章の重要な鍵概念「フィクションのサバイバルライン」について再考、整理しよう。その後、第8章でのリアリティ/アクチュアリティの対比構造に、多木浩二『生きられた家』を重ね付けて再考してみる。第10章ではヴァーチュアリティという概念が、論の中核を占めるはずだ。第8章の終わりに僕らが仮構した建築におけるフィクションの結論は、果たして揺らぐのだろうか。そもそも建築はおもしろいのだろうか。増田信吾+大坪克亘《リビングプール》(2014)を題材に本連載の核心に迫っていく。
第11章は、第10章で整った土台と、第12章でやがて登場する上家を繋ぐためのアンカーとして位置付けられる。第8章と第10章で整えた土台の特徴について深く考察することからはじめ、フィクションと現実の接点としてヴァーチャルリアリティを、本連載におけるアンカーとして見立てよう。ヴァーチュアリティを通して、人間と機械、人間とフィクションの関係を考察することで、僕らはやがてサバイバルラインの誕生の瞬間に立ち会うこととなる。その瞬間の前後に、阿部勤の《中心のある家》を訪れよう。この建築物が、これまでの9つの建築物と、第1章・第12章で訪れた/訪れる《青森県立美術館》を接続するアンカーとして機能することに期待しながら。
第12章は、再び出発点に戻ろう。土台は整い、アンカーは用意された。あとは上屋を建てればいい。「建築におけるフィクションについての12章」は、《青森県立美術館》で始まり、《青森県立美術館》で終わる。この章立ては、いわば「青森県立美術館は青森県立美術館である」という、一種のトートロジー構文だ。トートロジー構文は、それ自体は無意味だが、ひとつ前の一文と合わせて考えると様々な意味をもつ。「青森県立美術館は青森県立美術館である」という一文も、これまで整えてきた土台とアンカーを“ひとつ前の一文”とみなせば、おぼろげながら意味をもち始める。この一文に意味が見出された時、建築におけるフィクションの全容はようやく明らかになるだろう。その先に、建築の新しい語り口がある。

立石遼太郎

*1
《静かなレトリック》とは、303の日本語における修辞技法に対し、303の建築物を当てはめるという手法によって、これまで“言葉で表現することが難しいと考えられてきた建築物”の新たな語り方を提示する試みである。レトリックは、この世界の複雑性に対し僕らの言葉があまりにも少ないとき、例えば、ピーター・ズントーや谷口吉生による建築物のように、表す言葉が見当たらないようなものに対して要請される。レトリックが、文章の装飾術であり、詭弁であると同時に、発見的な世界認識の方法でもあることに着目し、建築物のある特徴的な部分を取り上げ、そこに修辞技法をあてはめてみるという方法をとった。建築物の新たな語り口を提示することも目的のひとつだが、建築の発見的な認識を提示することを最も重要な目的としている。そのエッセンスは、「建築の修辞学──装飾としてのレトリック」として「10+1 website」2018年4月号に論考を寄稿したので、読んでいただきたい。

*2
「建築は凍れる音楽である」という至言は、実のところ誰の言葉であるか、明確ではない。ゲーテによる言葉とされることも多い。日本においてはアーネスト・フェノロサ、もしくはブルーノ・タウトが法隆寺を形容した際のエピソードなども有名である。一説によると西洋では古くからある常套句であり、伝承的な性格をもつとまでいわれている。ここでは、東京ゲーテ記念館「ゲーテと音楽」 (最終閲覧日2019.05.31)を採用した。


立石遼太郎(たていし・りょうたろう)
1987年大阪生まれ。武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。Akademie der bildenden Künste Wien留学。東京藝術大学大学院美術研究科建築専攻修了。現在、松島潤平建築設計事務所勤務。

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2019年6月より毎月10日更新(日曜・祝日の場合は翌月曜)。1年間、計12回の連載。 記事1本ごとの価格は300円。 12本まとめた価格は2,400円。

「フィクション」の概念を通して、建築を捉える試論。全12章の構成。///立石遼太郎氏は、修士制作《静かなレトリック》(2015、東京藝術大…

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