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第9章 リノベーションされた舗装のうえで──Sayama Flat 立石遼太郎

一方の端に触れたら他の端が揺らいだのだ、という気がした。
アントン・チェーホフ「学生」『子どもたち・曠野 他十遍』、松下裕訳 岩波書店、2009

0 もう一方の土台

改めて読み返すと、序章には以下のように書かれていた。

建築とフィクションという概念を支える台を取り去り、台無しにさせ、地滑りを起こす——10章、いや11章までは地滑りを続け、とても背の低い風景を用意したい。12章でようやく、飛翔させるための小さな土台を用意する程度の、しかし新たな語り方のための強固な土台を用意したい。凍れる音楽に音色を与えるのは、一個人の想像力ではない。台無しの先に用意された論理という新たな土台が音色を与えてくれる。

そう、僕らが探し求めていたものは、建築におけるフィクションの「土台」であった。第8章、僕らはついに土台を探し当てた。建築におけるフィクションは「内在するアクチュアリティと外在するアクチュアリティのズレ」のなかにあったのだ。
確かに土台のひとつである。いや、チェーホフに倣えば、土台の一端であるといえるだろう。なぜなら、この土台は、フィクションの対義語から逆照射した土台の一端に過ぎないからだ。
第12章を迎える頃には、もう片方の端にある土台を探さねばならないが、土台である以上、他の端にある土台は、これまでの土台と同じレベルになければならない。片方が、他方の上にあっても、下にあっても土台としては成立しない。ふたつの土台を同じレベルに揃えるためには、これまでの議論を振り返りつつ、どこかで並行世界に足を踏み入れる方法が適しているだろう。巻き戻して、もう一度再生をするなかで、ふと並行な世界にある他方の端に触れる、そのような歩みでもう片方の土台を探していこうと思う。

1 フィクションと虚構

大事なことを決めようと思ったときはね、まず最初はどうでもいいようなところから始めた方がいい。誰が見てもわかる、誰が考えてもわかる本当に馬鹿みたいになところから始めるんだ。
村上春樹『ねじまき鳥クロニクル 予言する鳥編』新潮社、1994

フィクションについて考えるためには、まずは僕らの日常生活に馴染みの深い事実や現実、実際といったところから考えた方が始めやすい。実際、僕らが第6章第7章第8章において辿ったのは、そのような道のりであった。
事実や現実、実際について考えることは、「誰が見てもわかる、誰が考えてもわかる本当に馬鹿みたいな」行為かもしれないが、フィクションはそれほどややこしいものなのだ。現に、本当に馬鹿みたいなところから考えてみたことで、フィクションの一端に触れることができた。物事は、誰が考えてもわかるようなところを、改めて考えてみなければ理解することはできない。
チェーホフではないが、一方の端に触れると、他方の端が揺れることはよくある。馬鹿みたいなところから導き出された建築におけるフィクションの土台の一端は、第9章、第10章、第11章において揺らぐことになるだろう。本章から続くこの3章では、チェーホフのいう「他方の端」、村上春樹のいう「大事なことを決めよう」と思う。すなわち、フィクションや虚構、ヴァーチャル、イリュージョン……、そのものについて考えていきたい。ようやく僕らは他方の端に触れることができるのだ。

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