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2月のピント

なんだか今日はやけに解像度の高い夜空が広がっていたから、センチメンタルに引きずられることしきりだった。2月の夜空はいつも遠く澄んでいて、時折頬を撫ぜる冷たい風と寒さのせいか、広がる景色の輪郭もやけにくっきりして、目に映る全部が鮮やかに感じられる。

アスファルトの歩道を、タッセルのついた黒いローファーで踏みしめる。いつだったかは思い出せないけれどなんだか見たことのある景色で、視界には似たような賃貸マンションと等間隔でそびえ立つのっぽの電柱たちが映るだけ。けれど最近見た景色じゃないように思われるのはきっと、目の前に広がる景色への、ピントの絞り方が違うせいか。

手繰り寄せた記憶の中で私はもっとムッとした湿気に包まれていて、膨張するみたいに広がる数メートル先の十字路とそれに呼応するように揺れる夜空を見ているのであって、なるほど2月よりも大きくピントが外れた夜空が広がっているのであるけれども、理科的な知識で言えばそれは陽炎でありであるならきっとそれは夏であり云々というふうになってしまうから全てを原理に即して説明することを助ける科学の前に、センチメンタルを言語化することに魂を削る営みがいかに無力であるか、まざまざと見せつけられた気分になる。

今日はもうこれ以上のセンチメンタルはという気持ちで、電車のしかくい窓が切り取る景色に背中を向けていたのはもう、1時間も前のことだ。背を向けていたのが、どうも良くなかった。もちろん背を向けるだけじゃ私は飽かず、Airpodsから最大音量で流れるTempalayが私の精神世界にシールドをかけてくれるから、おセンチな夜空を背中に抱えて自我の風呂敷を広げ、まあまあ混み合った電車の中、自分だけの世界を作ることにしていたのだ。わたしが車内に作る自分だけの領域は、外からかんたんに覗けるような四面総ガラス張りの公衆ボックスみたいなそれじゃなくって例えばイギリスはロンドンのシティガールが電話口で待つ彼のためグロスで光らせた唇を勿体ぶって開くためにあるような、明度の低いあの赤い格子で頑丈に守られているような、そんなボックスであってくれたら、これ以上望むことはないかもしれないなんて、空想をしながら。

私はマスクの下であくびを噛み殺しつつも、携帯の画面に指をすべらせるふりをしながら、目線の端で車内に座るいろいろな人たちをとらえようとする。携帯電話を横に向けて熱心に動画を観ているらしい人、赤い見出しが躍るスポーツ新聞を半分に折り曲げて一面記事の下の広告にまで目を通しているらしい人、ピンと張った姿勢を保ったまま手作りのカバーにくるまれた文庫本の中の文字列を大切そうに目で追っているらしい人。彼も彼女もみな、それぞれが手に持っている携帯電話やら新聞紙やら文庫本やらを通して精神世界に入り込んでいるみたいだ。
文庫本の彼女には、薄いピンクのボックスがいいだろう。薄いベージュのピーコートと、同じようなベージュ地にピンクのチェック模様が差し色のように入った薄手のマフラーが可憐で、彩度が揃ったピンクのボックスの中で彼女は文庫本がみせる世界を、より鮮やかに体験できるに違いない。

携帯電話は──頭の中で私はあの眠くて寒い高校2年生の冬の午前中にいて、小論文の授業でもったいぶって「書き方」を解説する男性教師の低い声を聴いている──ひとりひとりが、大抵の場合共用せずに所有するし、それぞれの暮らしや交遊、趣味と密接に結びついていて、みなが自分の所持する携帯電話と一体化している。携帯を開いた瞬間にあたかも見えない皮膜に包まれたみたいに自己の世界を閉鎖して、そこに没入している、と、筆者は書いていますね。なるほど、この車内はどうだ、思う私をよそに男性教師はさらに続ける。そうして車内という社会空間にはいくつもの自己領域が出現し、秩序ある車内は複数に分割された姿がイメージ可能になる。そうしていくつもの自己領域で分割された秩序は社会レベルにまで敷衍されて、「社会なき社会」という「アノミー状態」が生まれるのです。

ここまで、大丈夫ですか?

男性教師の声とともに、音楽と音楽のインターバルが訪れて、一瞬で自我と外界に隙間が開く。滑り込んできたのは駅への到着を告げる車掌のアナウンス。車掌さんは感情のない声で2駅も先の駅の名前を連呼していて、ほとんど絶句してしまった。とっくに終わった受験勉強のことを反芻するもつかの間、もう頭の中で咳ばらいをしながら解説を続けていたあの男性教師の声もどこへやら。私は自宅までの道のりを約1時間ほど歩いてたどらねばならなくなってしまって、そしてその道はどうやら、夏ぶりに歩く道のようだった。

「気象庁から関東地方で”春一番”が吹いたという発表もあり、あすも暖かな空気の流れ込みやすい状況が続くでしょう。」

テレビの向こうで夜の寒気をものともせず微笑むお天気お姉さんを思い出しながら私は、電車を待っていた。

小田急線はまだ来ない。向かいのホームに目をやると、小さなベンチには陽だまりの中で楽しそうにはしゃぐ母子が目に入る。きっとこれから新宿とは逆方面の電車に乗って、早咲きの桜でも見るのだろう。柔らかい陽光に包まれたホームの上で電車を待つ人は、みな花粉症をはやりやまいと勘違いされたくないようで、遠慮がちなくしゃみをする。となりで同じように向かいのホームを眺めるでもなさそうに眺めていたあなたも例に漏れず、心配ないんですよとでも言いたそうなくしゃみをひとつ、私はそのくしゃみのニュアンスがおかしくて笑いだしてしまう。やっぱり花粉症じゃない人にはこの辛さはわからないよねと悔しそうなあなたに、馬鹿にしているわけじゃないんだよと伝えたし、実際に馬鹿にしているわけでは全くなかった。

優しい風が吹いて穏やかな陽光が注ぐ春の昼下がりって、なんだか目の前に広がる全てが、フィルムカメラのような淡さで、粒子で、感度で、映り込んでくる感じがしない? だからすべてのものが愛おしく感じられるし、目を細めて、すべてをいつくしむように、笑うことを許される気がするの。7月とか8月とか、夏本番になっちゃうと、完全にピントがぼけたように感じるし、映り込むものがどうこうじゃなくってはやく涼しい場所に行きたいって思っちゃうんだけど。でも季節のピントにもグラデーションがあって、春を経由するまでの、2月がいちばんエモーショナルなの。昼と夜でちがう絞り値を通して世界を見てるみたいな気持ちになるんだよね。この前考え事してたら電車乗り過ごしちゃったんだけど、あ、つい最近、数日前かな。なんか、その日の夜は風は澄んでるわ冷たいわ、景色の輪郭はピントをしぼったくらいくっきりと切り取られてるわで、うわあ、考え事に誘ってるような夜じゃんって思っちゃって。ちょうど今、2月も終わるって時期の昼下がりには、3月のフィルムカメラを前借りしているみたいな、ピントのぼけたフィルムカメラくらいアンニュイな柔らかい景色が広がっているのに、夜にはしっかりピントが合いすぎるくらい合ってる、って最近思うの。

それって、昼はこんな感じ?

あなたは首から下げたミラーレスの一眼を私に向けて、楽しそうに1枚を切り取る。今の話はカメラやってない人にしては具体的だねと、やさしく笑いながら。

新宿に向かう各駅停車がやってくる。電車は風を切りながらホームへとやってきて、風の残像の中から暖かい春の香りが広がっていく。電車に乗る人たちはみな笑顔で、ちょっとピントのぼけた視界を通して、彼らだけの世界を共有している。自己領域を飛び越えた、彼らだけのボックスの中で。

そこには彼らにしかわからない話があって、彼らにしか決められない約束ごとがあって、彼らにしか歩めなかった歴史がある。彼らにしか作れないボックスの中、カップルかもしれない、兄妹かもしれない、親子かもしれない、親友かもしれない、名前もないかもしれない関係と彼らだけのなにかを温め続ける。

2月のふたつのピントの中で私は、自己領域を広げたり、縮めたりしている。私には私にしかない世界があって、あなたにはあなたにしかない世界があって、それは重なり合うけれどけっして混じり合わなくて、けれどピントだとかボックスだとか、言葉を介して懸命に共有する足掛かりを作ろうとする。

自己領域は共有してもいいものなのだと気が付いたのは、つい最近のことだ。いま、ふと人生って過ぎ行くなーって思った、って言ってみたら電車では静かな声で話そうねって言われて意味もなくマスクを鼻の上まで引っ張って、それで私たちは静かに並んで座った。あたたかな日差しが注ぐ昼下がりの各駅停車は新宿に向かって走り出し、ピントが絞られる夜までに、まだこのフィルムを通して景色を見ていたいと私はぼんやり思って、そういう日曜日がこれからも続いてほしいと思う。


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