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答えに大きな花丸を


みたいものも

みたくないものも

自分の感覚では選べなくて

上っ面なことはわからないのに

本質だけがみえてしまうがゆえに

日々感じることは多い。


なにかが優れているかわりの

代償は大きい。

人が悩まない部分で悩んだり

人が理解できることが理解できなくて

理解できないことすら理解してもらえない。

話したところでわかってもらえることも

少なくてたくさん口をつぐんできた場面も多い。



目に見えない発達障害を

抱えて生きるわたしは


ずっと、ひとりぼっちだ。


だけどその孤独すらも丸め込んで

生きていくと決めた。


だけどそれが揺らぐ瞬間が

私にはまだある。小さなこと。


決めては揺らぎ、決めては揺らぎ
いつか揺らぐことのない自分になると
知っているから、口に出して決め続けている。


明らかに傍からみて変人だった私が

普通でいなくちゃと装ってきた結果

いつの間にか周りに集まる人たちも

変化していたことに

自分の変人さを許可してから気付いた。


小・中と変人な自分を隠さずにいた頃は

周りに集まっている仲間も

オリジナリティの塊みたいな

自分という世界観が確立している

人たちばかりだった。

何かに特化した好きを持っていて

信念の強い人たち。

今思えばみんな発達障害の傾向を

持ち合わせていたと感じるけれど

いい意味で変な人たちとの付き合いは

皆がみな、自分らしく生きていて

私にとって居心地がよく

心を通わせられる豊かさに満ちていて

本当に幸せで楽しい日々だった。



だけどトラウマとなった

出来事をきっかけに

私は180℃人が変わった。




自分の変人さを許せなくなって

さらに大人になるにつれ

努力しても出来ないこと

理解できないことは増え続けた。

子どもでも出来るような色々なことが

本当に出来ない。

でもそれらを死に物狂いの努力で

カバーしようと必死に生きてきた。



ふと気付けば

世間的にいう"普通"という枠組に

疑いもせずハマれる人たちに

周りを囲まれていた。

それこそが当時の私が望んだ世界だった。

ずっと憧れていた安心の世界。


みんなが好きなものを一緒に好きになって

みんなが良いというものを一緒に求めて

みんなが幸せというものを欲しがる。

その枠にそって一喜一憂し、良し悪しを決め

不平不満を言い合いながら

幸せだと言って日々を過ごす。

我慢を我慢と思わないほど嘘が上手で。


グラデーションはあれど

私が見つけた"普通"の世界の答えは

こんな感覚がした。

まるで、麻薬のような味がした。



付け加えておくけれど

今私は普通とか変とかのどちらの世界観も

良いとも悪いとも思っていない。

本人がそれで本当に幸せなら

それで良いと思っているし

ただの説明として普通とか変という

くくりで話している。

どっちの世界線だって何だって良い。



こういう話をしていると言われるのが

そんなに普通とか変とかで
決めなくていいんじゃない?
みんなそういう部分あるでしょ。

という言葉。

この言葉こそが、見えない壁が

見えない証拠だと私は思う。

そういう風に感じられるからこそ

枠がうまれて

実際に起きているみえない偏見があるんだ。


生きづらさを抱えた人だけが

遭遇し見ることのできる暗闇が確かにある。


だからこそ

私の求めている世界での言葉はこれだ。



「あなたはそういう風に思うんだね。」

「あなたにはそう見えるんだね。」

「あなたはそう感じたんだね。」

「じゃあ、きっとそうなんだね。」



私の見てる世界は私だけのもので

良いも悪いもなく正解そのものなのに

行動のみならず

いつもその思考すら矯正されてきた。

頭がおかしい、変だ、改めなさいと。



私は意見を言っているだけだったり

一生懸命やっているだけだったりしても

そんな風に

すぐに何かに定義づけられてしまう。

1番言われてきたのは、怖いという言葉。


"普通"の世界では

口当たりの良い言葉が優しいということで

嘘をついたり我慢していてもその場だけの
良い雰囲気を取り繕えれば幸せの形で

嘘や我慢を重ねても見える形の方が大事で
一緒にいることだけに意味があって
友人や夫婦、家族でいられる。


それが当たり前なんだよ仕方ないんだよ、と。


それが大事なんだと私は私に思い込ませて
一生懸命私もそうやって生きようとした。


何度もそんな風に必死で嘘をついて我慢した。

嘘をつくのは特に私にとって
耐えがたいほどの苦痛で
何度も泣きながら嘘をついた。

だけど全っ然優しさでも愛でも何でもないし
幸せでもないし豊かでもなかった。
そんなのなにかにとって
利益があるかどうかで作られた価値観だ。

出来上がったのは私がいてもいなくても
変わらないような上辺ばかりの人間関係。


何かがおかしいと思った。
絶対に変だと思った。


そうやって自分の本当や
本物を探して歩いてやっぱり気付いたのは


私の世界ではそんなことあり得ない。
そんなの全部嘘だ、偽物だ、ということ。


今の私はもうそんな世界で
自分を殺して生きていくくらいなら
死んでしまった方がよっぽどマシだと
思うくらいに嘘もつけなければ
我慢も出来ない。

そんな私を受け入れてもらえない
場所や人がいるなら
私はその場所と人を手放す。

子どもの頃は選べなかった
選択肢が大人になるとたくさんある。

明らかに社会的にみたら
生きづらい選択だという評価なのは
頭では分かっているけれど

本当にもう嫌なんだ。


そういうの全部嫌だ。大嫌いだ。


どうしてそうなの?

なんでそうなるの?

何言ってるの?意味がわからない。

どうしてこうしないの?


変わってるね、おかしい、怖い。


こんな風に言われるのもうんざりする。

勝手にそう思っててもらって構わない、と思う。



そう言われるたびに圧倒的な

価値観の違いに気付かされる。

人種が違うという言葉が正しいほどに。

私は地球に紛れ込んだ宇宙人みたいだ。

同じ言葉を話しているはずなのに

こんなにも伝わらない。


でも、今はそれも嘆いていない。



私がおもっている

優しいって、愛ってそういうものじゃない。

幸せってそんなものじゃない。

人と何かを築くってそんなことじゃない。

もっともっともっと豊かなんだ。


まぁまぁそんなこと言わないで、と

そんなこと言ってもね…

と諭されるといつも壁を感じる。

私はそういう話をしてるんじゃない。

私ははなから誰も、何も否定してない。

わたしは、私の話だけをずっとしてる。


本質が伝わる人は本音で会話出来る人が多くて

伝わらない人は本音で人と会話することが少ないということがわかる。

本音で人と会話出来るかって

どれだけ自分と対話したかの延長なんだ。

会話って自分が感じたこと思うことを

スパパパンと話し合うことだから。

そこにジャッジをのせたら会話は

成り立たないからそこでおわる。

良い人、悪い人が出来上がって終了。

そうなった時点で私はそれ以上何も語らない。


そういうあらゆるジャッジがなくて

どんな時も無条件の愛しかない

幸せしかない、人との繋がりって

豊かな循環って本当にある。


誰でもいいじゃなくて

依存や惰性でもなく

私でないと意味がなくて

あなたでないと意味がない。

そういう関係と場所、作品を
私はもっとたくさん創りたい。


なんでこんな話をし出したかといえば

久しぶりに突然得体の知れない

イライラが爆発して、驚いて戸惑ったから。

怒りは人に当てないで

原動力にする。ガソリンとして。

本当にイライラしてるのは

目の前の人じゃなくて

自分の行動に潜む嘘や我慢にだから

私は今見つけた気付きを原動のまま綴ってる。



もっともっと削ぐ。

私にとって不要なもの。

全部いらない。



人の価値観はその人のもの。

私が求めているのは交わらなくていいということ。

だからもう本当に理解も共感も全くいらない。

グッとまた肚に決めた。


わからないならわからないままでいいから

そのままのあなたでいてください。

私が見たいのは違いだ。

誰かに寄り添おうとしたら

生まれない世界なんだ。


生半可に近づいたり寄り添おうとすれば私は

まだ境界線を引くのがうまくないので

きっとあなたを傷付けるかもしれません。

私はいつでも誰にでもどこでも

本気で全力で生きているので。


私の言葉が愛だと感じられるなら

きっと同じ世界に生きる人だと思います。


私自身に今必要なのは愛のある意見だけ。

あなたの感じた温度のある言葉だけ。

それ以外は、もう受け取りません。


普通になりたかった過去の私

その時に出会ったひとたち

さようなら。


新しい今の私を、私は受け入れます。

そういう人との繋がりが増えている今

だからこそ。しっかりと。


好きなことをする

やりたいことをすると

同じくらいに

嫌なことはしない

やりたくないことはやらないは

自分を生きる上で必須だ。


自分が今何を感じたか、だけが私の答え。


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