書籍批評(ネタバレ要素あり):『推し、燃ゆ/宇佐見りん』

 『推し、燃ゆ』を読んだ。購入したのは2021年前後だったと思うが、すっかり積読になってしまっていた。購入した当時話題になっていたことを思い出し、この度読むことにした。若い筆者が書いた本であり、芥川賞も受賞し、世界的にも評価を受けたらしいということだけ知っていた。

 先に全体的な感想を述べる。非常に現代的な作品だと思った。良くも悪くも。

 推し活が文字通りの生き甲斐である主人公のあかり、彼女はおそらく一種の発達障害を抱えているようだった。そして、彼女の家族も決して健全とは思えなかった。所謂、毒親と呼ばれるような母、妹に比べて出来は良いが母の機嫌をずっと伺っているような姉、単身赴任とはいえ何処か他人事のような父親。機能不全家族とでもいうのだろうか。そのような感じであった。そんな生きにくさ、息のしにくさの救いとして、主人公のあかりは推しに傾倒していくのだが、その推しが炎上してしまう。あかりにとって、推しは背骨であり、生き甲斐だ。そんな彼がネットのおもちゃにされてしまう。それでも彼女は推しのために生活を捧げる。

 非常に現代的だ。推し活、発達障害、機能不全家族、ネットでおもちゃにされるアイドルやタレント、現代社会の問題を詰め合わせた贅沢セットとでもいうべきだろうか。その割には全てが中途半端だった。ノンフィクションブログを読んでいるような気分だった。タイトルは『推し、燃ゆ』となっているが、読んだ私は燃え切らない、不完全燃焼感を味わうだけだった。

 情景描写は素直に美しいと思うことがあった。詩的表現で、思わず感心する箇所もあった。だがそれだけだった。寧ろ、描写を美しく、鮮明に描こうとし過ぎていて、肝心の物語やテーマが伴っていないようにさえ感じた。一つの場面を描写するのに何行も費やしていて、正直胃もたれした。途中から気分が悪くなり、読むのを中断したくなった。情景や心理を鮮明に描き過ぎていて、想像の余白がない、読んでいて息苦しくなるような作品だった。食べ方を全て矯正されているような料理を味わっているような感覚だった。読んで考え、思考を膨らませるのではなく、読まされている、想像させられているような感じだ。押し付けがましささえ感じた。

 主人公に対しても不快感を感じた。発達障害の苦しさというのは共感はできないが理解できる。世間一般の普通ができないというのは生きにくいだろう。それでもだ。彼女の発言には一種の甘えのようなものを感じた。発達障害という免罪符を掲げ、好きなことはする、私は普通に生きることがことができない人間、理解して欲しいとでもいいたげだ。個人的な価値観だが、苦しいからこそ向き合って欲しかった。自分なりに社会との折り合いをつけ、苦しみの中でもがいて欲しかった。彼女にとってのそれは推し活だったのかもしれないが、私が感じたのは単なる依存だった。自分の意志で、自ら考えて社会と向き合うことから目を背け、盲目的に推し活に励む。推しのためならばと、必死に働き、側からみれば異常ともとれるほどに推しに全てを捧げる。はっきり言って気色が悪い。別にアイドルを推すことやそれに時間や金を費やすことは理解できる。が、彼女の推し方ははっきり言って気持ちが悪いのだ。読んでいて不愉快になる。悲劇のヒロインを演じる道具として推しを利用していて、推しに依存し、同情を惹こうするような描写が不快で胃もたれした。

 作中の推しこと、上野真幸くんは割と好きだ。芸能界への反抗心ともとれる行動、勝手に好きになって理解したような気になって、推しているファンを突き放すような行動は非常に人間味を感じられて好感を持った。

 私は冒頭、「この作品は現代的だと感じた」と言った。それは本書のテーマや主人公たちの描かれ方も勿論なのだが、本書の売れ方や評判に対しても思ったのだ。個人的な感想だが、この本は本自体の魅力は伴っていない売れ方や注目のされ方をしている。マーケティング的に成功した作品、中身とは別の売れ方をした作品、「現代的な売れ方をした作品」でというのがしっくりきた。若手の作家、センセーショナルな冒頭とそれを前面に押し出した売り出し方、そして思わず手をとりたくさせるような和テイストでどこかエモい表紙。正直、本屋で購入した時、少し立ち読みをしたら買わなかっただろう。必要以上に期待値を高められ、かえって大きく落胆させられた。人々の目を惹くような広告にお金をかけ、流行りのアーティストや俳優を起用し、エモい音楽を流し、いかにも泣ける映画感を出してくる作品に似たものを感じる。受けてを馬鹿にしているとまでは言わないが、舐めている感を感じた。これが「芥川賞を受賞した純文学作品」なのか。。。

 『推し、燃ゆ』を読んで私が感じたことは以上だ。脈絡や構成もひったくれもなく、思うままに書き殴ってしまった。だが、これはあくまで私個人の感想でしかない。他の人は素晴らしいと評価するかもしれない。私の読み取る力、考える力が単に不足しているだけかもしれない。それでも感じたことは言葉しておきたかったのでブログにした。逆に言えば、これだけ感情を動かされる作品ではあった。(決して、私にとって良い意味ではないが。)このような駄文を読んでくださり感謝します。

 では、またいつかどこかで。

追記(2023/12/31):
 私はなるべく物事に白黒をつけたくない。一概に善悪や正否を決めてしまうのは主義ではない。物事は相対的で、結局のところ主観でしか評価することができないだろうと思っている。そのため、殊更特定の人や作品に対して断定したり、批判したりする気持ちを抑えようと努力している。(側からみればできているのか怪しいが。)
 しかし、この作品を読んだ後にはブレーキが効かなかった。どうしても抑えられなかったのだ。本記事を書き終えた後にも、もやもやとした感情は残り続け、なぜ私は本作に対して違和感を感じているのだろうと度々考えていた。そして、暫定的ではあるが一つの結論に落ち着いた。私は本作に『熱』を感じなかったのだ。
 人が何かを伝えようとする時、それは現実世界にあるもので表現しようとする。言葉であり、映像であり、絵であり、手段は多種多様だ。必死になって伝えようとしても、情報は抜け落ちてしまう。それでもどうにか伝えようとした気持ちの表出を形にしようとする。そして、受けて側も元の情報にまで戻せないしても、想像力をもって近い形を感じようとする。その営みを体現するような、『熱』や『気持ち』、『信念』の表出として感じられる作品を私は好む。作者の『熱』に近づけなくとも、近づきたいと思える作品が好きだ。文の美しさ、表現技法などは手段であり、言葉の違いや訛りなどのようなものだと考えているところがある。
 だがこの作品に私が感じたのは、表出じゃなかった。むしろ逆だった。最初から綺麗な表出を作ろうとしていて、そこにテーマやメッセージを詰め込んだような感じだ。言語化できない奥底にあるものをどうにか表現したというよりは、より表面に近いものを巧みに翻訳し、文字起こしをしているかに感じられた。私の読解力拙いばかりに作者の『熱』に近づけなかったのかもしれないが。
 本作は私の「『熱』を感じたい」、「作者や登場人物の気持ちに近づきたい」という気持ちは不完全燃焼に終わったのが、逆に私がそのような願望を持っていること、創作物を含めたコミュニケーションに対する自信の哲学を自覚することができた。そういった意味で、私に影響を与えてくれた作品なのかもしれない。

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