masahiro ito
自身初の書籍「絶対写真論ーアルゴリズム・オブジェクトとしての写真へ」について、各チャプター毎に本書を紐解いていきます。
書籍・図録・映像などのまとめ、要約、感想などを綴っています。
トニー・ゴドフリー著『コンセプチュアル・アート』を読み解いています。
副題「アルゴリズム・オブジェクトとしての写真へ」。 kindle direct publishing(KDP)の仕様に弄ばれながらもなんとか形になった、修論+αの論考。KDPの審査も通り、晴れて出版となりました!記念すべき、自身初の書籍です。 ただし、ペーパーバック版のサンプル画像、印刷用の表紙をAmazon側で処理しているそうで、解像度をあげらないか問い合わせてみるも、許容範囲内とのこと。。印刷には影響ないが、ボケてみえるのはいただけない...。ということで、下記にアッ
久しぶりに朝からアート鑑賞に足を運んでみた。 なぜこれがこのような形式で提示されているのか。見てはモヤモヤするケースが非常に多い。 わかりすぎるとつまらない。かと言って突き放しすぎると解釈のしようもない。ましてやパーソナルな内容には興味はない。 おそらく理由は明確で、私も制作をするからこそ、作品vs鑑賞者の構図ではなく、自分であればどのような提示をするか、このセレクトは本当に正しかったのかといった、常に自問をしているからである。 しかし、こうしたモヤモヤもまた制作の原
最近話題のChatGPT。 即時に回答してくれ、対話の精度も高い。ChatGPTはどのような理念(アルゴリズム)に基づいて回答しているのか気になり、いくつかブラックボックスを覗いてみることにした。 ******************** ChatGPTの存在意義は人間が利用することによって、有益となったり、解決する手助けをする点にある。あくまで「人間」のための「ツール」であることを強調する。人間とAIとは共存することで意味をなすものであり、人間がいなければChatGP
昨年に引き続き、第3回目となる「POST/PHOTOGRAPHY」展が京都芸術大学で催されます。 https://www.instagram.com/postphotography3/ 今年の副題は「INTERPLAY」=相互作用。東京工芸大学との共同展示とのこと。 本展は第1回目より、これからの写真を提唱するひとつの呼称として「POST/PHOTOGRAPHY」を掲げている。しかし、提示する当の本人たちはあくまで「写真」を提示しているだけにすぎない。 この「写真」の
Yahoo!ニュースで以下の記事を目にした。 米医師試験の問題提示方法がどのような内容かは知らないが、たとえば知識を問うような内容であれば、当然ながらAIの方が優位であろう。 問題を解いたのは対話型AIである「ChatGPT」。 対話型、すなわち質問に対して回答するタイプのAI。 なお、現在でも画像診断の分野ではAIがメインで解析を行っている。しかし、最終的な病理判断は医師が行っている。それは、責任の所在を明らかとするためにほかならない。 AIが言ったからすべて正し
「私」という人間はどういう人物であろうか。 それを知るためには、他者と比較することによってのみ「私」という人間の輪郭が明確となってくる。 逆説的にいえば、他者が存在しなければ「私」がどういう人間であるのか、知る術はないのである。 つまり「他者と比較して」というのが隠された接頭語として存在しているにも関わらず、私たちはそのことに対してあえて意識はしない。 性格、見た目、長所や短所などなど。他者はステレオタイプな人物像であったり、特定の人物であるかもしれない。(その人と比
母校でもあるNPIが主催で、来週末(1/14)にスーザン・メイぜラスのオンライントークショーが催されるそうです。 スーザン・メイゼラス、、聞いたことのない名前でしたが、マグナム・フォトの会長を務めていらっしゃる人だそうです。 写真に興味がある、もっというと写真を撮ることに興味がある方は視聴してみるのもいいかもしれません。 なぜ写真を撮るのか。どうしてこの写真を撮ったのか。モチベーションは?セレクトは? すべてにおいて主語は写真を撮る「私」にあります。写真は撮らなければ
あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いします。 今年はどんな年になるでしょうでしょうか。誕生日を迎えるといよいよ40代に突入します。 さしあたって、昨年の個展終了後から引越し作業に追われ、全く制作を行えていないので、まずはリサーチから開始しようと思います。 何をテーマに取り扱おうか、なところからスタートではありますが。 写真は、、撮る可能性は低いですが、最終形態としての「写真」を提示することになろうかと思います。 展示は、、どうでしょうね。機会があれば
2022年も残すところ数日となったところで、今年を振り返ってみようと思います。 3月、2020年4月に入学した大学院を晴れて修了し、無事にMFA(芸術学修士)を取得することができた。 翌4月、修士論文をベースに加筆し、自身初の出版物『絶対写真論』をAmazonセルフパブリッシングで販売した。 9月、自身初となる個展『Absolute Photographs』を大学院の先輩が今年に開廊されたギャラリーで展示できるはこびとなった。 12月には9年間住んだところから引越し。
といっても、市販の製品を説明書通りに組み立てる程度なのですが。 あらかじめ完成形はみえている(決まっている)ため、ただひたすらに組み立てていく。 普段の制作活動において、創造するのは乱数的なイメージ、すなわち予測不可能なものを作り出そうとしている。 その一方で、設計図をもとに決められたものを作ることは、いわば「作業」として捉えることができよう。 制作する上で、どのようなモチベーションで取り組むか。夜な夜な作業をしていた中で、制作時の心構えに触れた気がする。
お休み理由を明日更新予定です。
10月の展示が終わって以降、怒涛のスケジュールによって、すっかり写真と距離を置いた生活を余儀なくされていた。 そんな中先日、空蓮房で催されている「森石川山水図」をみにいく機会があった。 書家の森と写真家の石川×キュレーター大倉による本展。身体性、生と死を直接的に提示した内容であった。 そこで、久しぶりに自身の作品と現在における写真の立ち位置とを話す機会があった。 自身の修論をもとにした個展を催していたが、その後本展に対する論評というのを目にするのは非常に少なかった。
近く引越しを控えており、9年間住んだ家での生活も残りわずかとなってきた。 元から割と物が多い方ではあったが、意を決して断捨離に勤しんでいると、過去の写真やネガなどが大量に出てくる。 さて、ここでどうしよう、となる。 果たして、見返すかどうかもわからない、ましてや作品になるかといわれればなる気は全くしない「モノ」をどうすべきか、、と。 確かに写真家であれば、過去の自身のデータからセレクトしてどうにかこうにかコンテクスト(もしくはテキスト)を構築し、作品として提示すること
ここ最近、環境活動家を名乗る人物による、アート作品への「攻撃」が後を絶たない。 アート作品に対して過激な行動をとることによって、瞬く間にネットで取り上げられ、その行動はエスカレートの一途を辿っているかのように思われる。 彼らの主張の多くが、アートとして価値のある作品の保全と、地球環境を守ることとはどちらが重要かを知らしめることにある。 そんなの決まっている。どちらも重要なのだ。では、地球環境を改善するために、われわれ全地球人が一体となって何かに取り組んでいるかといえば、
島根県立美術館がアンディ・ウォーホルの≪ブリロ・ボックス≫を約3億円で落札したという記事。 上記記事内にもあるように、 との説明があるが、なぜ5個しか買わなかったのであろうか。大量消費(アメリカ)の象徴ともいうべき『ブリロ・ボックス』ではあるが、5個では少ないのではなかろうか。 もちろん、購入個数に関しては明確な正解はない。1個でも説明は可能だし、5個でもできるであろう。 ただし、単なる大量消費のみにスポットを当てるのであれば、作品数は圧倒的に不足していると思われる。
かつて、大学院ゼミのスピンオフで、アーティスト役としてインタビューを受ける機会があった。 その中で、未来を考えるにおいて、現在は意識的に考える機会が極めて希薄になっているのではないか、という問題提起をした。 学生時代。平等、多数決、協調性といった、「みんなおなじ」という意識の擦り合わせが幼少期の頃から無意識のうちに行われている。 一般的にパーソナリティを全面に押し出す機会は、就活のときにやってくる。それまでとは真逆の、個性や自己主張といった、他者との優位性が求められるこ