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【書籍】絶対写真論

副題「アルゴリズム・オブジェクトとしての写真へ」。

kindle direct publishing(KDP)の仕様に弄ばれながらもなんとか形になった、修論+αの論考。KDPの審査も通り、晴れて出版となりました!記念すべき、自身初の書籍です。

ただし、ペーパーバック版のサンプル画像、印刷用の表紙をAmazon側で処理しているそうで、解像度をあげらないか問い合わせてみるも、許容範囲内とのこと。。印刷には影響ないが、ボケてみえるのはいただけない...。ということで、下記にアップします。

なお、カバーデザインは、大学院の同期卒で學童舎代表でもある川口さんに制作いただきました。この場を借りて厚く御礼申し上げます。


大学院で学んだことを修士論文という形でせっかく書いたのだから、なにか形として残しておきたい。とはいえ、これまでの自費出版ではコストもかさみ、在庫も抱えるのはちょっと、、と思い、以前自費出版について調べていました。


まさか、写真集よりも先に論考を出版することになろうとは、夢にも思っていませんでしたが、いざ届いたものを手に取ると、非常に感慨深いものがあります。


「写真とはなにか」。これまで禅問答のごとく問われ続けてきたこの問いに対して、写真=撮影という誰しもが思い描く「写真」のあり方を疑い、アルゴリズムが主体となって写真が生成されていることを提示した内容となっております。

これは、ひとえに勢いで大学院へと足を踏み入れたことで書くことになった、ひとつの成果の形ではありますが、その根底には私自身の制作がベースにあります。

そしてこのnoteは、ここにいたるまでの過程、すなわち学びや思考、研究のメモ書きとして、継続して行ってきた軌跡でもあります。

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プロローグに始まり、エピローグにいたるまで、一般的な「写真」、いわゆる撮影によって生成した「写真」は登場しない。これまで写真とはカメラを使って撮るものであり、自己表現の一つという幻想が常につきまとっていた。それは、シャッターを押すという行為が、主体的かつイメージを獲得するための唯一無二の方法だと、誰しもが信じてやまないものであったからである。

今からおおよそ10年前、写真の専門学校へと進んだ私もまた、銀塩写真システムに即して写真を「撮影」していた。撮る行為こそが写真の本質だと信じてやまなかったからである。

しかし、ヴァレム・フルッサーが指摘しているように、写真を生成しているのは写真家ではなく、カメラという「装置」が、さらにはそのアルゴリズムを構築した技術者こそがその本質的な役割を担っているのだ。

では写真家たちはなにをしているのかというと、カメラという装置を使って「遊ぶ人=ホモ・ルーデンス」であると、フルッサーはいう。


写真として表象するのは単なる記号(コード)でしかなく、そのイメージになにか特別な意味があると読み解こうとするのは、ほかでもない鑑賞者による「解釈」でしかない。

そのため、撮影者の思いや内面といった感情的な事象は写真には表象しない。表象するのは、具象でも抽象でもなく、「情報」なのである。

この「写真になる」ためのプロセスを担っているのが、アルゴリズムであって、これはデジタルカメラなどに実装されている数値変換プログラムが写真の根源的な役割を担っているのである。


画像データとして各種デバイスが認識可能なフォーマットをなんらかの形で生成できさえすれば、それが「写真」となるのだ。

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現代アート分野における写真を読み解くため、各章で主に科学的な事象に着目し、そこから写真の根源的な事象を解読する、といった内容になっております。

写真とはなにが写っていて、そこからなにが読み解けるのかといった、一般的な写真の見方、関わり方に関する内容は一切出てきません。

「写真とはなにか」ではなく、「なにが写真となるのか」。このことについて、自身の制作を通じて明らかにすることを目指した「絶対的」=アルゴリズムな「写真論」です。


ペーパーバック版だけではなく、Kindle  Unlimitedでも展開しておりますので、ご興味ございましたら一度手に取って一読いただければ幸いです。

もしかしたら、これまでの「写真」とは違った「写真」のあり方、関わり方にへとつながっていくことを願って。

どうぞ、よろしくお願いします!


よろしければサポートお願いします!今後の制作活動費として利用させていただきます。