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【雑記】写真のこれから

Stable Diffusionによる画像生成技術によって、テキストを用いてイメージへと変換することが容易となった。

さらにはphotoshopの生成拡張機能によって、既存のイメージから周囲を補完したり新たなイメージがいとも簡単に生成できるようになった。

こうした技術が追い求める最終的な到達点とは、実世界に存在しそうなイメージを生成することにある。つまり違和感のない「写真になる」ことに意味があるのだ。


しかし、現時点ではこうした技術もいまだ発展途上段階にあるため、時としてエラーを生じた画像を生成することがある。それも、人間が想像し辛いエラーイメージを生成する傾向にある。

さらに、こうした技術によって生成されたイメージに対して我々が違和感を覚えるのは、視覚と理解との間にズレが生じることによって起こるものである。


ただ残念なことに、こうした技術が生成するエラーイメージに対して、わたしは魅力的な要素が感じられなくなってしまった。いや、もしかするとはじめから興味は薄かったのかもしれない。

その理由とは、「想像しえないイメージを生成する可能性があることが、容易に想像できてしまう」点にある。つまり、一見すると違和感のあるイメージもまた、こうした技術によって生成されることはごく一般的な事象なのである。容易に変なイメージを生成できてしまうことに対して、ある種興ざめしてしまっているのだ。


では、「写真」、いわゆる撮影によって獲得するイメージのおもしろさとはどこにあったのだろうか、と改めて考えてみると、以下の点が思い浮かんだ。

・撮影時に意識したイメージと、表象するイメージとのズレ
・解釈の多様性
などなど

写真の根底には、主体として「わたし」という人物が存在していた。つまり、誰が撮影した、誰がみた、といった具合に、そこには自己中心的な関係性によって写真が成立していたのである。

ところが、主人公がこうした技術へと移行したことによって、「わたし」に課せられたのは「取捨選択」という行為にのみに限定されることとなった。


無意味なイメージに意味を与える。「解釈」という名の現代アートの不自由さが、より一層アートを陳腐なものへとおしなべている気がしてならない。


1枚目、Stable Diffusionによって「パリの街並み」を生成したイメージである。

2枚目、1枚目のイメージを基準として、Photoshopの生成拡張を反復することによって以下のイメージを得た。

制作方法のひとつとしてこうした技術を使用してみたところ、勝手にイメージは生成されたし、クリックひとつで周囲のイメージはいとも簡単に生成された。

しかしながら、こうして生成されたイメージに対して、私はなんら魅力を感じられなかった。あー、できちゃうよねーが率直な感想である。

それ以上でもそれ以下でもない感想しか生み出されない。なんの意味もないイメージが自動的に生成され、瞬く間に世界中へと拡散されていく。


こうした状況を踏まえたうえで、ではわたしは写真のこれからとして何を提示していくべきであろうか。作品としてどのようなものを提示していこうか。

底なし沼にはまりつつある感覚をもちながらも、避けては通ることができないということも理解しつつ、制作の構想を練っている日々。



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