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短編小説ノーレトリック、ノーセックス(仮題)<前編>


僕はあの女が嫌いだ。心底嫌いだ。

もちろん、会った瞬間から嫌いであったわけではない。それはハウリングのごとく、時間をかけて増幅されていった。


もう名前も覚えていない彼女に出会ったのは、インターネット上の掲示板だった。その時の私は、ただ単純に言語に陶酔していて、多彩なレトリックでもって他者を圧倒し、または罵られることで快感を得ていた。

僕がなかんずく好んでいたのは、知りもしない言語で、巧妙なアートを創造してみせることだった。最初は、訛り言葉を用いて、その小さなコミュニティの「TheFattestMan_13974」やら「unknown_98(通称クッパ)」達を感銘させたが、そのうちには全く主言語とは離れた、インド・ヨーロッパ語族へとトリップして、もはや誰も解読出来ない超未来文学を投稿していた。


とあるとき、夜通し雑誌の切り抜きをしていた僕は、掲示板にドイツ語で「Sauna und doch so fern.」と投稿した。「So nach」と掛けた言葉遊びで、ドイツ近代文学作家をレファレンスした。その文字列はしばらく——1週間かそれ以上——放置されたのち、もはやスクロールしても遡ることが出来ないほど、何万光年も先に追いやられてしまっていた。


しかし、それからして(不思議なことにその時も雑誌の切り抜きに夢中になっていたが)、とあるユーザーがその投稿にコメントを加えていることに気付いた。

roooooottttt「体の関係は一切持たないから、一度会いましょう。」

僕はこれが気に入らなかった。rooooootttttでは"o"と"t"の数が釣り合わないこと、サウナと体を掛けるという幼稚なレトリック、こちらにはまるで選択権がないかのごとき提案。その全てが鼻についた。

最初、僕はそれを無視したように思う。誰かのいたずらである可能性は十分すぎるほどあったし、僕はインターネットに身を置くようになってから言葉遊び意外にはめっきり興味が無くなっていた。


その後も僕は普段通り、サイバースペースで超未来文豪のごとく振る舞い続けたが、気づけば毎回の投稿にrooooootttttから全く同じコメントが届いていた。

roooooottttt「体の関係は一切持たないから、一度会いましょう。」
roooooottttt「体の関係は一切持たないから、一度会いましょう。」
roooooottttt「体の関係は一切持たないから、一度会いましょう。」
roooooottttt「体の関係は一切持たないから、一度会いましょう。」


あまりのしつこさに、文豪自ら悪妙なレトリックをお見舞いしてやろうかとも考えたが、僕はその見知らぬユーザーを全く嫌いにはならなかったし、むしろこんなインターネットギークに言い寄ってくる人など足かけ一人もいなかったので、少し嬉しかった。だから、僕は会うことにした。1週間後の16時、「クロイツベルク」というカフェで。


*


僕はその日、朝からしこたまタバコを吸った。寮部屋は禁煙だったが、入寮初日に、「窓を開けて吸えば匂いが残らない」と先住民が教えてくれたおかげで、僕は起床直後に一本、就寝直前に一本煙をくゆらせていたが、今日この決戦の日においては、昼飯を用意するころには灰皿の中身を捨てなければいけないほどだった。


昼食後はお香を焚きながら本を読んでいたが、どうにも集中出来ず、買い物に出かけては、到底食べきれない量のチョコレート菓子を買ってすぐに後悔したりした。


クロイツベルクに向かう電車で、僕はあのしつこいメッセージを思い出して、貧乏ゆすりをした。これから会うのがどんなヤツか想像すればするほど当初感じていた肯定感は、老いた細胞が破壊されていくように、弱弱しく、抵抗もせずに崩れていった。残ったのは、不信感と疑念と後悔と慄きをすりつぶして丸めた悪魔の団子だけだった。


16時ちょうどについた僕は駅前でタバコを吸った。もう吸い終わろうかという時、相手から「20分遅れます。」と連絡が来た。ほら、言わんこっちゃない。最初から全て嘘だったんだ。これは所詮、大学生の論文よりも陳腐でお飾りなレクリエーションの一部で、周りに居る人は全てエキストラに過ぎなかったのだ。僕がここでタバコをふかしながら困り顔している画が、ミームとなり拡散された後には、何万人の気の抜けた鼻息が僕の顔面に浴びせられる。


怒りのあまり、何の仕掛けもない裸の暴言を掲示板に投稿しようとした時、電話がかかってきた。非通知である。

もしもし。
ごめんなさい。今どこ?
まず、自分が誰か名乗ったらどうだい?
生まれた時に与えられた記号なんて我々には要らないのよ。全てはどう生きるかでしょ?
——駅前のバス停。

乱暴に電話を切ってみせた。相手が演出するなら、僕も演出しない手は無かった。

次のタバコに火を点けた時、後ろから声がした。

あなた、タバコ吸うのね。

そこには、赤髪の小柄な女性が立っていた。走ってきたのだろう、まくり上げたニットの下からは白い肌にタトゥーが覗いていた。

僕は全く狼狽した。トレインスポッティングに出てきてもおかしくはない風貌の彼女が、僕に声をかけてきた?僕は言葉も発さずに口を数回動かしてから、それを悟られてはならないと感じて、タバコを深く吸い込んだ。

今日はあまり時間が無いから。カフェに行きましょう。

僕は、何か言おうとしたが、彼女はそそくさと歩いて行ってしまったので、目の前の真空にただ行き場を失った筋肉運動を消化するに留まった。



席に着いて、僕らは二人ともアメリカーノを頼んだ。席にコーヒーが運ばれてくるまで彼女は押し黙ったままだった。やっとウェイターが運んできた時には、すぐさま遊び呆けていた手をマグカップに落ち着けた。陶器にこれほどの精神安定効果があるとは知らなかったが、僕はやっと会話を切り出すことが出来た。

で、今日は何の用があって?
単刀直入に言えば、言語を”交換”したいのよ。
言語交換?お互いの言語を教え合うということ?
それ以上のこと。
さっきから君は僕を振り回してばかりだね。

精神がグラグラと揺れ始めたので、僕はまたカップに手を付けた。彼女はそんな様子に構いもせず、淡々と、しかし情熱的に続けた。

つまり、私たちはドイツ語と日本語を教え合うわけだけど、教える過程において、私たちは根本的にお互いの修辞法を借り合うのよ。例えば、あなたが私のタトゥーを見て瞑想したこと、頭の中の文化的辞典の数々に、私は余すところなくアクセス出来るってわけ。同様に、あなたも私の財産を使えるってこと。これって、あなたにとっても魅力的な話じゃないかしら。

僕は安心した。彼女は間違いなく、テレビ番組の回し者でも、イカれたドラッグディーラーでもなかった。安堵感から僕は笑った。それが彼女も気に入ったらしい。僕らは目を見つめながら、静かに、大胆にせっせと笑った。

僕らはもう心のどこかで通じ合った気がしていた。彼女の提案に乗らない選択肢などなかった。


かくして、僕らは言語を”交換”する契約を取り決めた。


*

<次へ続く>

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