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形のない愛 - The Shape of Water

Amazon Primeで今月からThe Shape of Waterが無料で観られるようになりました。
この映画が大好きで、映画館でも何度も観てDVDも持っていたので人に薦めやすくなって嬉しいので、久しぶりに見返して改めて感じたこの映画の良さを綴っていきます。

生活の美しさ

まずこの映画の好きなところは、登場人物それぞれの暮らしぶりの美しさ。

ヒロインのイライザは航空宇宙研究センターの清掃員として働いていて、勤務時間は深夜~明け方。
毎日目覚まし時計をセットして寝間着とアイマスクを身に着けカウチで眠り、目覚ましの音で規則正しく目覚める。

お弁当として持っていく卵をお鍋に入れて、ゆで卵タイマーをセットしてバスタブで自慰をし(冒頭いきなりだから衝撃的)、今日履く靴を選んでブラシでお手入れするのが毎日のルーティーン。

彼女は映画館の上階の音や光が床板から漏れるような古びた部屋に住んでいて決して豊かではないけれど、冒頭のこのシーンだけで彼女が毎日を規則正しく丁寧に過ごしていることが伺える。

日めくりカレンダーの裏に書いてある詩(?)を眺めるのは、朝テレビの星占いを見るような感覚かな。
テレビで見たタップダンスを廊下で踊ってみたり、通勤途中のショーウィンドウで見かけた華やかな靴に見惚れたり、少女のような一面も垣間見える。


お隣に住む画家のジャイルズは、寝食も忘れてしまって夜勤のイライザが出勤する時間まで絵に熱中してしまうような芸術家肌のおじいさん。

薄毛を気にしたり自分の老化に落ち込みつつも、テレビの中の若くて美しいミュージカルスターに憧れたり、チェーンのパイ屋”ディキシー・ダグ”の若いお兄さん定員に恋して通いつめている。


本作の”悪役”であるストリックランドも、自己啓発本を読み成功してやろうといつもギラついていて、ボルチモアという郊外ながらも当時のアメリカの「理想的な家族」像を絵に描いたような家でブロンドの美人妻とかわいい子供と豊かな暮らしを送る一方で、
子供が食べるようなチープなキャンディを好んでいつも持ち歩いていたり、車や犬を買うのも妻の言いなりであったり、家にいても居心地が悪そうに車の中で一人思い悩むシーンもある。


私はこういったいろんな人々の生活が垣間見えるシーンが大好きです。

子供の頃からディズニープリンセスに憧れ、大人になってもずっとディズニープリンセスの映画を好んでいる私が一番好きなのは舞踏会のシーンではなくて、シンデレラが朝の身支度や御屋敷の家事をするシーン、ベルが町娘として町の人たちと交流するシーン、ラプンツェルが塔の中でお絵描き・ヨガ・キャンドル作りなどいろんな方法で暇つぶしするシーンでした。

生活する場面はその人の内面をよく表すとともに、物語では描いていないところにも生活が広がっていることを示す奥行きになっています。

そして、物語の中の特別な人たちも自分と同じように生活を営んでいるということを感じられ、自分の日常も尊いもののように感じられるのがこういう映画が好きな理由かもしれません。

この映画を久しぶりに観て、改めて登場人物それぞれの生活の様子に思わず涙が出てしまいました。
それは、この映画を初めて映画館で観た頃の自分の生活・そしていまの自分の生活も同時に思い出したから。

この映画の登場人物はみんなそれぞれ苦しみや生きづらさを抱えています。
決してすべてがうまくいっているとは言い難いその生活の中で、小さな楽しみや幸せを見出して生きている様子を自分の今と比べてしまいました。

今の私は彼らと比べたら豊かな生活を送っているかもしれないのに、ひとつ自分の中の大きな望みが理想通りにいかないせいですべてのことが灰色に曇って見えて、ちょっとくらい楽しみや喜びがあったとしてもすべてが台無しに感じる。

ひとつのことがうまくいかないのなら生きていても意味がないかな、なんて頻繁に考える。
物語の中の彼らは不遇な立場であったとしても、誰も小さな幸せや生きていることを放棄しようとしてなんかいないのに。

物語の中の人物も、通勤電車で乗り合わせた人たちも、職場の上司や同僚も、ネットでのみ繋がっている友人も、いまは連絡をとれない恋人も同じ。

周りの人を見て「みんな何が楽しくて生きてるんだろう」とよく思ってしまう私は、日々の生活に楽しみを見出すことや、そのようなものの積み重ねが”幸せ”であることがわからなくなっているのだと思います。

登場人物たちの生きづらさ

この作品の中の登場人物はそれぞれマイノリティや社会的弱者、生きづらさを抱えた人たち。

ヒロインのイライザは当時の女性としては魅力的とされる年齢ではない中年女性で、首元に大きな傷跡があるし、恐らく美人という設定ではありません。
川に捨てられていた孤児で、声が出せない障碍者です。


イライザの同僚のゼルダはアフリカ系の黒人であり、生まれてすぐ母を亡くしているし、ストリックランドから名前や容姿を揶揄されるなど、人種差別的な扱いを受けるシーンがあります。

子どもはおらず、夫は話しかけてもだんまりで、ゼルダはなんでも自分がやらなければいけない、と感じている様子には、現代のSNSで見かける妻たちの愚痴と同じ雰囲気を感じます。


画家のジャイルズは老いた独身のゲイで、会社をクビになってフリーで画家をしており、愛想よく接してくれていた(営業トーク)想いを寄せるパイ屋の彼が黒人客を差別する様子を目の当たりにし、彼自身も好意に気づかれて酷い態度をとられます。
若いお兄さんに魅力を感じる一方で、年老いた自分の容姿とのギャップに落ち込むシーンも。


ソ連のスパイであるホフステトラー博士はアメリカでは正体を隠す身であり研究者としての自分と両親を人質にとられている祖国との板挟みに遭っています。


そしてアマゾンから無理やり連れてこられた水棲生物の「彼」は、未開の地の野蛮な生き物としてストリックランドから暴力を受け、実験動物として研究所に閉じ込められています。


このような弱者の彼らとは対照的に一見弱者ではないストリックランドも実は上司であるホイト元帥からパワーハラスメントを受けており、仕事の失敗によって立場を脅かされているがそれを家族に知られるわけにはいかず、
「成功しなければならない」「良い夫・父でなければならない」という社会の圧力に潰されそうで必死なのです。

この構図は現代でもなお残っている男性の生きづらさそのもののように見え、この作品で最も哀れなのは間違いなく彼だと思います。

彼は確かに周囲に酷い侮辱や暴力を振るうけど、彼の置かれた境遇を察すると「因果応報」「自業自得」では片付けられない気持ちになるのです。

イライザやゼルダ、ジャイルズ、ホフステトラー博士、半魚人の「彼」には友や味方、家族、感謝してくれる人や愛する相手がいるけれど、ストリックランドには誰もいないのですから。

映画では描かれていませんが、小説には妻のレイニーが彼のことをどう思っているかが書かれていて、恐れや後ろめたい気持ちはあるものの愛情はないということがわかります。
朝方仕事から帰るような生活のために子供たちとの接点も薄いということが伺えます。

彼には思いやってくれる人や本当に心を許せる相手が一人もいないのです。
ストリックランドがイライザに対しセクハラを働く場面がありますが、これはただのスケベ心ではなく彼のそういった背景を表しているようにも見え、華やかで積極的な妻と対照的な物言わない彼女に魅力を感じた彼の気持ちを察することができます。

本作の”悪役”はストリックランドかもしれませんが、本当の意味での「悪」なんて存在しないのかもしれない、「悪」とされるものにも抱える痛みがあるのかもしれないと感じさせられるストーリーとなっています。

形のない愛

この物語の一番の魅力はもちろん愛の物語というところにあると思います。

イライザは川に捨てられていた孤児という境遇の独身女性だけれど、「彼」と出会う以前にもたくさんの愛に囲まれていると感じます。

ゼルダとジャイルズという二人の友人は声の出ない彼女の手話を解し、年齢も人種も性別も超えて分け隔てなく接してくれ、半魚人の「彼」を救うための危険な作戦にも自分の身を顧みず協力してくれる友の存在は、イライザがたとえ「彼」と結ばれなくても愛のある人生を歩んでいたに違いないと想像させるのです。
私はイライザにこの二人の友人のような存在がいることが何よりとても羨ましく感じました。

これは、声を出せなくても日々ゼルダの夫の愚痴をにこやかに聞いていたり、ジャイルズが寝食を忘れてしまうのを気遣ったり想い人と関わる口実のためパイを買いに行くのに付き合ってあげるなど、イライザ自身が日頃から愛のある付き合いをしていることにより築き上げてきた関係です。
恋愛以外の愛を目の当たりにできるところも映画の魅力のひとつとなっています。


この作品では異種間恋愛というところにフォーカスされがちですが、描かれる愛の本質はそこではありません。

イライザが「彼は私になにかが欠けているとは思わない」とジャイルズに伝えるシーンがあります。

半魚人である「彼」は言葉を話さないし声を発しません。イライザが声を出せないことや人間の女性としての年齢や美しさも「彼」にとっては問題ではなく、「彼」の前では彼女は欠けたものなどない存在になるのです。
そして彼女の前での「彼」もまた完全な存在なのだと思います。

作中ではイライザの“心の声”のような内面描写はされないため、声を出せないこと、独身であることなどについて彼女自身がどう感じているかわからないまま物語が進み、ジャイルズに手話で訴えかける時に初めて声が出せないことで自分がどこか欠けた存在であるかのように感じていたのであろうことが示されます。

お互いにとっての相手・そして相手といるときの自分がありのままで完璧な存在に思えること、これ以上に理想的な愛はあるだろうかと感じます。

この映画がよく喩えられる(?)美女と野獣然り、心の美しさ・誠実さなどが富や外見的な美や力といったものに勝る というような作品は多く見られますが、
それも結局心の美しさや誠実さなどといった一定の特徴に価値を見出し、「○○だから好き」という条件付きの好意を愛と表現しているに過ぎないのかもしれません。

もちろん人はこういった何かの特徴をきっかけに他人に興味を示し好ましく思うのは当然のことで、それ自体否定されるものではありません。
自分にとって利益をもたらす存在を選びたくなる心理も自然なものと言えるでしょう。
しかし、好ましく感じていた価値が普遍的なものではなく、いつか翳りが生じたり失われたりしたら?

相手が持ち合わせる何かをきっかけに誰かを好きになったとして、その恋心を愛にするためには、
相手の良い部分・好きになったところだけではなくて、自分自身と相手の欠点も含めて受容することが必要になってくるのだと感じます。

そしてそれは相性がたまたま合った、というような偶然ではなくて、「愛する」ということを決める意志によってのみなせるものだと思うのです。

自分が好きになった人なら、たとえ欠点や乗り越えなければいけない障壁が出てきても責任や覚悟を持って愛する。
そういう意味でとても主体的な行為だと感じるし、だれかを愛することは今この瞬間から始められることかもしれません。

そういった条件や相性などの”形”を超えた愛を描く仕掛けとして異種間の恋愛が用いられていると考えるとおしゃれな作品かもしれません。

弱者や人種差別を描きながらもそのメッセージを強く訴えかけてくるわけではなく、それがメインではないためロマンスやファンタジー作品として楽しむことができます。
“異種間”という要素があることによってファンタジックな雰囲気になっているけれど、実は本当に”異種間”なのかどうかわからないというのも面白いのです。

イライザの声を出せない理由は映画の中ではっきりと明かされることはありませんが、幼少の頃河原に捨てられて(倒れて?)いた孤児・首元にあるエラ状の傷跡・雨が降る日がわかる…などの特徴から、彼女は人間ではなく、もともと半魚人に近い存在であった可能性が示唆されます。

冒頭に”声の出ないプリンセス”に関するモノローグがあることからアンデルセンの人魚姫を連想させ、美しい声と引き換えに足を手に入れた人魚姫同様にイライザも人間の姿の代わりに声を失ったのか?と想像する人も多いのではないかと思います。
もしそうなら、同じ半魚人(?)の彼に惹かれたのは当然の運命だったということになります。


しかし、私の解釈(願望込み)では、こう考えています。
半魚人の「彼」は、薄毛のジャイルズの髪を生やすことや傷跡を即座に治すことができる不思議な力があり、小説では「ギル神」と呼ばれ崇められているまさに神のような存在でした。

ラストシーンでイライザがストリックランドの発砲した銃弾に貫かれて倒れた後、水中で首の傷跡がエラのように動き息を吹き返す描写があります。
私は「彼」が自らの力を使い、意志を持ってイライザを水の中で生きていける身体に変えたのではないかと思います。

キービジュアルにもなっている、人間の足の象徴であるイライザの赤いハイヒールが脱げていく様子は足がもう必要なくなり、人魚になったということなのかもしれません。

彼女が彼に対して自分の愛を直接伝えるシーンは無いけれど、彼を海に帰す前の一緒に過ごす最後のひとときに、テレビで観た「You’ll never know」という曲を声にならない声で口ずさむ場面があります。
「私がどんなにあなたを恋しく思っているか、気にかけているかあなたにはわからないでしょうね。」という曲です。

当然、声の言語を解さない彼は彼女の心中などわからず、きょとん顔で見つめます。
彼女はこの歌を口ずさみながら、映画のミュージカルスターのように華やかなドレスや靴を身に着けて「彼」とダンスすることを夢想するのです。

想像の中でダンスする「彼」は人間のような身のこなしを見せとてもシュールなのですが、このことからイライザにとって彼は王子様で、あくまで人間としての恋愛をイメージしているということがわかります。

一方で、半魚人の「彼」はいくら人間のように二本足の立ち姿をしていても、地上で過ごす時間が長くなれば次第に衰弱してしまい、ジャイルズの飼い猫を頭から食べてしまうような凶暴さを持った生き物なのだと実感させられます。

そんな二人が結ばれるということは、やはり人間としての恋愛・生物としての恋愛ではなく、それぞれ思い描く理想の形はありながらも、お互いそのものを求め、共に過ごすことを決めたということなのだと思います。

最初に「彼」を愛する相手として認め、危険を冒して研究所から救い出すという行動に出たのはイライザでしたが、最後に彼女を海の中で生きていける身体に変えるという行動をしたのは「彼」でした。

お互いに運命に流されるままではなく、最終的に自分の意志で相手を選んだのです。
たまたまうまくいった、というよりもその方がロマンチックではないでしょうか?


映画のラストにこのような詩が出てきます。

Unable to perceive the shape of You, I find You all around me. Your presence fills my eyes with Your love, It humbles my heart, For You are everywhere.

あなたの姿形は感じられなくても、あなたを側に感じます。
あなたの存在が私の両眼を愛で満たし、私の心をつつましくさせるのです。
あなたをあらゆるところに感じるから。

愛はたとえ形や色がなくても水のように包み込み、いつも自分を満たしてくれるもの、
ということでしょうか。
この後二人がどうなったのかは明かされませんが、この詩によってハッピーエンドなのだと感じることができました。

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