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自死、それもまた寿命だと思うことにした。

 暗い題材を含みますので、ご覧になる方はご注意ください。哲学のような死生観ではありません。誰かを諭せるほど賢くもありません。どこかの誰かのぼやき程度に流していただけたら。というより、あまり堅苦しく考えてしまっては今後を生きていく私たちの肩が凝ってしまうだけです。

思考の備忘録

 名の通った方々の自死が相次いでいる。一般の方々の自死が去年に比べて増えている事実も記事で読んだ。関東圏においては人身事故も多い。当初、正直これは異常だと思った。
『ウェルテル効果』そのものが今起きているのだと。

"ウェルテル効果(ウェルテルこうか、英: Werther effect, 独: Werther-effekt)とは、マスメディアの自殺報道に影響されて自殺が増える事象を指し、これを実証した社会学者のディヴィッド・フィリップス(David P. Phillips)により命名された。特に若年層が影響を受けやすいとされる。" ──Wikipediaより抜粋

 だが更に掘り下げた結果、この『ウェルテル効果』だと決めつける行為も、勝手な憶測だった。亡くなられた方々に失礼だった。そんなものすら後付けに過ぎず、正直効果だの理由だのどうだっていい。大事なことは尊い命が亡くなったという事実だけだ。

 自死は今に始まったことではない。『別に良い』『絶対に駄目だ』『何も言うべきではない』などと相手の内部を知りもしない時点で、死人に口無しなことは極力綴りたくはないので控える。自死した人物がうつ病だったのかも、今となっては知り得ないのだから病気だのなんだのも憶測に過ぎないわけで。やめておこう。

思考の寄り道

 ところで、最初の自己紹介で友人がうつ病であると書いた。これは一番自分と自死に直結した出来事があったから例としてあげる。これまでの自死した方々が必ずしもこの病気とは限らないので、混同はしないでほしい。全くの別物として。

 彼女はかれこれ5年以上患っている。心は脳にある、脳の病気だ。分泌物が拗れてしまっているらしい。今もその病気と付き合っている。昔に比べてだいぶ良くなったと思うが、今でも「死にたいと思う時があるんだよね」と口にする。「それは仕方ないね」と返す。ただ昔の頃よりはヒステリックではなくなった。それがいい傾向とは限らないのも分かっている。自死はまさに突然だから。表じゃ分からない。

 その中でも忘れられない出来事がある。20代前半。
 まだ地方在住だった私に夜の23時頃、着信があった。(あの時間で寝ていなかった私にグッジョブと言いたい)
「もしもし?どした?」返事がない。
 その頃の彼女はまだ薬を処方されていなかった。うつ病の症状だなと思った私から(この病名は敢えて口にしなかったが)、何度か心療内科へ受診を勧めたが頑なに拒否されていた。ところがその晩の電話だけは違った。「うぅ……」という啜り泣くような音しか拾えなかった。
 声にならない声で咽び泣きながら、その後ろで聞こえる微かな機械音。「今、どこ?」場所を聞いても答えない。「まずは落ち着こう? 泣いてていいからゆっくり呼吸しよう?」そんなことで時間を稼いでいたと思う。
『次は〇〇』そんなアナウンスが響いた。焦った。彼女は今、電車だと。同時、地方住みの私には都内の駅名が分からなかった。でも彼女の使う路線だけは知っていた。
 ずっと泣き続けている友人に、もう一度「今どこ?」と聞けば「小田急」とだけ。ああ、会話が成り立ってよかった。そんなことで安心してから、電車だと? と次なる不安がよぎった。妙なことは私から口にしてはいけないと思った。「電車のどこ?」と聞くと「乗ってる」と言うので、「帰ってるの?」と続けると「うん」と答えてから「死にたいもう無理」とはっきり告げられた。一気に頭が冴えて、背筋に悪寒が走り、心拍が加速したのを今でも憶えている。それまで何度もその言葉は聞いていたが、今回だけは電話越しの態度が明らかに通常ではなかった。

 真面目で常識のある彼女が、人目を憚らず電車内で泣きながら、マナー違反になる通話をし続ける。声量も抑えずに。
 これだけで私の中では異常性満載なのだ。もう全てが危ない方向へ行っている。通常思考ができなくなっていると確信に至るには十分だった。

 瞬時に思ったことは、電車から降りられて飛び込まれたらどうしよう、だった。自死は突発的だから最後に電話してきたのが私だったら、と。だがそれでも電話をしたということは『これは本当は生きたいというメッセージだ』と都合よく解釈した。そう考えないと私まで引っ張られてしまいそうだった。

「帰ってるなら切らないで、そのまま家に着くまで電話しよう」

 それを承諾してくれて、居所を確認しては途中で降りないように願った。何を聞いても「もう嫌だ」「死にたい」しか言わないので、「もうちょっと詳しく言える?」「もう仕事やめなよ、うち来なよ」と逃げることを何度か勧めた。おかしいと思ったら数年で転職する私の性格とは違い、「辞められない」の一点張りだったが、とにかく家へ着いてご飯を食べてほしかったので夕飯を終えるまで電話をした。
 彼女を家へ送り届けても独りになったら自死してしまうかもしれない。自死に場所は関係ない。暫くは心配で気が気でなかった。それから毎日は何かしら電話してはメールした。
 その間、幾度と告げられる彼女の願望に対して「駄目だよ」「私は悲しむ」「親が一番悲しむ」「天国にいけないって聞くよ」と、何かと理由をつけて『自死してはいけない理由』を刷り込ませていた。私自身、父親を早くに病気で亡くしていたこともあって、余計に熱く説得していた。

 でも、彼女からしたらそれらは全部『自死しても問題ない理由』なのだ。心底辛くて楽になりたくて苦しい彼女からしたら、死ぬしか選択肢が浮かばない。誰が悲しもうが奥底では申し訳ないと思うけれども、それよりも、心が体がもう辛いのだから。(当時の友人の言葉より)

 昔は受け入れられず、この考えの理解に至ったのは、ついこの間だった。遅い。全然、多角的な思考ができていなかった。彼女のことを思うと独り善がりな説得であった。ちなみに友人はその後無事にクリニックへ受診し、今日に至る。ただ私は自死願望を理解はしても同意はしていない。

思考の多様性

 そして今、私は自死を肯定も否定もしない。
 ただこの結末の迎え方には、残された人々が嘆き悲しみ悔やむ未来が確約されているだけで、自死だからと言って特別視して悼む必要もないと思う。単に自分で決めた寿命が訪れたのだと。亡くなり方が自然死とは異なっていたとしても、それまで頑張って懸命に生きていたことには変わりはないから。自然死と変わらぬ形で悼んでほしい。そう割り切らないと、その先を生きていく私たちの肩が凝ってしまう。それでも私たちは歩み続けるのだから、疲れるだけだ。
 すると、少々心持ちが軽くなる気がする。

 人は事故でも病気でもいつかは亡くなる。
 自死、それもまた寿命だと思うことにした。

 心より亡くなられた方々のご冥福をお祈りいたします。

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