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受け手を大切に想う言葉選び


「言葉選びが素敵な人になりたい。」

そう思い始めたのはいつだろうか。


高校時代は気にせず周りの友人と同じ言葉を使っていたので、記憶を辿って思い出せるのは大学生になったときくらいから。
趣味でSNSをやり始めたときに素敵な言葉を発する人に出会って「こんな言葉を発することができるようになりたい」と感じたのがきっかけ。


明確に、これ!といった決定的な出来事はないけれど、なんとなくいろんな人に出会う中でそうなりたいと思っていたのだと思う。

適切にそしてより情景が思い浮かぶよう伝える人の言葉は優しくてあたたかい。私はそんな言葉が大好きです。



最近は昔に比べて、簡単に他人に言葉を送れるようになった。

LINEやTwitterは、特にほぼリアルタイムでやりとりしているなと感じるし、思いついたままを届けることができるようになったと思う。

それゆえに「最近の子はやりとりがなっていない」と言われるのかもしれない。文字のやりとりがトラブルにもなってしまうのかもしれない。

だって、短文でも主語がなくても通じちゃうもんね。



でもね、その「短文で通じてしまう」ということは誤解を生むこともあるし、相手を傷つけかねない発言をしてしまう可能性があるということを忘れてはいけないと思う。

短文でリアルタイムで返す(即レス)とき、感覚的に言葉で使うとき、相手へ送る言葉を吟味できていないことが多い気がする。



それをひしひしと感じたのは、家族に「ヤバい」って言ったときに伝わらかったこと。

「何がどう『ヤバい』の?」
「嬉しいの?危機的な状態なの?わからない」

友人の間では文脈で「感覚的」にわかるし当たり前のように使っている言葉たちは、旧知の仲でよく自分のことを知ってくれる人であれば問題ないかもしれない。だけど、多くの関係であれば、言葉を吟味してちゃんと伝わるような言葉選びができているかときどき振り返る必要があると思った。



そういう私も若者言葉だったり、感覚的に発された言葉を使ってしまうこともある。そんなときは、あんまり綺麗じゃなかったなって私自身よく反省している。

よくテレビで「イマドキギャル」的な立ち位置で出てくる人たちは若者言葉を多用し「ちょっとバカっぽい」キャラを確立している(偏見かもしれないけれど)し、少し前に話題になった『育ちのいい人が知っていること』では「こんな言葉を使えば育ちの良い人に見えますよ」という言葉が紹介されている。


言葉はその人の知性を表すと強く思うし、使い方で理想像をつくることができるなと感じる。


こんなに言葉にこだわるのは、私が「相手からよく思われたい」という潜在意識が強くあるのかもしれない。

そうだったとしても、私が「素敵だ」と感じ心があたたかくなったとき、「こんな風にやさしく思慮深い言葉を使えるようになりたい」と思ったことには変わりなくって、私の理想像はそこにある。


「言葉」って特別何も持ち合わせていなくても生み出せて人の印象を決める要素にもなるのに、身なりは気にするけど、言葉って案外気にしていないような気がする。

綺麗なお洋服を纏っていても、美しい装飾品を身に付けていても、言葉が素敵じゃなかったらとっても残念な気持ちになる。


そして、なりたい自分になるために言葉に気を付けたいのもあるけれど、近くにいる人のことを大切に思うからこそ、自分の発する言葉に責任を持ちたい。

簡単に相手へ伝える今だからこそ、受け手を大切に想う言葉選びをしたい




私自身、まだまだ綺麗な言葉遣いはできないし、同じ言葉や表現しか使えないけれど、これからたくさん色んなものに触れて磨いていきたいな。

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