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あっちとこっち

おいしい文藝『こんがり、パン』を読んでいる。先日行った映画館の棚で見かけ、図書館のリサイクルコーナーでもらってきた。まず江國香織の「フレンチトースト」を読み、その甘さに打ちのめされる。

幸福で殴り倒すような振舞い。

江國香織「フレンチトースト」


そこに描かれた振舞いは容赦ない甘さだった。夢中で、愉しく、羽目をはずす恋と甘いフレンチトースト。この本はアンソロジー本だが、さまざまなパンがならぶパン屋だとすると、江國さんのパンは飛びぬけて甘く、それはもうパンではないものだった。

雨だから迎えに来てって言ったのに傘も差さず裸足で来やがって

盛田志保子『木曜日』


甘さのことを考えていたら、この短歌が浮かんだ。わかりにくい甘さだが、もし自分が盛田さんの立場だったら、年に一回くらい思いだし、死ぬときにも思いだし、くすくす笑って向こうに逝くだろう。おかしな人だったな、と。実際、歌のなかではふたりとも雨に濡れるけど、忘れがたい「間の抜けたこと」はお守りのように、寄りそい、最期まであたため続けてくれると思う。

津村記久子「パン・アンド・ミー」には親近感を抱いた。気がつくとマッシュポテトのことを考えているそうで、マッシュポテトの写真のポスターを貼り、マッシュポテトのイラストが印刷されたTシャツを着て一日を過ごしているようなものと書いていて、冬子はおいしいパンが食べたいなあ、と囚われることがしばしばあるので、なんだかほっとした。パンのポスターを貼り、パンのTシャツを着ている自分を想像した。

本をもらった日の帰り、女性がひとりでやっている花屋に行った。小さめの花が気にいりお願いすると、葉のかたちがちょっと違って花が小さい奇形なんですけど、と言う。冬子には全然わからなかった。一本百円のピンクのチューリップを三本、買って帰った。

ガラスにいけたチューリップをよくよく見る。やっぱりわからなかった。きびしい基準で振り分けられる世界があり、外れたもののひとつがいま家にある。あっちとこっち。誰かがあいだに線をひく。生ケーキとかもきびしそうだ。焼き菓子の端っこは端っこで需要がある。パンはチェーン店のときははじかれ、個人店のときはお客さんに訊いてから売っていた。小さい店は自分たちで線をひくことができた。

それぞれの事情と手間と想いが入り交じる。スーパーのおつとめ品も誰かが線をひいている。先日観た『枯れ葉』の主演の女性もスーパーで働いていて、期限切れの食品をホームレスの人や自分で持ち帰ったのが見つかりクビになっていた。

はじかれてしまったチューリップと本がいま家にある。それでもう冬子は十分うれしかった。









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