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掌編小説 『彼女たち』

誰かにお茶を出して話を聞くために生まれてきたならそれでいいわ、と言ったのは誰だったか。先日、波瑠と橙子はケーキ屋に行ったらなにを選ぶか、という話をしていた。波瑠は迷ったらチーズケーキ、橙子はショートケーキ以外で特に決めていない。

食べたケーキの記録があれば、この日はモンブラン、あの日はガトーショコラと、決まってないなりにある種の傾向が見えてきたかもしれない。好きなの選んでいいよ、と初めて親に言われたときから、この五十年近く、こうしてコーヒーしか頼まなくなっても、ケーキ屋でケーキを選ぶときには必ずショートケーキの隣りにあるケーキを選んでいたら面白いのにね、と波瑠は言った。

店ごとにショートケーキの隣りにならぶものは違うだろうから、当然いろいろなケーキになりそうだが、そんなよくわからない法則があったらまあまあ怖いではないか、と橙子は思う。この話を証拠立てるにはケーキ屋のショーケースを記録する必要があるけれど、私たちの背後には定点カメラはついてないし、写真を撮るという行為をしてしまうと、もうちがうしね、ということだった。

それで思い出したことといえば、橙子の夫は映画やドラマを見た際、役者の名前を敬称をつけず、フルネームで呼ぶが、妻夫木太郎だけ「妻夫木くん」とくん付けで言うので、そのことを言うと静かに驚いた。なぜだろうとふたりでしばらく考えてみたが、どれも違うらしく、なにかある気がする、ということしか結局わからなかった。

集めているわけではないのに、マグカップが何十個も家にあったり、サランラップのストックが大量に出てきたりすることに理由をつけることはできる。いま波瑠と橙子が話しているのは誰にもわからないけれど、なんとなくなにかありそうな気がすることだった。

答え合わせができないケーキの件も、妻夫木太郎の件も橙子の話ということもあり、なんだかなあと思う。一方、波瑠は面白いらしく、自分自身にないか考えてみたり、もっとそういうのないの?と聞いてくるのだった。

波瑠は病気をきっかけに仕事を少しずつ減らしてきた。もう少し生きのびるため生活を一から見直し、自分が最低限なにを持ち、なにを食べれば満足するのか考え続けた。それが三年前のことだ。いまや小さな家で、選ばれた少ないものと波瑠は清々しい生活を送っている。

ギンガムチェックの布、拾った椅子、卒業アルバム。先日久しぶりに実家に帰り、自分の部屋に置きっぱなしにしていた物をすべて捨てると、波瑠はなにか困っていることはないかと両親に聞いた。わからない、とふたりは首を振った。

両親ぐらいの年齢になると変化を嫌がり、物に向き合うのもしんどくなるということを、シニア向け片づけ本で波瑠は知った。物を減らして少ない物で暮らす清々しさとはまた別のやり方が必要だった。

波瑠がいいなと思ったやり方は、その家にたくさんある物(好きなことや注力してきたことに関する物が多い)に注目し、これからやりたいことや会いたい人を聞いてみる。それらができるような特別な場所を作るため、それ以外の関係のない物は別の部屋に寄せてしまう。捨てなくていいのだ。捨てるかどうか迷う物もいったん寄せて、物を逃がす場所を作り、時間があるときに整理する、というやり方だった。

片づけとは捨てることだと思いこんでいた波瑠は感心しっぱなしだった。こういうやり方もあるんだ。捨てなくていいというのは、父と母、波瑠のみんなにやさしいやり方だった。この家を片づけるには、やさしくないやり方しかないと思いこんでいた。波瑠は身体のすみずみが軽くなるような、のびのびした気持ちになった。

ひとつのショートケーキをふたりで見つめながら、私たちもこれからどんどん変化を恐れるようになるのかしら、と波瑠がつぶやく。いつもなら選ばないショートケーキを、橙子はよくわからない法則を破るため、波瑠は言いだした責任を取るべくフォークでつつき始めた。

それぞれの理由は食べた瞬間に忘れた。とてつもなくおいしかったのだ。これは本当にショートケーキなのだろうか、と波瑠は目を見張った。こんなにクリームと苺とスポンジがしっくりすることがあるのだろうか、と橙子は目を閉じた。無理して食べなくていいからね、波瑠と橙子の声が重なる。フォークの音がせわしなく鳴り響いていた。






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