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四十六回分のズレ

横須賀線で鎌倉を目指して乗っていると横浜を出て保土ヶ谷を過ぎたあたりで一度かなり緑のある一帯があり、それからまたしばらく平坦で緑もなくなるが、北鎌倉の間近でいきなり濃くなって、そこから先、北鎌倉と鎌倉のあいだのトンネルを抜けるとドドッと緑に包まれる。鎌倉に住んでそれがあたり前だった頃には何も感じなかったけれど、これがいまや僕にとって陶然となる瞬間で、人間もさることながらあの繁茂する緑を書いた繁茂する緑のような印象の小説が僕にとって一つの理想の小説となった。舞台となっている稲村ガ崎でもどこでも鎌倉の山は低い木に高い木が重なり、さらにその上に蔦が絡まって、葉が三重四重五重……に重なっていて、なんだか凄まじい。

『季節の記憶』文庫版あとがき


保坂和志『季節の記憶』を読む。この物語に入ること自体が長い散歩のようであった。主人公・中野さんは五歳の息子クイちゃんと暮らし、三軒先の松井さんとその妹・美紗ちゃんとは家を行き来する仲だ。彼らにとって答えのない会話は日常的で、グレーのものはグレーで保留される。冬子は彼らの思考の過程を読んでいるとき、自分も一緒にその長い雑談に入っているような、同じ部屋にいて、なんとはなしに話を聞いているように感じた。まるで高野文子『黄色い本』の実ッコちゃんみたいだ、と思う。

小さい鞠のような桜がもりもり咲いているので油断した。ふと上を見ると藤があちらこちらに咲いている。

桜のときも思ったが、花が咲いて初めて、ずいぶんと高いところに木があり、蔓が伸びていることがわかる。地上から見上げて感心するのも愉しいが、トンビのように上から見下ろすとどのように藤が点在しているのか想像するのもいい。

先日、夏子に夜ごはんを誘われ百閒が気に入っているアニメを見ていると、花を咲かせる魔法というのが出てきた。物語では役に立たない魔法と言われていたが、冬子はチーズチキンカツを咀嚼するのをやめ、しばし画面に見入る。

これはある朝、ふと見上げて藤がこんもり咲いているのに気づくのと何がちがうのだろう。冬子がいつもゴミを出す場所のまわりを半年くらい前にTさんがこつこつと端から雑草を抜いていて、先日この場所に去年はなかった花がたくさん咲いていて驚いたところだった。

冬子も前に裏山に入り、特定の雑草をひたすら抜いた。冬子はできていないが、ひとりがこつこつと継続する力は計りしれなく、のちに強固に作用する。そういう魔法の使い手は近所だけでも何人か浮かんだ。

中野さんの友人、蛯乃木さんは現代の宮沢賢治になると言っている人で、自分の会社には理屈の通るような人間はいないと言う。蛯乃木さんは職場の高平君をはじめ、理屈の通らない人間を丸ごと受け入れ、「無敵」と言ったり「一人一人が大自然だぞ」と嬉しそうに言う。冬子は蛯乃木さんが高平君のことを二十三・五度太陽に対して傾いている地球の地軸のように考えているところが気にいっている。地球に地軸の傾きがなかったら四季はなかった。

自然の中にあるものは何一つとしてそれ独自で自足しているものはなく、大きな自然の連鎖の中にある。近所の魔法の使い手たちのように人にできることは、より良くなる方へ繋げ直すということだろう。

毎日、朝ごはんを食べるとクイちゃんは山か海へ散歩に行く。中野さんと美紗ちゃんと一緒に、雨が降らないかぎり。そんな毎日を積み重ね、大人になった時クイちゃんはどのように思い出すのか。オバケ屋敷のような空き家に入ったことや顔に感じたトンビの羽の風のことを。

「秋の陽はつるべ落とし」や「木の芽どき」などの言葉についての松井さんの話が印象に残る。

人間のからだがそれまでの季節のあいだに、作り上げて、馴れ親しんだ体内の調整機能と、季節とのあいだでズレが生まれた瞬間を指してる言葉なんだよ


わたしたちはからだの感覚が予想しているより空が暗くなっていたり、空気が冷たい、というズレにいつまでも馴れない。そのズレは人間には居心地の悪いものだから、人間はそれを既成の形におさめようとする、という。

冬子は歳をとるごとに自然を力強く切実に求めている気がする。それは四十六回分の春夏秋冬のズレがからだに記憶され、ズレの経験や積み重ねが増えていることが嬉しかったり、しんどかったりと感情を揺さぶるからだろう。

なにかひとつと思い、浮かんだのは「目に青葉」だった。これもズレに形を与えた言葉ということになる。正しくは「目には青葉」で、作者は鎌倉で詠んだという。窓の外は低い木に高い木が重なり、多種多様な緑が繁茂している。それぞれの緑が勢いづき、混沌としていて、目が離せない。感情が、ゆっくり平たくなっていくのを冬子は感じていた。




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