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夏子の日記

7.29土

河野裕子の短歌から始まる、やまだ紫『しんきらり』を読了。とてもよかった。

6年ぶりに主人公がひとりで外出した場面。子どもの手をひかず、両手を振って自分のペースで歩けることに静かに感動したことを思い出す。同じ身体性のことだと、寝かしつける時はいつも揺らしながら抱っこをしていて、もうする必要がなくなってからも、ひとりでに身体が勝手に揺れていることがあった。私と子どもは別の人間なのに、身体の一部が常に接していると、離れたとき、失ってしまったように感じるのだった。

主人公が子どもにみとれる場面。これもしばしば訪れる。黙々と絵を描いていたり、本を読んでいたり、じっと窓の外を見つめていたり、多くはこちらを見ていないときだ。小学校に入る前は、思いっきり泣いている姿によくみとれていた。怒ってること、悔しいこと、悲しいことを、全身を使って表現している。身体が痛くてつらいなどで泣くとき以外は、なだめることもあまりしなかった。私自身が泣くとすっきりすることを何度も経験した、というのも大きい。なので、たとえばまわりの母親たちがざわめいても気にしなかった。

子どもに同じ話を何度もするだろうと予感する場面。私も母から、新聞紙に包まれた具の入っていないお好み焼きの話を何度も聞いた。湯船につかりながら、ツバを飲みこんだりした。私から百閒へは、パン屋で働いていた時に小さいパンをたくさん焦がし、それをごまかしたことを店主に怒られた話を数回している。焦がしたことを怒られたのではない。百閒はあと何回聞かされるのだろう。

子どもが作った人形に変な名前をつけていて、それを夫婦でゲラゲラと笑う場面。私は幼稚園の初めての発表会で、百閒だけ昭和の垢抜けないアイドルみたいな着こなしに笑いを堪えるのが大変だったが、終わりにさしかかるころ、急に涙が止まらなくなり困ったことがあった。子供ってどんどん育ちますね、ちはるさん。

冬子に『しんきらり』を借りたとき、主人公のフルネームがなかなか出てこないんだよ、と聞いていた。いつまでも夫婦仲が吊り橋のようだったから、あの薄い紙、リコントドケかもしれないと思い始めたときのあかるい登場だった。

わたしは自由だったんだ、という最後の一文を読んで再確認したことがある。遠くへ出かけてはいけない。ランチやお茶へ月に何度も行ってはいけない。夜に誰かと約束してはいけない。朝はいちばん早く起きていなくてはいけない。だって小さい子どもがいて、専業主婦なのだから、とがんじがらめにしていたのは誰でもなく、私自身だった。ゆっくりしてきなよ、と言ってくれたのに、いえいえ夕方には戻るからとはね返していた。

鬼なることのひとり鬼待つことのひとりしんしんと菜の花畑なのはなのはな  河野裕子


しんきらり鬼へひとつのにぎりめし  夏子


私も鬼になっていいのだった。






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