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フランスパンの頃

ジュンパ・ラヒリ『べつの言葉で』を読みおわり、母国語以外でも書く人としてすぐに浮かんだのは多和田葉子だった。家にある『変身のためのオピウム』は手製でつくられた本だ。

目次の前に一枚の絵がはさまれている。岸田劉生の「二人麗子図(童女飾髪図)」。流通している単行本のほうに絵はないが、冬子は岸田劉生のこの絵が物語によくあっていて気に入っていた。

『変身のためのオピウム』を棚に戻し、母の病院に行くため、江國香織『物語のなかとそと』をバッグに入れる。


診察室では手術をする方向で話が進んだ。母がいつものように投薬をする部屋にいき、父とふたりきりになると、今さらなんだけど、と前置きをして、母がステージⅣのがんと発覚したとき、先生と余命のことを話したかどうか訊ねた。

すぐに余計なことを言った、と冬子は後悔した。苦々しい顔で父は少しもそんなことを考えたことはないと言い、長いため息を吐いた。冬子は自分が知りたかったことを、父の身を裂いてでも知ろうとしていたことに気がついた。

しかし、当たり障りのない、なめらかなことばかり話している場合ではなくなってきている。父は最近すぐイライラするから話しかけづらい、と母がこぼしていた。父はこの生活に参っているようだった。

帰りみち、冬子は朝からなにも食べていなかったのでそば屋に入り、天ぷらそばのボタンを押した。テーブル席で食べていると、右隣りの席に中年の男性が座り、立ちあがると今度は左隣りの席にうつった。なんどもごめんね、と聞こえたような気がしたが、冬子は顔をあげなかった。


すばらしくおいしい、と思うのは、もちろんフランスパンだ。切ると皮がぱりぱりと音をたててすこし崩れ、中から湯気のでる焼きたては至福。その状態なら何もつけず、一本まるごと食べてしまえる。

江國香織『物語のなかとそと』


まだ二十代の頃、冬子も焼きたてのフランスパンを買うと、家に着くなりばりばり囓り食べた。バターなどいらなかった。夕飯前だからもうそのへんにしときなさい、と注意する母は若く、目が笑っていた。冬子は電車を降りるとパン屋に寄り、フランスパンを一本買う。受けとったそれはすっかり冷えたバゲットだった。


ゆめのなかの母は若くてわたくしは炬燵のなかの火星探検

穂村弘『水中翼船炎上中』


穂村弘のこの歌は挽歌だそうだ。『物語のなかとそと』で、江國さんが日々全力でおいしいものを食べるのは、自分が死んだとき焼いた骨を説明しながら壺に納めてくれる人にほめられたいからだという。

冬子は自分が死の気配のするものに反応してしまうのをとめられなかった。せめてだれも巻きこみませんように、とそっと願った。





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