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【短編小説】350mlの空き缶

 時計の針が深夜1時を少しまわった頃、僕は少し古いアパートの前に立っていた。ここは僕の家の最寄駅から一駅隣。この時間だ、もちろん電車は動いていない。なかなか整わない呼吸が真冬の空に白く溶けていく。
目的地はアパートの階段を登って右奥の部屋。古びたインターホンを押すが、僕を呼び出した張本人であるこの部屋の家主からの反応はない。仕方なくドアノブを捻ると、ガチャッと不用心な音が鳴る。呆れながらも扉を開けて中に呼びかける。

「おーい。来たぞ」

何度呼びかけても返事は無い。そのまま奥へ進むと、家主はソファに横たわってすやすやと寝息を立てていた。テーブルの上には350mlの発泡酒の空き缶が4本。床には脱ぎ散らかされた服。シンクには溜まった食器。お世辞にも綺麗とは言えない光景に、ここは本当に女性が住んでいる部屋なのかといつも思う。

「またこんな所で寝てるのか。ほら、風邪引くから起きなよ」

 こうして僕が彼女の部屋に訪れた際に眠ってしまっていることは珍しいことではなかった。それに彼女が僕を呼ぶのはいつだって週末。決まって今日のように終電が終わった真夜中だった。僕を呼び出すことがある種、彼女の酒の肴なのだろう。
肩を揺すっても、んん、と鬱陶しそうに唸るだけで起きる気配は一切無い。仕方なく自分が着ていたコートを彼女に掛け、寝ているソファの下に座ってしばらく寝顔を眺めていた。アルコールのせいで頬がほんのり赤く染まっていて、薄く開いた目からは白目が覗き、少し開いた口からはよだれが垂れている。化粧も崩れていてこれ以上ない程、無防備で不細工なこの寝顔すら愛おしく思えてしまうのは間違いなく彼女だから。どんな表情も見逃したくない。クサいことを言うようだが、僕の瞳がシャッターになってくれればと本気で思うことがある。一瞬一瞬を逃さないよう瞳に焼き付けておきたいのだ。ただ、こうして夜中に見る彼女の頬には時折濡れた跡があった。その跡は今日も彼女の頬に。指でそっと彼女の想いの轍をなぞった後、散らかった部屋に再び目をやる。何度見ても、散らかったままの部屋を片付けていく。

「そろそろ起きないと帰るぞ」

一通り片付けが終わり、本心とは対極にある言葉を口にしながら、また彼女を揺らす。さっきよりも少し強く。彼女はまた唸りながらも、少しずつ開いていく目がようやく僕のことを捕らえたようだ。

「来てたんだ。ごめん寝ちゃってた」

「来てたんだは無いだろう。呼び出したのはそっちだぞ」

とろんとした目を擦りながら「おはよう」と言って、ふにゃっと笑う彼女はまだ酔いも覚めておらず寝ぼけているようだった。
自分に掛けられたコートや片付いた部屋を見て、少しずつ状況を理解した様子の彼女は「ごめんね」と一言呟いた。何に対して謝っているのか僕には分からなかった。寝てしまっていたことなのか、片付けさせたことなのか、それとも、僕がまだ君を好きだということを分かっていながら呼び出すことなのか。彼女のその言葉の真意も、彼女の頬に伝った跡の理由も僕は彼女に何も聞かない。正しくは、聞くことが怖いのかもしれない。もうこれ以上彼女の心に入り込めない現実を突きつけられることが。

「いいからもう今日はそのままベッドで寝なよ。僕も帰るから」

「え、もう帰っちゃうの?これじゃあ片付け要員で呼んだみたいじゃん」

「何言ってんだよ。いつものことだから慣れてるよ。おやすみ」

まだ彼女の温もりが残るコートに袖を通して玄関へと向かう。「あ、そうだ。鍵ちゃんと締めなよ。また開けっぱなしだったぞ」そう言いながら靴を履いてドアノブに手をかけた瞬間、背中に少しの衝撃と温もりを感じた。

「え?」

「もう、少し、ここに居て、ほしい」

彼女の今にも消え入りそうな声が背中から聞こえる。こんなことは初めてだった。いつもの彼女は、僕を呼び出すものの短時間のうちに、言葉が形として現れるならこの部屋が埋もれてしまいそうなほどの仕事や日々の愚痴をこぼし、少し泣いた後は特に何をする訳でもなく、まだ喉に引っかかる言葉を流し込むように酒を飲んで、撮り溜めたバラエティ番組を観ながら笑い、片付けが終われば僕が帰るのを気にも留めずに寝る準備に取り掛かるような人だった。
驚きながらも背中にしがみつく手を解いて、彼女と向き合う。

「わかったよ。寝るまで居るから早く寝る準備してきな」

「ありがとう。あの、もう一つわがまま言ったら怒る?」

「何?怒んないよ」

「お風呂だけ入りたいから待っててほしいの。化粧も落とさなきゃいけないし」

「いいよ。ゆっくり入っておいで」

そう言いながらまた僕は別れを告げてから5分と経たない部屋へと舞い戻って、ケトルのスイッチを入れた。こうして僕は善人の振りを続ける。恋人でも何でもない僕が、この部屋に居て彼女にしてあげられることなど何かあるのだろうか。彼女が閉じた扉を眺めてまた一つため息を漏らす。


 僕と彼女が出会ったのは7年前。バイト先の居酒屋だった。僕が大学一年生で、彼女は一つ年上。学校や学年こそ違うものの、年齢や住んでいるところが近いこともあってすぐに意気投合した。どちらかが先にバイトが終われば、もう片方が終わるのを待って、駅まで一緒に帰る。これは彼女が卒業するまで続いたルーティンだった。休みを合わせて二人で遊びに行くこともよくあったし、会わずとも頻繁に電話やLINEで連絡を取っていた。価値観や趣味嗜好も相性が良く、相談をするなら真っ先に頭に浮かぶくらいには互いに良き理解者だと思う。
しかし、よく巷で論争が巻き起こる「男女の友情」についてのみ彼女とは意見が合わないだろう。僕は、あれが成り立つとすれば“片側の我慢の上”という文言が付く。現に僕達の関係がそうだから。

彼女に、二度思いの丈をぶつけたことがある。
一度目は、彼女の就職祝いで飲みに行った時。正直、祝う気持ちよりも寂しさの方が上回る僕は珍しく酒に酔っていた。
もしかしたらもう会えないかもしれない。社会に出れば素敵な大人たちはごろごろいるかもしれない。そうすれば年下の僕がより一層子どもに見えてしまい、僕と居た時間なんかすぐ無かったことになるのかもしれない。
なんとも女々しく情けない話だが、そんな無意味な思考の“かもしれない運転”に苛まれた結果、酒の力を借りて帰り道に「好きだ」と伝えた。彼女は、「何言ってんの。飲みすぎだよ」と笑って簡単に僕の告白をかわして大敗。
二度目は、二年程前のこと。今日と同じように夜中に呼ばれて来てみたら、当時、付き合っていた男に浮気されたとかで泣くもんだから、居てもたってもいられず「僕にしなよ」って。今思えば、弱ってる彼女の心に漬け込むような醜い告白だった。もちろん、しっかり振られた。「弟のように思ってる」そう言われて惨敗。

彼女はとにかく男を見る目が無かった。これは僕を選ばないからとかそういう妬み嫉みの話ではなく、完全なる客観的意見。歴代の彼氏は、ヒモ男、浮気男、ギャンブル男、モラハラ男、その他諸々。世の中のダメ人間を一人で請け負ってるのかと思うくらいにはまともな人間と付き合わない。そういうポリシーでもあるのだろうか。そうじゃないなら、そんな男たちに負ける僕はなんなんだ。

 そんなことを思い出していると、彼女が風呂から出てきた。部屋にシャンプーの香りが漂う。いつもとは少し違う空気に鼓動が速く大きくなる。

「あー、さっぱりした」

「おかえり。早かったね」

「髪乾かすの面倒くさい。あ、乾かしてみる?」

「もう仕方ないな、風邪引かれても困るからいいよ。ドライヤー持っておいで」

「え、いいの?やった」

僕はソファの上に座り、足の間に彼女を座らせる。鏡を前に「じゃあ今日はどんな感じで仕上げていきましょうか。こうしたいとかあります?あ、最後のスタイリング剤どうしますか?」なんて美容師の真似をしながらドライヤーを当てる。いつまでも渇ききらない彼女に対する僕の想いとは裏腹に、目に見えて乾いていく彼女の髪が羨ましいとさえ思えてくる。乾かし終えたセミロングの彼女の黒髪はとても柔らかく艶があって綺麗で、僕はこの髪を触るのが好きだった。側から見ればカップルのようなこの状況がまた胸を締め付ける。

「はい。乾きましたよ、酔っ払いお嬢様」

「ありがとう介抱爺や。また頼むわ」

「おい。誰が介抱爺やだよ」

そんなやりとりをしてケラケラと笑ういつもの彼女の表情に安堵しながら、キッチンへと向かう。さっきスイッチを入れておいたケトルはもうとっくに沸いていた。

「ココアでも飲む?」

「うわあ、至れり尽くせりだ。飲みたい」

彼女のお気に入りの猫のマグカップを差し出すと、ふう、と口を尖らせてココアを冷ます。一口飲んで「美味しい」と呟く彼女を横目に、僕もココアを一口。優しい甘さに気持ちが和らいでいくのが分かる。

ふと時計に目を遣ると、針は午前2時半を指すところだった。

「もう2時半だって。そろそろ寝ないとだめだよ」

「あー、もうこんな時間か。そっか。寝なきゃだね」

彼女は素直にベッドへ潜り、鼻まで布団を掛けてこちらを覗く。僕は彼女のベッドの隣に腰掛けて眠りにつくのを待つことにした。それから少し他愛も無い話をしているとだんだん彼女の返事がゆっくりになり、次第にそれも無くなった。彼女が寝息を立てていることを確認して、起こさないようにそっと立ちあがるべく手をつく。その手を不意に引っ張られ、バランスを崩した僕は気付けば彼女を組み敷くような体勢になっていた。理解が追いつかない僕をよそに彼女の僕を引っ張っていた手は、僕の頬へと移動してそのまま自身の方へ引き寄せる。ゆっくりと彼女の唇が、僕の唇に触れる。彼女の唇は、なんとも形容し難い程に柔らかかった。

「何してんの。飲みすぎなんだよ」

動揺してるのがバレないように彼女を背を向けてベッドに腰掛ける。彼女の考えている事はいつも分からない。今日もどうせ酔っ払っての行動だろう。明日になればきっと忘れている。そう自分に何度も言い聞かせて心にストッパーをかける。

「私もう酔ってないよ。分かってるでしょ、ねえ。何で?」

「分かった分かった。酔ってないね。早く寝ような」

「はぐらかさないでよ」

いつになく真剣な彼女の声がワンルームに響く。

「まだ僕は、何でって聞かれるのか。そんなの分かってんだろ。何でって聞きたいのは僕の方だよ。教えてくれよ」

そう言って再び彼女にキスをした。この今まで抑え込んでいた醜い感情を彼女にぶつけるように何度も、何度も。
ふと我に返った時、彼女がまた涙を流していることに気付いた。

「ごめん」

「いや、ごめんなさい。違うの。謝らないで」

「何も違わないから」

「ねえ、待って」

伝う涙を拭って彼女の言葉を遮るように上から退き、布団を掛けてソファに掛かったコートを羽織った時、彼女が呟く。

「好きなの。今更言っても信じてもらえないかもしれないけど、好きなの」

「そういうのいいから。残酷だよ。じゃあ僕がここへ来た時、何で泣いてたんだよ。もう何考えてんのか分かんないよ。都合の良い男になんかなりたくないんだよ。君が好きなのは僕じゃない」

彼女の顔も見ずにそう答えて部屋を後にした。「行かないで」と後ろから声がしたが、僕には振り返ることが出来なかった。振り返って彼女の傷ついた表情を見てしまえば、僕は、きっと。

 外に出ると凍てつく空気が肺を刺す。しばらくアパートの前から動くことができず、自分がしてしまったことの重大さに全てが嫌になってしまいそうになりながら空を見上げていた。皮肉にも今日も月は綺麗だった。

 あれから彼女がどうしてるのか僕は知らない。あの時の彼女がしたキスの意味も、彼女の言葉の真意も、僕が去る時の彼女の表情も僕は未だに何も知らないまま。きっと彼女はアルコールと、あの夜の時間に流されただけなんだろうと思う。彼女は僕のものにはならない。それ以外に答えは出てこなかった。
そんな週末の深夜2時半。自宅で煽る350mlの発泡酒はとても苦い。テーブルの上には空き缶が4缶。床には脱ぎ散らかされた服。シンクには溜まった食器。鳴るはずもないスマホを片手に天を仰ぐ。

僕は今日も一人だった。

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