人の容姿を褒めますか?
男性に質問です。
かわいい女の子に「かわいいね」って言ったことありますか?
たぶん、みんな普通にあるんじゃないかなと思います。
しかしですね、最近の女性蔑視、女性差別の問題で
「女性の容姿を褒めることへの不快」を訴える話が少しずつ出てきています。
そんな馬鹿な、って感じですよね。
心理学で有名なアルフレッド・アドラーは
「褒めてはいけない」
と言っています。
はぁ?って思う方が多数かと思います。
当時大学4年生の私も同じことを思いました。
なぜ褒めてはいけないのでしょうか?
褒めることは相手の自律性を奪う行為
例えば子どもの頃親に「えらいね」「すごいね」「よく出来たね」なんて言われたことはありますか?
言われたら、うれしかったですよね。
「親に認められた!」「親がよろこんでくれた!」っていううれしさですよね。
この場合の子どものやる気(原動力)って何になると思いますか?
「親に褒められたい」
になるんじゃないかな、と思います。
さて、この「親に褒められたい」という気持ちで出した成果、基準は「親が認めてくれるかどうか」になりますよね。
なので成果の基準は親です。
そこに、「自分なり」の基準はありませんね。
つまり、自律性を欠いた状態です。
そう、この「褒める」という行為は、続けると、褒められた側の自律性を奪う行為につながるんです。
そして、親がジャッジする側、子どもがジャッジされる側になると、上下関係がうまれます。
子どもは親のジャッジに一喜一憂しなければなりません。
子どもが親に支配されている状態になります。
なので、
ジャッジする行為は相手を支配する行為と等しい
と考えます。
(なので、本当は子育ても褒めてはいけないんですよ…ということもボソッと言わせていただきます)
では、このケースの親を男性、子どもを女性に置き換えてみましょう。
性差も、親子と同様に、生物学的な体力差があるので、どうしても男性が上、女性が下、の上下関係になりやすいです。
そして冒頭の話に戻りますが、
多くの男性は、「女性は容姿を褒められるとうれしい」と思っている(思い込んでいる)のではないかと考えます。
しかしまともな女性のみなさんは、初対面の男性にいきなり「かわいいね」と言われて、ちょっと違和感を感じませんか?
ていうか、そんなにうれしい言葉か??
正直言って、反応に困りませんか?
(努力してお顔をおいじりになられている一部の方を除いて)自分の努力じゃどうにもならない、ただの遺伝である顔立ちを褒められたところで、「はぁ。どうも。」としか思えない。
おそらくですが、対等な人間として興味を持たれているのではなく、なんとなく上の方から好奇の目で見られている、ジャッジされている、という違和感。
これは潜在的に「人に支配されるかもしれない」という静かなる抵抗をしている状態なんですね。
(ちなみに、「えっ、私は見た目褒められたら飛び上がるほどうれしいわ!」という方は完全に男性に支配されているミッションコンプリート状態なので、お気をたしかに。)
では、容姿ではなく、持ち物とかヘアスタイルとか、趣味を超えた特技(?)とかを褒められた場合はどうでしょうか。
アメリカの方とかでよくある、I like your T-shirt.的なアレです。
そっちの方がちょっと嬉しくないですか?
なぜなら、褒められた対象が
自分の意志が介入しているもの
だからなんですよね。
自分がいいと思って買った服、いいと思って美容室で変えたヘアスタイル、好きで続けている趣味…
全て自律性のあるものですね。
この場合、「この人に褒められたから」ではなく、すでに「好きだから」という(理由なき)理由が存在しているので、ジャッジされている感も、支配されている感もあまりありません。
なので、褒める対象によっては褒めてもいいんじゃないかな、とは思います。
「褒める」というより「尊重する」に近いかもしれない。
上からジャッジするのではなく、横から尊重する。
これが気持ちのよい褒めになります。
コミュニケーションとは。
話が逸れたので戻します。
上に書いたように、男女というのは生きてるだけで体力差による格差が生まれやすいです。
なので、男性の方は特に気をつけてほしいのです。
生きてるだけで優位である、ということをまず肝に銘じていただきたく。
ここから先はちょっぴり厳しいことを書きますので、心臓を叩いてから読んでください。
これだけ書いて半分くらいの方は理解していただけたかな、と思うのですが、やはりこの性差別もなかなか根深いのでね、
まだ一部の方は、
「そうは言ってもやっぱりかわいい女の子にはかわいいって言いたい!何が悪いんだ!」
「かわいいは自分なりの挨拶なんだよ」
とムッとされているかと思います。
ええ、わかります。
今まで自分の中で「正しい」「当たり前」だと思っていたことが、他人によって崩されようとしている。
自分を全否定されたような気持ちになって、それこそ支配されたような気持ちになって、頭の中の矛盾と闘っているか、排除しようと必死だろうと思います。
(これを「認知的不協和」と言います。)
「かわいい女の子にかわいいも言えないなんて、表現の自由はどこにあるんだ?」
これもわかります。
いや、わかりません。
ちょっと話が逸れますが、「自由」というのは「自分」に「由る(よる)」と書きます。
「自分に従う」という意味です。
表現の自由っていうのは、なんでも無責任に言いたいことを言える世の中ではなく、
「国や団体は制限しないので、どうぞご自分の責任で発信してくださいな」という意味だと思います。
なので、自分が発した言葉に文句を言われようが大炎上しようが、その責任は発言した自分にあるのです。
そもそも人に対して発する言葉っていうのは、本来そのくらい慎重に考えてから発言するものだと私は思いますけどね。
「かわいいと言われて嬉しくない女は捻くれている」
こんな発言も見かけました。
これも認知的不協和からなる発言だと思います。
「容姿を褒められたら皆嬉しいはずだ」→「嬉しくないと思われた」
この矛盾を正当化するために
「嬉しいはずの言葉を嬉しいと思えないなんて、捻くれているに違いない」
という脳の修正が入りました。
残念ながらコミュニケーションというのは受け取り手の気持ちが全てみたいなもんです。
伝わってないのに「言ったから伝わった」というのもコミュニケーションではありません。
相手のためと思って言った言葉が嫌がられたら、嫌がった相手の気持ちを尊重することがコミュニケーションです。
言いたいことを言うだけの会話はコミュニケーションではありません。
どれだけ聞き合えるかがコミュニケーションです。
はい。
まとめると、
男性が女性の容姿をジャッジするような発言は「相手の自律性を奪う支配行為である」ということをよく覚えておいてください。
だから、
「かわいい」も「ブス」も何も言うな
ってことです。
何も言わんでいい。
挨拶するなら、I like your T-shirt の方がいいです。断然いい。
同性同士は?
はい、私もこれよく考えました。
絶対そうだ、とは言えないのですが、
女性同士の「かわいい」って、上から目線の好奇の目ではなく、
ニュアンス的には、相手の仕草や表情、服、髪型、持ち物、全てを総称して「かわいい」と言っている場合がほとんどかなと思います。
男性同士の「かっこいい」も然りです。
同性同士の褒めは、その人自身の自律性に対する尊重のニュアンスが強いです。
なので、不快ではないんですよね。
もちろん、上から目線のニュアンスを感じたら不快です。
最後に。
どうでしょうか。
なんとなく伝わったでしょうか。
(数時間でバッと書いたので正直自信ない)
女性蔑視に限らず世の中には無意識の差別がたくさん存在します。
前の記事にも書いたのですが、
人間の脳ってステレオタイプ化、カテゴライズが大好きなんです。
なぜかと言うと、考える時間を短縮できるからです。
容量を少なくしてメモリーがパンクしないようになってるんです。
ですがあまりステレオタイプ化された思考を放置すると、知らず知らずのうちに差別していた、ということが起こります。
差別っていうのは脳みそとの闘いでもあるなーと思います。
そういう意味では、差別意識は全ての人間に必ず存在するのです。
偉そうなことを書いている私にも、必ずです。
常在菌みたいなもんです。
大事なのは、常在菌を自分の中でどうたしなめるか、です。
3/8の国際女性の日で、私がフォローしているとある男性が、女性蔑視について自戒をこめた投稿をしているのを見かけました。
私の投稿を見て、「自分も言ってしまっていたな」と送ってくれた方もいました。
無意識を放置せず、一生懸命意識化しようとしている。
それがとてつもなく嬉しかったんです。
この動きが繋がっていくといいな。
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