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木星の輝きとろうそくの光

 仕事を終えて帰宅して部屋に入り荷物を置く、干していた洗濯物を取り込みにベランダに出ると、東の空に膨らみかけた月が見えた。そばできらきらしている星は木星かな。
 ぼおお、とその星たちを眺めていたら、疲労感におそわれた。たたかい疲れたな、そんなふうにおもった。
 古い時代のことを教えてくれる本や映像作品を見ているときに、例えば戦乱なんかが日常的な時代なんかは戦いの連続でしんどそうだな、とおもっていた。色々例にあげて書くことはもうしないけれど、そういう時代の「日常」は私が知るそれとはずいぶん違っている。だからしんどそうだし、私はそういうのは御免だなとおもった。
 だけど、様子は違っていても私をとりまく環境にだってあらゆる種類のたたかいがあるわけで、つまりそれぞれの時代ごとに状況が違うだけで、戦いの連続であることに変わりはない。そんなふうにおもって、そうしたら急にそういう色々が肩にのしかかっている気もちになって、ぐったりとした。

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 事務所でひとり仕事をしていたら、本棚から1冊の本の背表紙が飛び出ているのが目に入った。前の日に、事務所の別枠従業員たちがせっせと大掃除をしていたはずのエリアにある本棚で、どうしてきっちり並んでいないのかなとおもいつつ押し込めようとしてタイトルを見たら、おもしろそうな本だった。何度も見ている本棚なのに、そんな本があったなんて気がつかなかった。
 読んでほしくて飛び出ていたのかもしれない。とにかく読むことにした。

 その本は、教文館から出ている教会における画像や象徴を読み解く本だった。序言の部分から思考に反応がいくつかあったけれど、今日はまあちょっとのんびりと、その中からひとつを取り出して書いてみたい。

 ことしは、というかもうここ何年もバースデーケーキにろうそくを立てるなんてことしていないのだけど(誕生日のケーキ、食べてないな)、前からちょっとだけ不思議だなとおもっていたのは、あのろうそくを吹き消す行為だ。
 ろうそくの火は、命を連想する。あるいは火を灯すとき、それは心のうちに光をあてるようなイメージを伴っていて、そんなこと(心のうちを視ること)するのはやはり生命あっての行為とも言える。教会や寺のお堂でろうそくに火を灯すときには祈りを伴っていて、それが死者のための祈りを意味する場合であっても行為するのは生きている側の人間で、そして灯すことはあっても吹き消すというのはまずやらないとおもう。仏壇で線香をあげるためろうそくを使ったあとは、吹き消すことをしてはいけない。
 誕生の日を祝う食卓にのせるケーキ、ろうそくを立てて火を灯すところまでは理解しても、吹き消すのはすごく違和感がある。いつからそうするようになったんだろう。生まれ変わり(新たな1年)とかそういう意味合いなんだろうか。

 事務所の本棚から抜き出してきた本は『「教会」の読み方』と言って、著者はリチャード・テイラーとあるが書籍には訳者(竹内一也氏)のプロフィールしか載っていなかった。わりと平易な文章で、読みやすく書いてある。シンボルの意味するものを辞書的にずらずらと並べている形式ではなく、聖書などの記述などに沿って写真やイラストを交えて文章で説明してある。疲労にまかせて(つまり何もしたくなかった)ぬくぬくと一気に100ページほど読んだなかに、ろうそくについての項もあった。
 その筆頭に書かれているのはやはり「生命そのものの光」であった。本の中ではその他に想起されるイメージや表象、ろうそくに火が灯される時期(例えば復活日やアドヴェント)などに示される意味合いなどが説明されている。
 その他の詳細をここに抜き出すことはしないけれど(疲労のせいにしてズボラする)、ろうそくの火が生命の光であること、そしてこの間ちょこっと書いたように、神話などに見受けられる火の役割に重なるところのある内容が見出された。
 ろうそくの火の揺れるさまを眺めたくなったけれど、最近はアロマキャンドル的なものを点ける習慣もなく、仕方がないのでストーブの暖かな炎を見ることで間に合わせている。

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 「教会」という言葉が、その建物を指して言うのではないというのを知ったのは、いまの仕事に関わってからだった。それは共同体であり、共に礼拝する場であり、共に集まる場なのである。そのことを改めておもったとき、その場所にひかれて訪れる人が多いこと、それから自分が訪ねたことのあるいくつかの教会をうつくしいと感じるのは、祈りが詰まった場だからなのかもしれないとおもった。そうであれば、やはりいくら建物が素晴らしかったとしても、それそのものが特に重要視されるべきではないのかもしれない。
 少し前には、福岡県大刀洗町の今村教会の保存についてのことをちらっと書いたことがあった。価値というものについての疑問を書いたけれど、ああいうのもどこに重点を置くのかは見過ごせないかもしれない。
 公に信仰を表せなかった時代、辛抱を重ねて禁令解除を待ち、やっと建てられた教会を大切におもうのは当たり前かもしれず、だけれども建物それ自体に何らかの価値があるように扱ってしまっては、ある種の執着とも言えるものとなって本質とずれてしまうような気がする。
 するんだけれど、私は部外者といえば部外者だし、個人レベルにおいてもその人をかたちづくるもの、例えば何らかの肩書きや権力のようなものを失った際に、自分自身の価値と取り違えて、それが崩壊するような錯覚に陥ってしまう人もいるわけで、そういうのと似ているとおもえば、外野がとやかく言うことではないかなという気もちにもなる。

 私がいま関わっている教会のいくつかは、ほとんど現役である。つまり地域ごとの共同体という意味での教会であり続けていて、その中では大浦天主堂が観光施設化している。大浦天主堂には、毎日多くの観光客が訪れて拝観料を支払って「見学」をしている。祈りの場から観光の場に移っているわけで、今はまだ祈りの場であった期間の方が長いけれど、この先100年、200年を経ると(まだあればの話だけれど)御堂の印象というのもずいぶん様子が変化するのかもしれない、などとおもった。今、我々が感じ取っている「価値」(のようなもの)とは違うものになっていくかもしれない。

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 今回はろうそくの火をテーマとしたつもりだったけれど、いつものごとく内容が散らかってしまった。先日から天使についてもいくつか気になることがあるので、この本の続きにそのあたりも出てきたらいいなとおもいつつ、読むことにする。
 トップ画像の中央には飽の浦あくのうら教会が見えるんだけれど、ピンク色だった外壁がいつの間にか白壁になっていてびっくりしたので撮ってみた。

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今日の「パジャマ」:たまたま見つけたパジャマを買って着ています。つまり新調したわけだけど、別に新年を待たなくてもいいですよね。

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