見出し画像

平和を望むのなら

 『ユングの生涯(河合隼雄著)』という本を読んでいることをちょっと前に書いたんだけれど、それを読み終って、読みかけだった『人生は廻る輪のように(エリザベス・キューブラー=ロス著)』にまた戻った。この本を読むのは2度目なのだけれど、常に新鮮な気もちで生きている私には(つまり内容を忘れていたということ)また新たに感ずるところがある。この2冊を続けて読みたくなった理由は、『ユングの生涯』のはじめに、彼が生まれ育ったスイスという国の土壌についての章があり、ロスもスイスの生まれというのを思い出したからだった。

 この数日、また他に2つの漫画作品を読ませてもらい、それは日本が近代に向かい変化を経験するなかで、多くの複雑な状況を、実に多くの葛藤や混乱や非情や残酷さや過ちや厳しさなどをさまざまに通過しながらこじつけたあたりが描かれている作品だった。私は日本の歴史に(も)疎いことから、まだその流れを把握できていないのだけれど、上述の2冊の書籍やこの漫画作品群からいろいろとおもった。

 スイスという国についてもほとんど何も知っていることはなく、永世中立国である、ということは知っていてもそれが実際どんな成り立ちをもっていて、どのように営まれてきたものかはよく知らない。だからそのような国に生まれ育った場合に、日本に生まれた自分とどのように違っているのかがうまく想像できない。
 本を読んだり、漫画作品であってもその描き方によっては、そういったものへのいくつかの視点をもつ、助けになる。

 スイスの公用語にしてみても、ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の4つであることなどをとってみても考えさせられるところがある。インドの公用語の数というのも凄まじいけれど、一つの国において複数の言語が国語として存在するなどとは、私たち日本人からしてみるとそれだけでも多くの努力や配慮が必要になることとおもわれる。
 このことからおもうのは、そういった複数の何事かを受容することと、ただ受容するだけではなく自分の意見を持つことや、それを外側に向けて発して時には議論をたたかわせるなどといった姿勢が、平和を創り上げる一つの力になることをおもった。

*

 『ユングの生涯』には彼の死に関する記述も見られる。
 「それは偉大な人を失った深い悲しみを伝えながらも、ユングの死が多くの人にとっていかに感動的であったかをも語っていた。ユングは死の二、三週間前より自分の死を予期しており、極めて静かに死んでいった」とある。
 ところが、筆者は1975年に発行された、ユング生誕百年の記念号として出版されたものの中に、ロンドンの有名な分析家が書いた記事を読んで驚いてしまったエピソードが書かれている。そこには、死を前にしたユングの、自身のこれまでの仕事に関する心情を書いた手紙と、それを見舞った際の混乱し苦悩に満ちたユングの様子が記載されていたらしい。筆者はそれを読んで、これまで自分が聞いたユングの最後が、ユング信奉者のつくりあげた「伝説」なのだろうか、ユングについて、ユング心理学についての自分の考えを再検討する必要があるのではないだろうかなどと迷い、ユング研究所を再訪するなどし、たくさんのものを見聞きし考察した結果、自身の中で折り合いをつけていく様子までが書かれていて感動的だった。

 エリザベス・キューブラー=ロスは、自身の死を目前にしたときにこれまでの意見を転換する態度を見せたというのを何かで読み、これにも驚かされた。今回改めて『人生は廻る輪のように』を読んでいて、この本を書いていた最中の彼女の、熱意みたいなものまでが伝わってくるようだった(まだ途中だけど)。
 そのことと、晩年の態度をおもうと、そしてさらにユングに関する記述を含めると、死の間際においてまでもその瞬間にそれぞれが体験し感じたこととたたかっている様子がおもわれて、グッとくるものがある。

 物事や状況に対し、受容するという態度は必要であり重要なものであると同時に、そればかりでいるというのはきっと個人の存在を危うくするものなのだと、これら2冊の本と、漫画作品から考えた。

*

 あるとき、職場の同僚の発言を別の同僚から聞いた。それは「誰々さんが辞めるときには、自分も一緒にこの仕事を辞める」というもので、私は心底呆れた。
 発言した同僚のことは、嫌いではなかったけれど、まあ熱心に仕事をするタイプでもなく、そういう人なんだろうというふうにおもっていた程度だったし、この意見に呆れたからといって嫌いになるというのでもない。けれど、たとえ仕事に熱がこもらない場合であっても、そのような考えを持っているというのはけっこう私を白けさせた。こういうタイプの人は、何かが起こった際には人のせいにするだろうな、とおもうからだ。
 仕事が気に入らないなら辞めればいいし、やり方が納得いかないなら自分の意見を言うべきで、つまりやっぱり、自分がどうしてその場にいるか(その仕事をするか)という理由はしっかり考えておかなければならないとおもうのだ。それがたとえ、生活のためとか、他に仕事がないからというものであったとしても、誰かが居るからなどと他人を持ち込んではいけないようにおもうのだ。

*

 本や漫画、日常的なことといつものように散らかったようだけれど、まあそんなふうなことをおもいつつ引き続き読むことにする。

*

今日の「ため息」:衣服につく毛玉って、どうにかならないんでしょうか。

この記事が参加している募集

サポートを頂戴しましたら、チョコレートか機材か旅の資金にさせていただきます。