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喫茶店百景-がんこだった-

 このあいだ、思いもよらないようなところで、むかしの父を知るひと(サトナカさん、仮名)と出合うことがあった。むかしの父というのは自分の店をもつより以前のことで、ある時代にこの町で何店舗かの喫茶店を展開していた、『ジェイ(特に名を秘す)』という店で働いていたころだ。
 サトナカさんがそのころの様子を話して聞かせてくれた。それは私の知らない父の姿だった。

*

 以前にもどこかに書いたとおもうけれど、父は大学時代にK市の喫茶店でアルバイトをしたのがきっかけで、次第に喫茶店経営に魅せられていった。父のマガジンにあるように、子ども時代からの孤独さを癒してくれた、ジャズをはじめとする音楽が流れる店で、自分がおいしいとおもう自作のコーヒーを提供すること。夜のバータイムには酒を出し、そこに集まる仲間と気の置けない会話をたのしむこと。おそらくそういった夢を抱いたのだろうと想像する。
 K市からこの町に戻ってきて、どういう経緯か(面接を受けに行ったのか、知人の伝手か)わからないが、そのころ勢いがあった『ジェイ』という店のひとつでばりばりと働いた。UCCやKEY COFFEEの営業担当とがんがん交渉して、いい生豆を仕入れ、ハンドピック(不良豆をよけること)をまめにして味を極め、後輩たちの指導にあたったりしていた。父からはその時代をそう聞いている。
 このころは結婚なんかもまったく考えていなかったといった。一日中好きな音楽と、コーヒーや煙草の香りのするなかで仕事をする毎日が、とにかくたのしかった、そういうふうに言っていた。

 サトナカさんが『ジェイ』に入ったのは、先に同級生のクボタさん(仮名)が父の下で働いていて、その縁でということみたいだった(クボタさんは私も知る人だ)。父によるとサトナカさんもクボタさんも男前だから、このふたりが店に立つようになってからは、近所の洋服店や化粧品店で働く若い売り子たちが店に押し寄せ、すごい繁盛ぶりだったということだった。
 クボタさんはたしかバブル期あたりに高級ブランドを扱う店を経営するなどしていて、今でもいい服を着こなしていることが多いし、サトナカさんも身のこなしやスタイルもよく、まあふたりとも若いころはモテたのだろう。そういう感じだった。

 その当時の父はとても厳しかったらしい。
 サトナカさんによると、焙煎が済んだ豆を品種ごとに並べ、(コロンビア、モカ、グアテマラ、ブラジル・・・など)、端から順に豆を食え、そしてどれがどの品種の豆か当ててみろ、とか指示されるのだそうだ。
 ところでいまおもったんだけど、たしかサトナカさんとクボタさんは、父の6つ年下だ。この当時の父の年齢を考えると、もしかしたらふたりはまだ10代だったかも知れない。20代になっていたとしても社会に出て間もない若者だ。急に焙煎したての豆の状態で、ブラインドで当てろなどといわれても出てくるのは冷や汗くらいのものだろう。
 サトナカさんは笑いながら、そういったエピソードをいくつか聞かせてくれた。それで、以前父から直接聞いた話などと合わせて考えると、このころの父には明確な夢というかビジョンというか、そういうものが強くあったんじゃないかとおもった。

 いつか自分の店を持ちたかった父は、先輩のひとりが開いたこの『ジェイ』の、のれん分けの店をある時やめるというのを、そのまま譲ってもらうことにした。『ジェイ』が展開していた市中心部からはいくらか離れた町だった。
 その店を持つ少し前に父は母と結婚をして、すぐに兄が生まれている。結婚、子ども、店と一気に生活に変化が訪れたのだ。そのころの生活というのはかなり混乱していたようだ。母の言いぶんを聞くと、そう見受けられる。
 父としては、家庭よりまだ店に対する意識が強く、朝のモーニングに始まり、昼の喫茶、夜にはアルバイトを引き連れて飲みに出るとかそういったふうだったらしい。このころ酒を出していたのか、置いてはいたかもしれないが、メニューにあったかどうかは知らない。
 この時代はまだ喫茶店というのはどこも繁盛していたようだし、収入には困っていなかった。だけど若いふたり(父と母だ)には、貯金や店の経営を長く持続させるための資金繰りといった考えが希薄で、収入はそのまま使っていい金というふうな生活をしていたみたいだ。
 そうして、店の経営がうまくいっていると考えた父は、一度店を大きく改装した。私は小学生の終りごろだったとおもう。というと90年代の前半ということになり、日本の経済としても雲ゆきがあやしくなってきたころだ。このときの借入金は、のちに家庭の大きな負担になる。

 店がある町の様子も変わりはじめ、客足の流れが変わり、店は時間によっては空席が目立つようになり、子どもたち(兄、姉、私)は大きくなる。生活が傾かないよう、父は外で仕事をするようになったのがそのころだった。たぶんこのあたりから、父の強いビジョンを伴った夢ややる気は、ずいぶん萎んでしまっていたのではないだろうか。このあと、いろんな疲弊が重なり、家族は解消され、父はひとりになり、店に戻ることはできたけれど、同時に孤独も戻ってくることになった。まだすべてを諦めたわけではなかったかもしれないけれど、世間はそんなに甘くなかった。

 その後はきびしい生活に目を背けながら、店を移転するなどして変わりばえしない生活を続けていた。よく知らないけれど(知りたくない)、父の懐は相当やばい状態だっただろう。それでも父は平気なふりを続け、だからといって状況をよくする努力はもうとっくにやめていて、けっこう落ちぶれて見えたから、なんだか腹立たしいおもいもした。たぶん、店を選んだくせにこの体たらくかよ! とかそういう腹立たしさだろう。

 父がしっかりと握りしめていたはずの夢は、どこへ行ってしまったのだろう。たしかにあったはずのそれが、いつの間にか指の間からすり抜けていったのかとおもうと、やりきれない気もちになる。サトナカさんの話を聞いてから、そんなことばかりおもう。

*

 先日、ちょっとしたことからある飲食店で1度きりのアルバイトをすることがあった。ほんの3時間ほどだったけれど、サービス側にまわるというのはすごく久しぶりだった。
 その店はまだオープンしたてで、顔見知りだったオーナーはふだんは愛想がよく面倒見がいいように見える。
 イベント時の手伝いといった人員として、準備から入り、客はイベントの30分前から入れた。飲食店と言ったって、ほとんど飲み物と出来合いの軽食(おやつ?)を出す程度、飲み物だっていくらもなかった。
 カクテルを除くアルコールが5種、コーヒーやジュースなどのソフトドリンクがせいぜい5種。はっきりいって楽勝である。
 客もピーク時で10名程度だった。なのに、オーナーは最初の客が入ってからすぐにパニックに陥ったので仰天した。予約客の対応に混乱し、オーダーに混乱し、チャージとキャッシュに混乱し、状況に混乱して、顔もはっきりこわばっている。おいおい、落ち着いてくれよ、私は何度も心の中でそうおもった。

 店で使うグラス類や、現金を扱うためのあれこれ、客が不快に感じない配慮などが欠けていると私は感じて、なんだか残念な気がした。客の注文が落ち着くと、オーナーはいつもの愛想を取り戻していた(どこかに置き忘れていたんだろうか)。

 こういうのを目にして、またいろんなことを考えた。
 父には少なくともある程度の、スタイルがあった。店の雰囲気と使う食器類、全体のバランス、店にふさわしい(と父が考える)服装と身のこなし、サービスの仕方。
 盛り付けにもこだわりがあったし、コーヒーや紅茶のカップをどの向きで客の前に置くかも指示された。それは年をとっても(おそらく今でも)父という人間にしっかりとしみついていて、私が店を手伝っていたときにどんなに店が混んでいてもそれを横着しなかった(そのせいで客を大幅に待たせることもあった)。
 ずっとそういう姿を見ていたせいか、例えばお客さんなどに「店を継いだらいいよ」などと言われ、あるいは自分にもそういう思いが湧いて、店を開くことを想像してみても、自分のなかにそういう理想やスタイルのイメージが今ひとつ定まらず、私には無理だと考えたこともある。

 スタイル。
 それは初めから全部決めておかなくてもいいのかもしれない。というか全てを初めから決めておくことには無理があるだろう。やりながら理想が変わることもあるかもしれない。そういうものは、自身の成長や社会の変化とともにアップデートされていくような性質のものでもあるとおもう。でもやっぱり、ある程度のイメージを持っておくことは必要なんだなと改めておもった。

 自分が理想とするスタイルを、持っている(あるいは持っていた)父をどこかうらやましいとも感じる。そしてそれをいつのまにか見失ってしまったことを残念におもう。
 たぶんそれがあまりに強かったために頑固さが増し、器用さに恵まれず、高すぎる理想に押しつぶされてしまった、そういうことかもしれない。今も骨董品みたいに昔と変わらない髪型で、ずっと好きなスタイルのファッションを身に着け、昔から愛好する食事や音楽を好み、いちおうスマホは持っているものの、その他のほとんどでアナログな生活を続けている。

 実は(というか)父はもうじき、ある事業のひとつの部分(喫茶的な性質のもの)を任されることになっている。長い間豆を焼いてきた焙煎機をそこに据え、自家焙煎珈琲とちょっとした軽食とサービスを担当する。とても光栄で、ありがたい話だ。
 最近は会うと、メニューについて相談してきたり、今度その場所を見に行こうなどと言う。楽しみな気もちと、しばらくのブランクに、ちょっとした不安を抱えているのかもしれない。
 ある種の緊張感というのは人生においてとても重要なことだとおもう。いろいろと理想通りにはいかなかった人生だったかもしれないけれど、人生の終盤(だろうね)に訪れたこの機会と緊張感で、父が自分の人生を良きものとして感じられたらいいな。

 そんなことをおもった。

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