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不登校だったけど、大学生になれたよ。

不登校支援をしている方と話す機会があり、不登校だった当事者としてこんな不登校も居たんだよということをお話したく、一度文章にまとめる事とした。
私は、中学生の頃学校に行っていない時期があった。
といっても、中学1年生の後半から中学3年生の卒業式までほとんど学校には行っていなかった。
学校に行かなくなった理由がなんなのか、今でもあまり明確な理由が分からない。
居場所は学校だけじゃない、学校で嫌なことがあったら逃げても良い。
そういう事をよく聞くものの、私は不登校だったけれどたまに学校に行くと凄く楽しかったし、学校で悪いことがあったから不登校になったわけではなかった。
私は中一の夏休み前に自分に合わない運動部を辞めたり、失恋してなんだか満たされない生活を送っていて、満たされない心をインターネットの友達と話すことで埋めていた。そして、その友達とは実際に会って遊ぶこともあった。
そんなことが親にばれて、親はインターネットで知らない人と話すことに激怒し、私からインターネットの居場所を取り上げた。母親は泣いていた。父親は母親を泣かせた私を責めて、母親は私がインターネットの世界に没頭していたこと、実際に会ったりすることをどうしたら良いのか学校に相談した。それ以降授業中に良く私の事を面白おかしくいじっていた先生が私に話しかけることは無くなり、担任の先生もなんとなく気まずそうで、私も少し気まずさを感じていた。先生と気まずいと、少し勉強する気も無くなる。勉強が出来ないと塾が退屈になる。心は満たされなくなる一方で、満たされない心を包摂してあげられるものが私には無かった。どうしても辛くて、親に内緒でタブレットを買い、インターネットの友達と再会した。その友達も私の事を待っていてくれたことが、楽しくて幸せだった。
しかしそんなことはすぐにばれてしまい、目の前でタブレットは壊されてしまった。
インターネットの友達に、次娘と連絡を取ったら、親や学校に相談するといった旨を母親が送信し、絶望的な展開になってしまった。
どうしても嫌で、悲しくて、朝起きるのが苦痛になった。そして、私が取った行動が学校にいかないことだった。親の思い通りにはなりたくなくて、学校に行かないという反抗の手段を取った。それからのことはよく覚えていなくて、私が家出なども繰り返していたため、インターネットの居場所を返してくれた。そのころには学校に行かない生活に慣れてしまった為、ネットで人と話して、クラスメイトとも通話をしたりして、たまに学校に行くと歓迎してもらえる。そんな生活をしていた、塾の先生も、追いつけないところは個別で対応するから、好きな時間においでと優しい言葉をかけてくれていた。
中学二年生で新しいクラスになり、学校に再び行くいい機会であったが、体力的な問題ですぐに通えなくなってしまった。相変わらず友達は優しかったが、父の心無い言葉と、学校に行けない自分にたいして否定的になり、冬まで暗い気持ちだった。春に、再入部した部活でコンテストに出る予定があり、11月頃顧問に、部活に毎回来ないならコンテストに参加することは許さないと怒られてしまい、大好きな部員とコンテストに出たかった為、ほぼ毎日5時間目や授業が終わってから部活に行く生活が始まった。そのころの生活は不安定だったけれど満たされていた。眠ることが出来ず朝寝ないまま部活へ行き、部活が終わったら友達とファミレスに行き睡眠をとっていた時もあった。寝ててもいいしただ一緒に居たいと友達が言ってくれたからである。コンテストに出たことで、何かに参加する事、みんなと連携を取る事、試行錯誤する事、みんなでなにかを成し遂げることができた。この経験は私にとってかけがえのないものだった。急に部活に来るようになって、これはこうした方が良いかもしれないなどという私でも、後輩や部員は煙たがることなく受け入れてくれた。
3年生になり、また切り替えの時期となったが、コンテストが終わり燃え尽きた、オンラインゲームにドハマりしたというどうしようもない理由で学校に行くことは失敗した。
夏休みにオンラインゲームに飽きて、昔母が紹介してくれたフリースクールを思い出した。
暇という理由で夏休み明けからフリースクールに通い始め、部活も引退のイベントがあったので、フリースクールと部活に通い、帰ってきたらフリースクールの友達とゲームをするとても充実した毎日を送っていた。フリースクールの友達同士は、自分の過去や自分のことを良く話し、認め合っていた。逆に恋愛感情を持たれて、嫉妬などで無視されたり悲しいこともあったが、話を聞いてくれる大人がいたことやありのままの自分が受け入れられていたことは幸せだった。通信制の高校に通い始めたが、暇で、あまり人と会えなくて、当時付き合っていた彼氏と上手くいかなくなった。お互い依存的になっていたが、私がなんとなく始めたバイトで、社会の役に立っているという心地よい感覚を得て、ひとりでも生きていけると確信しお別れした。バイト先の大学生と仲良くなり、その先輩が頭の良い大学に通っていたことから私も頭の良い大学に入りたいと思い、早くも大学探しや英検の勉強をしていたりした。しかし高校2年生のコロナ禍でバイトにあまり入れなくなり、人とあまり会えず燃え尽きて鬱っぽくなってしまった。人恋しさや趣味ややりたいことが無い自分に対して否定的な気持ちを常に感じていて、人と付き合ったり別れたりを繰り返しながら大学入試まで過ごしていた。無事大学に合格し、今は社会福祉という学問を学んでいる。大学は本当に楽しい場所だと思う。社会福祉というやりたい事を見つけ、毎日友達と会えるという環境がある今が本当に幸せである。私は、中学の頃学校に行っていなかったけれど、普通に友達と会って笑ったり、人と何かを成し遂げることを幸せに思う人間だった。
通信制で、周りは専門学校に行くことも、普通は逆転合格なんて出来ないことも分からなかったからこそ、今の大学に行くことが出来たし、自分について考える時間が沢山あって、沢山自分や人生を考えられたことや、人と関わる機会が無さ過ぎて、“人と関われる幸せ“が理解できる人間になれたことは良かったことだと思う。
一方で高校生の頃人と関わることが少なすぎて、人との会話が下手である。話したい気持ちはやまやまなのに、上手く話せない。悩みである。あと、色んな人と関わっていたら、考えることも視野をもっと広げることが出来たのではないかなと思う。
中学生と高校生を振り返って思うのは、学校内のみの問題ではなく、親とのトラブルで不登校になることがあるのだということ。私はちょっとしたトラブルだったが、振り返ればフリースクールには兄弟のお世話をしなければならず学校にもフリースクールにも来れていなかった子、お金が無くてそれで親との喧嘩が絶えない子、アルコール依存症の親を持つ子、宗教二世で上手く学校に馴染めなかった子、など、分かりやすい問題を抱えている子も居た。
そして、包摂や承認は大切だった。クラスや部活に居なくても大好きだよと言ってくれた友達のことが大好きだった。私にはたまたま、弱っていた時に優しさを与えてくれる人の存在があった。それが無ければもっともっと絶望の淵に立たされていたと思う。そして、学校に行かないと成功体験が奪われる。不登校で自尊心が失われるのは、成功体験の機会が無くなるからだと考える。小さなものだと学校行事や定期テスト、部活動や受験など、学校では成功体験が得られる機会があるように思う。この間人に言われたことであるが、学校に行かないことは、周りの価値観に流されず、自分自身で考える時間が得られるということ。確かに、私が大学に通うのがこんなに楽しいのは、色々考えて大学に進むことや学部を決めたし、講義で聞くことと過去に考えていたことがリンクしたり、そういう自分の好きなことを掘り下げて考えることが出来るのは、社会福祉のことが好きな人が多い環境に身を置けることは、幸せである。
最後に、子どもの問題が流されてしまうのは、私たちが子どもの頃の問題を乗り越えてしまったからだと思う。いつか乗り越えられるのだと捉えてしまうからであると思う。乗り越えられるものもあるかもしれないけれど、今真剣に向き合わないと、その子の今後においてずっととげのように残り続けることもあるだろう。今、不登校で苦しんでいる子には、少しでも満たされた日々を送れること、大人になることを祈るばかりである。
読んでくれた方に幸せが訪れますように。

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