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タクシー怪談
仕事柄、深夜のタクシーを利用する機会が多い。
職場のある大阪市内でタクシーを捕まえ、高速に乗り一時間。
尼崎から西宮、芦屋の街並みを眺めながら走ると、やがて車窓には六甲山系の連なりが映り、反対側には工場地帯の大型の建物が並ぶような、神戸然とした夜景に変わる。
そんな短い深夜のドライブなのだが、怪談蒐集を趣味としている僕にとっては本業のドライバーからタクシー怪談が聞けるかもしれない絶好のチャンスだ。
その日も大阪市内でタクシーを拾い後部座席に乗り込みながら「神戸までお願いします」と告げる。
高速道路で大々的な夜間工事を行っていたため、一般道を通るルートで良いか?と運転手から確認があった。この時間であれば一般道でもさほど時間はかからないだろう。特に問題もないので二つ返事で了承し自宅住所を伝える。
運転手は七十過ぎの男性だったが、聞けばこの道は長く、四十年以上のベテランドライバーだという。
長くこの仕事に従事しているということは何か不思議な体験や怖い体験をしていることが多い。期待に胸が踊ったが喜ぶのはまだ早い。
前回のタクシーは酷かった。前回の運転手も同じような年代の男性だったかのように記憶している――。
*
その日の深夜もタクシーに乗り込み走り始める。数分した頃、僕は世間話の合間を縫って、徐々に会話の行先を不思議な話へ向けていった。
「……いやぁ、お父さん。深夜のタクシードライバーなんて大変な仕事ですね。夜中なんか一人でいると怖いでしょ?変な客も多いし。実は僕、変な話とか、不思議な体験なんかを人に聞くのが好きで。なんかそういう体験ありません?」
「んあぁ?なんや自分、そんなん好きなんか?せやなぁ、変な客はおるわなぁ。しかし怖い体験なぁ……」
ルームミラー越しに運転手が記憶を辿っているのか、唸りながらアゴをさする動作が見える。
「あぁ……怖いと言ったらあれや……」
きた。
「……ってあるやろ……?……が。……ドって言うんかな、だから……に。……つけてやな」
それまでの明るいトーンではない、運転手さんが静かに語りだす。怪談を話す特有のトーンである。
しかしそれが仇になり、肝心な部分が一切聞き取れない。おまけに窓が開いているため、そこから入る風の音にかき消され余計に聞こえない。それでも僕は一語一句逃すまい、と後部座席から身を乗り出して耳を向ける。
「だから、……ドのな、……や。……あかんで。あんなもん….…ちゃうでな……ワシは……ない……怖かった」
やはり上手く聞き取れなかったが、最後の「怖かった」という言葉のみはっきりと聞こえた。
「すみません、聞こえないんで一旦窓閉めます」とウィンドウスイッチを操作する。
「あとお父さん、もうちょっとだけ声張ってもらっていいすか?すいません……」
せっかく貴重な体験を話してくれているのだ。できるだけ気持ち良く話してもらい、できれば詳細まで聞き取りたい。
申し訳ないがもう一度最初から、と促す。
「あぁ、あれや。クレジットカード。あれは怖い。使った分だけ減るから。忘れた頃に請求くるから」
「……」
怪談じゃなかった。
怪談みたいなテンションでクレジットカードの話してた。紛らわしい。
内心マジかこいつと思ったが、
「いや、お父さん。それも怖いけど。なんかもっとこう……あるでしょ。怖いの!おばけとか」
なんとか軌道修正を試みる。
「お化けぇ?ないない!ないない!番町皿屋敷か?いちま〜い!に~ま〜い!言うてな!がはははは!」
一瞬飲酒運転を疑ったが、これもおじさん特有の寒々しいユーモアなのだろう。
ムカつきを覚えながらも適当に相づちを打つ。関西なら播州皿屋敷だろう、と文句の一つもぶつけたかったが、このおじさん相手に特に広がる話題でもないため、胸に留めておいた。
結局そのあとも延々と運転手は「競馬で破産した話」を語り最終的に「金は怖い」という身も蓋もない持論を展開するに至った。
○天カードマンを憎んでいるというどうでも良い情報しか残らず、到着したあとも「あんなもんテレビ流すな」と最後まで憤っていた。
○天カードマンを憎むよりまずは己のだらしなさを省みるべきだろう。
勝手に期待しておいてなんだが、なんとなく損をした気分で僕はタクシーを降り、小さくため息をついた――。
*
そんな苦い経験から、年配のタクシードライバーなら必ずしも怪談を持っている訳ではない、ということが身に染みている。
今回も怪談と出会えない可能性はあるが、何事も聞いてみないと分からない。
高速道路入口へのルートを外れ、一般道を走るタクシーの中で運転手との会話の距離感を図りながら、いつも通り世間話を始める。
あくまで僕の感覚ではあるが、タクシードライバーという職業の方はお喋り好きが多い。こちらの質問にも軽快に答えてくれるため車内はすぐに和やかな雰囲気になった。
いける、と踏んだ僕は前回の失敗を挽回すべく徐々に会話のベクトルを誘導していく。
怪談が好きだと伝えると、運転手はそうか!じゃあとっておきのを、とこちらが促さずとも語りだした。
話が早い。これはいい怪談が聞けそうだと頬が緩む。
コホンと一つ咳払いし、運転手が話し出す。
ほら、きた。
怪談が始まる。
ある夏の夜のこと。
いつものように大阪の市街地で客待ちをしていると、若い女性が路肩に立ち手を上げている。
早速後部座席に乗せ、行き先を尋ねると「○○まで……」とうつむいたまま、消え入りそうな声で告げたという。
女性が告げた目的地は大型の墓地である。不安を覚えながらも車を発進させ目的地に向かう。沈黙の包む車内の空気に耐えられず、道中に何度か世間話を振ってみたのだが反応がない。しばらくして目的地に到着し車を停めバックミラーを確認すると、確かに乗せたはずの女性の姿は無く、シートだけがぐっしょりと濡れていたのだという――。
「……」
「……」
――。
待て。
待ておっさん。
確かに怪談ではある。怪談ではあるのだが、何度も聞いたことがある古典怪談だ。古典の中の古典。あんたはこれをとっておきの怪談だと言ったのか?時代は令和である。
言いたいことは山のようにあるが、ひとまずおっさんの言い訳を聞こう。前回とは違うかもしれない。話はそれからだ。
「あの……それで他には」
「ないよ!どやった?」
危うくしばくぞと口に出してしまいそうになった。しかし駄目だ。おっさんだって僕を喜ばせようと話してくれたのだ。善意なのだこれは。
ただこちらが勝手に期待しただけで向こうに一切の非はない。それでもどうしようもない肩透かしを食らった僕は、狭い車内の天井を仰ぎ呟く。
「……いや、めっちゃこわいすね……それ」
怪談蒐集とは、かくも難しいことだっただろうか。
日々Youtubeやらイベントやらで怪談を享受できる環境に甘んじ、摂取し、暴食する現代人は本来怪談が口伝によって拡がりを見せてきた裏で、時代の移り変わり、その狭間に消えていった怪談も多くあることを忘れているのではないだろうか?
この運転手の語った都市伝説的怪談の初出は1969年(昭和44年)発祥場所は京都である。
京大病院前で女性を乗せたタクシーが、目的地だと告げられた場所、深泥池に着くと女性の姿は消えていた。なぜかバックシートはぐっしょりと――。
そんな内容だったと記憶している。最古のタクシー怪談。
運転手はこの怪談を自身の体験談として乗客らに披露していたのだろう。令和を走るタクシーという密室の中で、時代に取り残されアップデートされないままの怪談話。それがまるでつい先日、あたかも運転手の身に起こったことのように、鮮度の高い体験談として語られていたのだ。
そんなことを窓の外を見ながら、ぼんやり考えているとあることに気づく。
ここどこ?
窓の外が異様に暗い。さっきまでは国道を走っていたはず。けれど今は真っ暗な信号もない広い道を走っている。自宅へは国道を走り続けるルートしかない。けれど外には見たことのない大きな建物がいくつも並んでいる。真っ暗な工場地帯。
さっきまでにこやかだった運転手は黙ったまま前方を睨みハンドルを握っている。
ときおり小さな舌打ちが聞こえるのは僕の聞き違いではないはずだ。
急速に車内の空気が張り詰めたものに変わる。
「あの……ここ、どこですか?」
「……」
回答がない。黙り込んだ運転手に対して小さな不安が恐怖に変わっていく。嫌な汗がにじむ。もしかして。
――殺されるかもしれない。
不穏な想像が浮かぶ。工場地帯で三十代の男性が刺殺。遺体は海へ遺棄。犯人はタクシードライバー。そういえばこの運転手、俳優のでんでんに似てる。
冷たい熱帯魚。脳内で上映ブザーが鳴った。
いよいよ灯りが無くなり、真っ暗な映画館、いや波止場のような場所で唐突にタクシーが停まる。運転手が後部座席を振り返り、
「すんません。迷いました」
ホンマにしばくぞ。
死ぬかと思った。殺られると思ったわ。迷ったなら先に言えや。しばくぞ。
ありとあらゆる罵詈雑言を心の中で唱えながらも、感情が変にこじれた僕は、あぁ……そうすか……と微妙な返事しか出来なかった。
そこから結局、元の国道まで戻り四十分以上かけて自宅へ到着した。
僕の座っていた後部座席は緊張の汗で、タクシー怪談のようにぐっしょりと濡れていたが、特に触れず車外に出た僕は前回よりもひときわ大きなため息をつく。
そのまま暗闇に消えていくおっさんとタクシーの背中を黙って見送るのだった。
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