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セカイ系の想像力とその外側:Life is Strangeについて

※本稿では議論の都合上「Life is Strange」の全面的なネタバレをします。未プレイでネタバレが嫌いな方は是非ともプレイをしてから読んでいただきたいです。しかしこのゲームの面白さはストーリーだけではないので、気にされない方は読んでから是非プレイしていただきたいです。
※なお本論の理解を補助するために、「Life is Strange」本編からスクリーンショットを引用させていだだきました。

はじめに

 2019年に公開された新海誠の「天気の子」が「セカイ系に対する一つの新しい(or最終的な)回答だ」という言説を耳にしたことがある。あいにく私は「天気の子」を見ていないのでなんとも言いかねるが、つまりこういうことらしい。大抵のセカイ系においては、世界を守る使命を帯びた「キミ」がいて、世界を守って「キミ」が犠牲になるか、世界を犠牲にしてでも「キミ」を守るかという選択を迫られた時、主人公は無力で「キミ」は世界を守って死んでしまう。しかし「天気の子」においては、主人公は世界を犠牲にしてでも「キミ」を選び、実際に世界は破壊されてしまう、という点が新しいのだ。
 しかし私はこれによく似た構造の話をそれ以前に目にしたことがある。それが2015年に発売された「ライフイズストレンジ 」だ。「ライフイズストレンジ」においては時間を巻き戻せる能力を手に入れた主人公マックスが親友クロエを救うために何度と時間を戻して奔走するが、そのバタフライエフェクトによってまちを破壊するハリケーンを引き起こしてしまう。そこでマックスは最終的に、物語の最初にまで時間を巻き戻しクロエ を見殺しにすることでハリケーンが襲う未来を変えるか、まちを見捨ててでもクロエと共に生きていくか、選択を迫られるのだ。そしてこの後者の選択肢は非常に「天気の子」に似た結末なのではないか?
 だから「ライフイズストレンジ 」はセカイ系の新しい回答を「天気の子」より早く出していてすごい!という話ではない。「天気の子」も後者の選択肢も、結局はセカイ系の枠内で可能な結論の演算でしかない。むしろ私は、一見するとこれまでのセカイ系の焼き増しに過ぎないとも思われよう前者の選択肢にこそ注目する。そこにこそ真にセカイ系を、オタクの想像力(秘匿された権威主義)を乗り越える可能性があるのだ。

あらすじ

 まずはライフイズストレンジあらすじについて、簡単にまとめておきたい。

 内向的でオタク少女であるマクシーン・コールフィールドは、憧れの写真家であるマーク・ジェファソンが教鞭をとるプラックウェル・アカデミーに通うために、両親のいるシアトルを離れ、故郷であるオレゴン州アルカディア・ベイに戻ってきていた。ある日マックスは授業中に大嵐に襲われる夢を見た。その授業の後、コンテスト課題の提出を催促されるが自信のないマックスは提出できず、写真を破り捨ててしまう。気分をシャキッとさせるために女子トイレで顔を洗っていると、そこにアルカディア・ベイ一番の名家の子息ネイサン・プレスコットとブルーの髪の少女が入ってきて、口論の末に少女をネイサンが撃ち殺すところを目撃してしまう。気がつくとマックスはその前の授業の教室におり、自分が時間を巻き戻す能力を手に入れたことに気がついた。授業後すぐに女子トイレに向かい、警報ベルを鳴らしてブルー髪の女の子を救ったマックスは、その少女がかつての親友クロエ・プライスであることに気がつく。

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クロエは実の父ウィリアムを交通事故で亡くし、親友のマックスもいなくなり、それに加えて実母ジョイスが再婚した退役軍人でブラックウェルの警備員をしている権威主義的なデイビッド・マドセンとの不和により自暴自棄になっていた。そんな時彼女を救ったレイチェル・アンバーが半年前に行方不明になり、クロエはレイチェルを探しているのだという。マックスとクロエは幼い頃よく行った町外れの灯台に行くと、そこが夢で見た嵐の現場であり、マックスは4日後にアルカディア・ベイを嵐が襲うことに気がついた。クロエに嵐のことや能力のことを打ち明けると、初めは信じなかったものの、季節外れの雪が降り出すとマックスの話を真剣に聞くようになり、レイチェルの失踪の謎を二人で解き明かそうと決意する。

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 次の日また新しい事件が起こる。マックスのクラスメイトであるケイト・マーシュは、ネイサンが主催するボルテックス・クラブのパーティに参加した日に次々に男にキスをしてまわった動画を拡散され、スクールカーストの頂点にいるヴィクトリア・チェイスらにいじめられていた。マックスが話を聞くと、その日はワインをほんの一口飲んだだけで、酔っぱらったはずはないという。突然意識が朦朧として、介抱するといったネイサンに真っ白い部屋に連れて行かれたとも。ネイサンに薬を盛られたことを疑うが、プレスコット家のことになると警察も当てにできず、マックスとクロエは自分たちでその証拠を集めようとする。
 かねてから生徒たちの薬物使用を疑っていたデイビッドの集めていた情報や薬の売人であるフランク・バウワーの販売履歴、ネイサンの携帯などの調査を進めていくと薬の取引現場としてプレスコット家の所有する納屋が浮かび上がってきた。そこを調査すると、地下シェルターが発見され、そこは写真撮影用のスタジオ(暗室)があり、数々の女子生徒を撮影した写真がファイルに保存されていた。そこにはケイトやレイチェルのファイルもあり、レイチェルのファイルの中にはゴミ置き場の中に埋められたレイチェルを写した写真もあった。すぐにそこに向かうと二人はレイチェルの無残な遺体の姿を発見するのだった。
 その夜ボルテックス・クラブのパーティーが開かれていた。主催者であるネイサンは必ず参加すると踏んだマックスとクロエはパーティーに乗り込んだがネイサンは見当たらない。するとネイサンから「証拠は全て消す」というメールがきて、二人はレイチェルの遺体のあるゴミ置き場に向かった。レイチェルの無事を確認して安堵するが、マックスは後ろからクスリを注射され動けなくなり、クロエは頭を撃ち抜かれて殺されてしまう。そこに立っていた真の黒幕はマーク・ジェファソンだった。ジェファソンはネイサンを使ってクスリと暗室を手に入れ、そこで意識の朦朧とした少女の写真を撮っていたのだ。

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マックスを暗室の中に閉じ込めたジェファソンは、マックスを始末する前に最後のフォトセッションをすることにした。写真からそれを撮った時に戻る力を使ってなんとか抜け出し、コンテストで優勝しサンフランシスコに行く未来を勝ち取るものの、クロエのいるアルカディア・ベイが嵐に襲われる未来は変えられず、マックスは時を戻り、またジェファソンに捕らえられる時間などを経ながら、とうとうクロエと二人で嵐の進路の外にある灯台へと逃れる未来を手に入れる。しかし同時に、この嵐は何度も何度も時間を巻き戻してきたマックス自身が引き起こしたものだということに気がついてしまう。そんなマックスにクロエは語りかける。

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マックスは…これまでにあたしを、何度も救ってくれた。こんな身勝手な人間をさ。ママだって、あたしのためにたくさんのものを犠牲にしてくれた。なのにこの嵐で死んじゃうなんて…。クソオヤ…デイビッドも、ママが死んだらすげえ悲しむよ。この町にはあたしより生きる価値のある人がたくさんいるんだ…。…(中略)…マックスはきっと、避けられない運命を遅らせてただけなんだ。あたしが何度も死んだり、死にかけたりしたのも、町がおかしくなったのも、マックスがあたしを女子トイレで助けたから。そろそろ自分の…、あたしたちの運命を受け入れるべきなんだよ…。

そうしてクロエはマックスに、クロエが最初にネイサンに殺される直前に撮っていた青い蝶の写真を差し出す。①その写真の時点にまで戻って時間を巻き戻す能力を使わずにクロエを見殺しにし、アルカディア・ベイを嵐から救うか、②その写真を破り捨て、灯台で2人、嵐によって破壊されるアルカディア・ベイを見守るか。その二つの選択をプレイヤーは迫られるのだ。

 少々長くなったが、これがライフイズストレンジのあらすじである。こうして大枠だけを取り出してみてみるとライフイズストレンジは、「キミとボク」+「世界の危機」という、まさに典型的なセカイ系の作品だといえよう。しかしセカイ系と言われてもピンとこない読者もいようから、その用語と背景にある認識についても確認しておこう。

オタクの想像力

 こうして大枠だけを取り出してみてみるとライフイズストレンジは、典型的なセカイ系の作品のように思える。しかしセカイ系の議論をしっかりと見ていくとセカイ系とは少し異質な要素を持っているのもまた事実だ。このようにさも当然にセカイ系という言葉を使っているが、セカイ系と言われてもピンとこない読者もいようから、その用語と背景にある認識についても確認しておこう。 

 セカイ系とはなにか、明確に定義が決まっているわけではないが東浩紀の簡潔な定義を引用すると次のようなものである。

主人公と恋愛相手の小さく感情的な人間関係(「きみとぼく」)を、社会や国家のような中間項の描写を挟むことなく、「世界の危機」「この世の終わり」と言った大きな存在論的な問題に直結させる想像力(東浩紀『ゲーム的リアリズムの誕生』)

東はこうしたセカイ系の例として高橋しんの漫画『最終兵器彼女』や新海誠の『ほしのこえ』、谷川流の『涼宮ハルヒの憂鬱』などを挙げている。東はこの想像力が言葉の「半透明性」、すなわち記号的でもあり身体的でもある表現に支えられており、「前近代の語りとも近代の言文一致体とも異なった、ポストモダンのハイブリットな文体によって可能になっている」というふうに論じている。

 しかし作品内世界と作品外世界別という二重の視点で見る東の議論とは別の切り口から見てみれば、これはごく近代的な想像力なのだというふうにも思われるのだ。それはどういうことなのか。以前の記事でも論じたことがあるが、デカルトのコギトやカントの認識論のコペルニクス的転回からもわかるように、近代という時代は主体の側から世界を基礎づける時代である。つまり主体が認識した世界がその世界の正しい在り方とされるのである。とはいえ我々は世界を間違って認識していることは往々にしてあるのだから、絶えず主体の認識する世界は批判にさらされ、絶えず修正される。しかしフランクフルト学派のアドルノの議論を見ていくとそうした啓蒙的な認識は気づけば絶対的なものとして物象化し、自己反省を失し、それにそぐわないものを排するようになってしまう。アドルノは近代的な理性が自己批判をしなくなってしまったがためにアウシュヴィッツを産んでしまったと論じているのだ。

 こうした物象化の議論はセカイ系の、オタクの想像力にも当てはまるのではないか。少なくとも作品内世界だけで見ていけば、セカイ系の作品は主人公(と彼/彼女の恋愛相手)の想像的世界が、そのまま「世界の危機」と繋がっていく。すなわち主人公という主体の意識が、社会という中間項を通した自己反省なしに、世界そのものの認識に反映されるという想像のもとにセカイ系は成り立っているのである。

世界の豊かさの発見

 しかしライフイズストレンジはこの点が少し違う。大筋のプロットだけを抜き出せばたしかに主人公マックスとその親友クロエ(「ぼくときみ」)、そして「世界の危機」というセカイ系の特徴を見て取れるが、この作品には嫌というほど中間項、すなわち彼女らを取り巻く社会環境が差し込まれているのである。

 第一に挙げるべきなのは登場人物たちだ。ライフイズストレンジでは極めて細かく登場人物が描かれている。それはクロエの義父のデイビッドやネイサンのように、マックスやクロエの人物像を深堀するためでもストーリー上の必要からでもない。学校のチアリーダーのデーナとジャーナリスト志望のジュリエットとのやり取りなど、ストーリーの本筋とは全く関係がないにもかかわらずストーリーの中に組み込まれている。またストーリーには関係なく毎日ボールやトイレットペーパーをぶつけられてしまういじめられっ子(?)のアリッサを助けたりストーリー上重要な役割を果たすマックスのことが好きなSFオタクの男の子ウォーレン・グラハムに片思いをするドローン少女ブルック、スピリチュアルで意味深長なことを話す学校の用務員サミュエルなど話しかけなければかかわらないでもいいキャラクターであってもかなりのデティールで描かれている。さらにそうした名前を与えられ抵ないキャラクターでも、町の漁師であったり、トラックの運転手であったり、さらにはホームレスの女性にまで話しかけることができる。このようにたんに主人公という主体の内部だけではなく、外部の人々までが詳細に描き込まれているのである。

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 第二にそうした様々な人物やアルカディア・ベイという世界そのものを深く描き出す小道具が多く散りばめられている。たとえばデーナの部屋にはローガンからの手紙と妊娠検査キットを発見することができる。そこからデーナと話していくとローガンとのセックスで妊娠してしまったデーナが、子を堕ろし、彼女のことを大切にしてくれなかったローガンと別れたというストーリーが浮かび上がってくる。またゴミ置き場にあるクロエとレイチェルの秘密基地の片隅に、失踪前のレイチェルがクロエにあてた手紙を見つけることもできる。これは非常に見つけづらく配置されており、この手紙はほとんどのプレイヤーには届かない。また同じゴミ置き場には使われた注射器があり、薬物を巡るストーリーの展開を暗示しているが、けして必ずプレイヤーが見るように設計されているわけではない。手紙も妊娠検査キットも注射器も主体(プレイヤー=主人公)が見つけなくても作品世界に存在するのであり、それは主体の外側にあるのだ。

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 第三にこのゲームでは人物が重層的に描かれていることだ。それは一連の事件の真相を解き明かすミステリーとしての作品の根幹にもかかわることではあるが、人物が単に善人であったり単に悪人であったりというふうには描かれていない。たとえばまじめで勉強熱心なステラというキャラクターは、売人のフランクの取引の記録の中に見つかり薬物の売買を行ってることがわかる。また終始主人公に協力的なウォーレンも、プールの男子更衣室に入った際彼のロッカーからマックスの写真を合成したツーショット写真が見つかるなどストーカー気質なのがうかがえる。そしてさらに時間を巻き戻すというゲームシステムも関りさらに人物描写は複雑になる。たとえばフランクはストーリー上クロエから売った薬物の代金を取り立てようとする嫌なキャラクターだが、選択肢次第ではレイチェルのことや飼い犬のポンピドゥーのことを思いやる優しい一面も垣間見える。しかしよほど熱心なプレイヤーでなければすべての選択肢を試そうとは思わないだろう。また以前に選んだ選択肢の結果見ることができないキャラクターの一面などもある。このようにゲームの中で提示されているキャラクターの重層性・全体像を把握することすら困難なのだ。

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 このようにライフイズストレンジでは、様々に主体の外部が描かれることによって、単なる内面世界ではない豊かな、生き生きとしたものとしてアルカディア・ベイが描き出されるのである。

主体の変容

 このように様々な外部性を、プレイヤーはある程度見つつ、ある程度見逃しつつゲームを進めていく。全く主体の外部と出会わないことは不可能だ。そんな中で、主体(主人公)は少しずつ変化を遂げていく。はじめマックスは内向的な周囲の人間関係に億劫で、自撮り(Selfy)が好きな女の子だったのだ。こうした内向性は冒頭のクラスメイト達のひしめく廊下をイヤホンで耳をふさいで歩くシーンやコンテスト提出のために撮った写真が自分のとった自撮りを背景に自分の姿を写した写真であることからも想像できよう。

しかし時間を巻き戻す力を手に入れると、マックスはクラスメイトたちを能力を使って積極的に助けようとするようになる。先述したデーナとジュリエットのいざこざに介入し解決に導いたり、何度もひどい目に合うアリッサに警告して助けたり、さらにはいずれ時間を巻き戻すから助けずともその時間軸は取り消されるにもかかわらず、嵐によってがれきの下敷きになった人たちを救出したりと積極的に他者を手助けするようになる。ジェファソンはそんなマックスを「ここ数日の間に、君は内気な少女からヒーローへ変貌した」と評している。こうしてマックスの自我は外部に対して開かれるようになるのだ。

 マックス自身もこうした変化には自覚的だった。マックスは物語終盤に能力の使い過ぎで倒れ悪夢を見る。悪夢の中ではマックスは何度もこれまでやってきたことを否定される。命を救った女の子からは「どうして死なせてくれなかったの?」「結局私を一人にしたのは…マックス、あなたよ。」と責められ、彼女は自ら命を絶ってしまう。暗室ではジェファソンやネイサン、ヴィクトリアのみならず、親しかったウォーレンやクロエからも否定される。そして最後にたどり着いたのはマックスとかかわった人たちが集まるダイナーだった。人々はみな「死にたくない」「殺さないで」とつぶやく。そしてダイナーの座席の一つにはもうひとりのマックスが座っていた。

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マックスが「みんなの力になりたかっただけなのに…」というと、もう一人のマックスは「人気者になりたかっただけでしょ?すごい力を使えるようになったのをいいことに、親切なふりしてみんなに取り入ってさ…」「当たり障りのないことを言って、ご機嫌とって?自力で友達をつくれないから、力に頼ったんだ。」「どんなに取り繕っても、あなたは偽善者だよ。あなたの行動がたくさんの苦しみと死を生み出した…」というふうにマックスのそれまでの行動を全面的にエゴだと否定する。つまりマックスはこの悪夢の中で、自分がやってきたことは自分のエゴによる世界の改編であり、それが嵐を招き、自分の外側を生きる他者たちを破壊してしまうのではないか、とトラウマチックに自己反省をしているのである。

 そしておそらくはマックスに同一化した主体(プレイヤー)も変化を遂げる。プレイヤーはマックスとともに、マックスの眼を通して作品世界を体験し、いつしか作品に住まう人々やその世界そのものがいとおしくなっているはずだ。彼らはストーリー上の都合で一定の役割を与えられた記号としてのキャラクターではない。プレイヤーはそこに様々なバックボーンを読み取り、プレイヤーにとって彼らは生き生きとした身体的な存在として現前してくるだろう。

 そうであるからこそ、プレイヤーにとってもマックスにとっても最後の選択肢は極めて重要な意味を持ってくるのだ。

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「クロエを犠牲にする」か「アルカディア・ベイを犠牲にする」か。従来のセカイ系であればこの選択肢はあってなきようなものだった。なぜならば主人公は無力であり、「キミ」は世界を守るため犠牲になるほかなかったからだ。しかしマックスは違う。マックスはその二つをどちらも選択することができる力を有している。そしてこの後者を選択するのが、「天気の子」の選択だった。たしかにこの選択は従来のセカイ系からすれば画期的な選択ではあっただろう。しかしこれまでの議論をふまえれば、その選択は自分の内面世界を生き続けることの選択であり、本当の意味でセカイ系を刷新するような意義は持っていない。本当に画期的であったのは、前者の選択肢だったのだ。主人公は物語を通して町を生きる人々と、つまり自我の外部と交流をし続けてきた。だからこそアルカディア・ベイ(世界)は抽象的な観念ではなく、その危機は具体的な人々の死と結びつけられる。そんなマックス(=プレイヤー)が「クロエを犠牲にする」選択を選ぶということは、自分の内面世界(=能力で思いのままになる世界)に生きることを放棄し、その外部にある現実世界で生きるという選択に他ならない。ここにこそセカイ系というジャンルののりこえを見るべきなのである。

おわりに

 わたしは本稿でセカイ系とその想像力をのりこえ外部の現実で生きる選択をするという視点でライフイズストレンジを語ってきた。しかしだからといって「クロエを犠牲にする」選択が絶対的だとは思わない。実際私自身もはじめは「アルカディア・ベイを犠牲にする」選択を選び、それがしっくりいっていた。作品をプレイしているとアルカディア・ベイを生きる人々と同じように、マックスの内面世界が必死に救おうとしていた親友クロエも、プレイヤーにとっては生き生きとした存在として立ち現れてくるはずだ。彼女を犠牲にすると言う選択をするのも容易ではない。そうであるならば、本論では「アルカディア・ベイを犠牲にする」=内面世界を生きる選択と単純化していたがそうとも言い切れないかもしれない。重要なのは主体(マックス=プレイヤー)がアルカディア・ベイを生きる人々もクロエも単なる記号としてではなく身体的な存在として感受し、そのうえでどちらを選ぶか真剣に悩んで選択することなのかもしれない。

リンク

〇ライフイズストレンジ

紹介した作品。

〇ライフイズストレンジ:ビフォアザストーム

紹介した作品の前日譚。マックスの親友クロエが主人公。実の父ウィリアムを失い自暴自棄になったクロエと、本編では行方不明になっていたレイチェルと出会い、交流を深めていく様子が描かれている。

〇ライフイズストレンジ2

シリーズ第三作。一作目とは超能力もの、選択によってストーリーが変わるというシステムの共通点はあるもののかなり毛色が違う、政治的な作品。メキシコ移民二世の兄弟が、居場所のない人たちと交流しながら、自分たちの居場所を探し求める物語。

また今年2021年9月には、シリーズ第四作「ライフイズストレンジ:トゥルーカラーズ」が配信開始予定。

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