8/32+5
本当は9/1に、8/32というタイトルで何かを書いて投稿しようと思った。ありがちな、夏への恋しさ、不足感と来る秋への期待、拒絶が入り混じったエモーショナルなテキストを書こうと思った。自己満足でよかった。この世に自己満足じゃない創作物など存在しない。
気がつくと、もう8月だと言い張るには遅すぎる段階まで来てしまっている。でも何かを始めるのにあたって、一番早いのは今である、という信念のもと後回し癖を正当化して、これを書いている。
タイトルに遺書と書く。最近は疲れることが多かった。人生全体を振り返ると、常に辛いことや嫌なことが増え続けていて、人生満足度は下降の一途を辿っているように思う。伝統的な日系企業で、管理職くらいまで昇進すると、増える給料に対して増える責任や業務の方が多いせいで、割に合わないのと似ている。
それなら今くらいで幕を閉じる方が幸福度の観点からすると良いのではないかと悪魔が囁く。それはあるいは天使なのかもしれない。世論は、生きてりゃ良いことがあるかもしれないよと反論する。私は、そんな不確定にベットできないと再反論する。結局この議論は死ぬまで答えが出ることはなく、最期の瞬間にオチが明かされる。そういうクソゲーを私たちはプレイすることを強いられている。
私含め、死にたいという感情を持ったことのある人の大多数は、良く生きたいが本音である。
生きることで生じるマイナスを、生きててよかったと思えるプラスな瞬間ではカバーしきれず、プラスを増やすのではなくマイナスをなくすという根幹療法のような考えで、死んだ方がマシだと結論付けてしまう価値観が、だんだんと若者の間で特に流行している。
そこまで極端でなくとも、中国で寝そべり族という、お金を使わない生活だから稼ぐ必要もない、辛いことをするくらいなら生活が貧しい方がマシ、という思想のもと日々寝そべっている層が一定存在しているわけで、AIが少しずつ仕事を奪ってくれているのも相まって、苦痛のリターンとしての金銭や利便性を得るというこれまでのモデルは瓦解していくのかもしれない。と言いつつ、社会の仕組みはそう簡単に変化しないので、きっと感じ取れないくらい緩やかな曲線を描くだろう。
話を戻すと、誰しも良く生きたいという欲求を満たせれば、別に生き続けることに不満を持つ人はあまりいないわけである。
では、どうすれば良く生きられるのか。
ここで私が何か突飛な施策を提案し、それを読者が実践することで良く生きられるようになりました!となれば、それほど素晴らしいことはないが、そんなことは現実的にあり得ない。
ひとつだけ言えることは、良く生きるだとか幸せだとか辛いだとか苦しいだとか生きたいだとか死にたいだとか、これらは全部主観的な思い込みに過ぎない、つまり解釈次第で変えていくことが可能だということである。精神論のようだし、つまらない説教じみた話になってしまうが、死ぬ時に自分の人生を評価できるのは自分だけである。他の人がどれだけあなたの人生を称賛しても酷評しても、死ぬ瞬間に生きててよかったなと思えるかどうかが全てなのである。
もちろん社会的な評価であったり地位名誉その他諸々の価値を全て否定するわけではないが、それらはあくまで枝葉の論点であり、幹となるのは自分がどう思うか、つまり主観的な評価である。
ただ、自己評価が難しくて病んでる人の方が多い。そういう人は、毎日よかったと思えることを3つメモ帳に書くという習慣を続けると、強制的にポジティブな振り返りができて良い。寝る前にやると少しはマシな気持ちで眠りにつけるため、なお良い。
ちなみに私は数ヶ月前からサボっている。
まだ書き足りないことばかりだが、すでに長文になってしまったので、続きはまたいつか書く。夏の終わりって本当に寂しくて、夕方になるとしんみりしちゃうけど、どうせそんなこと考えているうちにコートがないと外を歩けない季節になり、冷房ではなく暖房をつけるようになるので、少しだけ感傷に浸って季節の変わり目を実感して生きよう。気候変動が凄まじいので、もしかすると四季が過去のものになってしまうかもしれない。そしたら今夏とか秋とか言ってられる私たちは、四季目撃の最後の世代となるかもしれない、なんて思いながら葉が赤く染まるのを待ちましょう。
ここまで書いて、日付を確認すると9/6になっていた。8/37である。締切がシビアな編集と仕事はできないなと再認識する夏だった。遺書というタイトルで何かを書くには、まだ経験も思想も語彙も何もかも至っていない気がして、タイトルだけの下書きを残すことにした。
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