雪山

文筆家。大学生。

雪山

文筆家。大学生。

最近の記事

毎日降っても雪が好き

珍しく大雪で、東京は見慣れない白銀に包まれていた。一歩踏み込むと、思っていたよりも沈み込み、その柔らかさに儚さを覚えた。雪国ではないこの街では、そう長くは生きられない運命にある雪が、少しでもその高潔さを保てるようなるべく誰かの足跡を辿るような形でぎごちなく歩く。 雪が好き。白さも甘さも柔らかさも好き。雪の季節というだけで、四季最強は冬だと断言できるほど好き。 だから雪国に生まれたかったけど、きっと毎日雪のある生活では雪の価値は雨と変わらないものだったろうから、数年に一度出

    • 幸せになりたい楽して生きていたい

      人間は矛盾の生き物だ。欲望と理想のトレードオフの間で決めあぐねては、振り子のようにゆらゆら揺れ動く。楽をしたいけどお金を稼ぎたいし、勉強はしたくないけどテストで悪い点を取るのは嫌で、甘いものをたくさん食べたいけれど、肌荒れはご遠慮したい。 何かに縋ってなきゃ不安になる弱さと、何かに体重を全部かけることのできない弱さは弱さであることには変わりないけれど、両者は質的に異なる。 自分は騙されないと思っている人ほど、不信感を常に抱いて生きているような人ほど、どこかで心底信用してい

      • 愛されていいのは自分を愛する覚悟がある奴だけだ。

        久しぶりにmpを使い果たした。満身創痍で湯船に入ると、もはや抜け出す力もなく2時間以上沈み続けた。体温よりも高かったお湯がほとんど水風呂になって、流石に寒さが限界を迎えて脱出する。せっかく高めた深部体温は、もう冷め切ってしまった。 気絶しそうなほどの眠気もどこかへ霧散して、倒れそうなほどの疲労感だけが残っている。疲れているのに眠れない時が一番苦しい。そもそも眠るのにも体力がいるという話をこういう時に限って思い出してしまう。 諦めて部屋を少し暗くして天井を眺める。視界が滲む

        • ツイ廃メンヘラ仏

          「知らない方が幸せだった」という言葉の重みについて考えていた。「知る」は不可逆であり、知った後に知らなかった状態に戻ることはできない。忘れることはあっても、知らなかった状態とは定性的な違いがあるため、やはり知ってしまうことは恐ろしい。 例えば、感動的な良い映画を見た時に、読もうと楽しみにしていたミステリー小説の結末を知ってしまった時に、仲が良いと思っていた友人が陰で自分の悪口を言っていたことを知ってしまった時に、人は知らない方が幸せだったと切に思う。 能動的な行動の結果、

        毎日降っても雪が好き

          不幸論

          いつかいなくなるくらいなら最初からいない方がよかった。壊れるものなんて最初から作らない方がいい。一瞬の幸せのために、その何倍もの時間切なさを抱えて眠る夜を越えなければならないのなら、ずっと薄っすら満たされない想いのまま退屈な日々を過ごせばよかった。嫌いになられるくらいなら好きになられたくなかった。 幸福を論じるのは難しいけれど、不幸を論じるのは比較的容易だ。みんなが好きなものを挙げるより、みんなが嫌いなものを挙げる方が簡単そうな気がする、それと同じでネガティヴなものへの感覚

          「明日」は当たり前ではない

          特別「死」が身近にあったわけではないが、生活が理科に変わる頃には、死は当然にいつ訪れてもおかしくないものであり、いつか死ぬならそれをあえて悲しむ必要も逃げる必要もないと思っていた。 ◻︎ 「今日を死ぬ気で生きろ」 「明日死んでもいいような一日にしろ」 のような言葉はもはや使い古された、陳腐な表現へと成り下がってしまった。 しかし、このようなどこか刹那的な生き方を望む人は多くいると思う。 類似表現である、「失ってから初めてその大切さに気づいた」という妄言は、ある種のエモさ

          「明日」は当たり前ではない

          687円の幸せ

          週5で働くようになって、改めて2日の休暇で5日分の労働による疲労を回復するのは無理があると確信した。 平日にできないことを休日にはしたい。 例えば部屋の片付け、洗濯、買い物。一人暮らしをしていると、日常生活を円滑に回すことすらままならない。毎日朝から満員電車に揺られ、高ストレスな環境でブルーライトを浴びせられ続け、帰る頃にはスーパーが閉まっている時間で、食欲もなくゼリーを飲んでシャワーを浴びて、睡眠薬を飲んで寝る日々。 土日はせめて人間らしい生活がしたいと思って、金曜日の

          687円の幸せ

          8/32+5

           本当は9/1に、8/32というタイトルで何かを書いて投稿しようと思った。ありがちな、夏への恋しさ、不足感と来る秋への期待、拒絶が入り混じったエモーショナルなテキストを書こうと思った。自己満足でよかった。この世に自己満足じゃない創作物など存在しない。  気がつくと、もう8月だと言い張るには遅すぎる段階まで来てしまっている。でも何かを始めるのにあたって、一番早いのは今である、という信念のもと後回し癖を正当化して、これを書いている。  タイトルに遺書と書く。最近は疲れることが多か

          駅を出ると、電車に乗っている間は聞こえなかった蝉の鳴き声がイヤホンを貫通してきた。蝉の鳴き声は、毎年いつの間にか聞こえ出していて、それを認識するのはいつも8月の頭くらいだった。7月くらいにはおそらく鳴いているんだろうけど、自分の中で蝉は8月の生き物だと定義されている。 音は往々にして記憶をリフレインさせる働きを持つ。例えば小さい頃、車で親が流していた音楽を何かの拍子に聴くと、車に乗っている時の感覚が返ってくる感覚を味わえる。硬かった座席や、乗り物酔いを誘発する車内の独特の香

          終わりなき散歩

          このまま歩き続けて、知らないどこかに行ったらどうなるのか、散歩中の脳は無意味な思考シミュレーションで埋め尽くされる。 心配する人はいるのだろうか、でもきっとその心配は私という個人、つまり1人の人間としての自分に対して向けられたものではなく、あくまで駒としての会社の備品としての打算的な心配でしかない。 そしてその心配ですら、代えのきく新品の歯車が一個なくなった程度の認識でしかなく、すぐに風化する。そして私のいた場所な誰かの場所になって、会社も世界もそうやって異常などなかった

          終わりなき散歩

          逃げれば一つ、進めば二つ

          弱いことは、悪いことではない。 強いことは、必ずしも良いとは限らない。 「この世の不利益はすべて当人の努力不足」 自己責任論は楽で、心地良くて、そして破滅へと至る理論である。自責論も他責論も、真逆のようでその本質は思考停止であり、向き合うことを拒絶していることにかわりない。物事はもっと複雑で、自分のせいであることと、誰かのせいであることと、誰のせいでもないこととが混ざり合っていて、決して何か一つにその責任の所在を問うことはできない。 誰かのせいにすることはダメなことで、

          逃げれば一つ、進めば二つ

          カレーと愛と記憶

          キッチンから漂ってくる香りが大好きだった。 トントントンと軽やかに野菜がひとくちサイズに刻まれていく音、鼻腔をくすぐる油を纏った食材の放つ香り、帰宅後ではらぺこな私は、2階で宿題をしていても夕飯の完成が近づいていることに気がつく。 待ちきれずに1階に駆け降りて、母親に夕飯は何? と尋ねる。本当はもう何なのかわかっているのに、この会話をするのが好きで、もうすぐできそうだよね? とほぼ同じような意味で口にしていたと、今になって思う。 すぐに食べられるように、人数分の食器とお

          カレーと愛と記憶

          人生の価値、生きる意味。

          人間の、人生の価値は何で決まるのだろうとぼんやりと考えることがある。例えばお金をたくさん持っていることだろうか。あるいは地位や名誉を持つことだろうか。 確かなのはこの問い自体が間違っていることだけだ。答えの出ない問いは往々にして問いの立て方がおかしい。人間の価値など人間に推しはかれるはずもない。 これで終わりでもいいけれど、問いの立て方が間違っているからといって考えること自体が無駄ではないし、もう少しだけ考えたい。自分にとって「価値のある人生」あるいは「価値のある人間」は

          人生の価値、生きる意味。