うつ病の女子高生が望海風斗さんに人生を変えられた話。

私を突き動かすのはいつも、決まって望海風斗という男役だ。

確かな実力と豊かな表現力を持ち合わせながら、謙虚で努力家で慎重な性格の彼女。私とは正反対みたいな存在だ。


今から4年前、16歳だった私は生きるのを辞めたかった。幼いころから勉強ばかりしてきた私は物心ついたときには既に医学部志望で、地元で一番難関とされる高校の特進科に入学する優等生だった。

試験の点数と順位が人生のすべてで、食事中も睡眠中もどこかで成績のことを考えていた。そしてそれは私だけでなく、特進科のクラスメイトほとんどがそうだった。同じ土地で育ち、一定の学力で集まった学生というのは皆似たような生き方をしてきていて、だいたいは家庭環境が医学部志望にさせるのだ。

高校1年最初の進路希望調査になんの迷いもなく地元国立大医学部医学科と記入し提出。担任との個人面談で進路の話になったときのことだった、



「お前はなんで医者になりたいん?」

「なんで、ですかね。わからないです。」


自分でも自分の発言に驚いた。小学生のときも、中学生のときも”将来の夢”が議題の際には何度も答えてきたのに。


「人の役に立つ仕事がしたいからです。

命を助ける仕事を、尊敬しているからです。」


幼かった私が発した言葉。本心だった。お医者さんってなんて立派な仕事だろう。わたしも大きくなったらお医者さんになりたい。そのためにはいっぱい難しい勉強をしなきゃならないんだって。難しいあの中学に入って、あの高校に入って、医学部に入るためにがんばらなくちゃ。


いつからだろう、成績が手段ではなく目的になったのは。医者になって人を救いたいという願望よりも、次の考査で酷い順位を取らないことだけが最近の願いだった。

「もう一回お前が本当にしたいことは何か、考えてみたら?」

担任はそう言うけれど、やりたいことなんてない。医学部がだめなら歯学部?薬学部?思い切って文転して法学部とかならカッコいいかな。

考えれば考えるほど手段よりも目的が先に来る。どんどん自分が最低な人間に思えてくる。



高校には芸術の時間がある。音楽・美術・書道の中から私は音楽を選び、週に1回の授業を受けていた。学校にいながら、成績のことを考えなくていい音楽の時間は楽しかった。隣には私よりもいつも10くらい順位が上のクラスメイトが居るし、その隣には私と同じくらいの順位を彷徨っているクラスメイトが居るけれど、教室の電気が消されスクリーンに集中できる鑑賞の時間はそんなことを考えなくていい。鑑賞の時間が何より楽しみだった。


ある日音楽の授業で、ミュージカルのDVDを観た。衝撃だった。


ミュージカルの中の住人は、恋だったり家族だったり革命だったり、なんだか色んな現実らしきものに悩んでいるけど、全員歌って踊っている。

すごい装飾のついた洋服を着て、お人形みたいにお化粧して、

実にリアルに悩み、歌っている。


なんだこの世界。おもしろすぎる。美しすぎる。


みるみるうちに私はミュージカルに取り憑かれ、授業で観たものから派生して多くの作品を観た。作品に詳しくなり、役者にも演出家にも詳しくなった。有名なミュージカルナンバーを口ずさんで、ああなんて素晴らしい詞にここまでぴったりな旋律がついているんだろう、人類の叡智に万歳。などと毎日思ってはミュージカル界についてまた調べる。そんな日々を送った。


入口が東宝ミュージカルだったから、宝塚に詳しくなるのも時間の問題だった。出会いは確か『モーツァルト!』の香寿たつきさんだったと思う。組はいくつあるのか、トップスターとはいったい何なのか、宝塚歌劇のさまざまが興味深くて、魅力的で、これもまた驚くべき速さで沼に落ちていった。


当時は宝塚の歴史や独特な慣習、ほかのミュージカルとは違った演出方法に心が躍り、そういった視点で作品を観ていた。男役、娘役、スター制度、大階段、羽根、リーゼントに黒燕尾。非公式の会、入出、お茶会、フェアウェル。ファン文化も知れば知るほど興味深くて、初めての世界に迷い込んだまま抜け出せなかった。

東宝ミュージカルの『エリザベート』のDVDを先に観ていた私は、宝塚の『エリザベート』も観ようと考えた。曲も少し違うみたいだけど演出はどう違うんだろう。タイトルロールはエリザベートだけど、宝塚はトップ男役が中心、シシィはどんな扱いなんだろう。



長い宝塚の歴史の中で幾度も再演されてきた『エリザベート』。その中から私は、明日海りおさん現役で知ってるからとりあえずこれ観よう、と2014年花組版の『エリザベート』を選んだ。




全て観終わった、





その頃には






望海風斗のことしか考えられなくなっていた。




なんだあのルキーニ役の男役さんは!??いやまずかっこよすぎる。褐色に肌を塗って髭をつけてボーダーの服着て、なんであんなに美しく仕上がるんだ?それでいてしっかりルキーニとしてそこにいる、前に観た東宝版のルキーニより男臭い気がする。それから歌がうまい。なんであんな声を持ってるんだ。聴いたことがない声。演技の中の声色、息遣い、所作のひとつひとつが私の眼に圧倒的に映り、言葉で言い表せない衝撃を与えたのが望海風斗だった。


少し前、ツイッターで「推しとは探すものではなく、ある日突然花束を抱えて我々の前に現れるのだ。」(うろ覚えで申し訳ない)みたいなツイートを見た記憶があるのだが、まさにその通りで、花組『エリザベート』を観たあの日から私の人生は望海さん無しでは語れないものになったのだ。




ヅカオタとしての成長は順調そのものだったが、成績は右肩下がりだった。まったく勉強には身が入らず、宿題も試験もいいかげんにこなし、授業中も望海さん出演作品への考察を膨らませ、帰って深夜まで情報収集と作品鑑賞をする。そのまま寝落ちして朝を向かえ終わっていない宿題に少しだけ足掻いて仕上げられないまま登校する。

入学当初ずっと気にしていた順位は落ちに落ち、睡眠不足で自律神経が狂い体調は不安定に。学校を休みがちになった私はクラスで孤立した。


ミュージカルに没頭して宝塚に没頭して、現実を見ることを辞めてしまった私はもう成績について悩みたくなかったし特進科のクラスに用もなかった。


私は不登校になった。


私もミュージカルの世界の住人になりたい。そう思い始めたのはちょうどこの頃だったと思う。


前期学校に通っていたおかげでぎりぎり単位が取れ、不登校のまま高校2年生になった私は週に1度ほど気が向いた時に登校していた。


ある日のこと、2年生になったので改めて進路希望調査の紙を書かなければならなかった。私は当時数々のミュージカル俳優たちの出身大学や出身スクールの知識が頭に入っていたので、その中から考えた。

ミュージカル専攻の学科がある大学はどれも私立の音大で、うちの家庭ではとても払えない学費だ。専門学校や芸能スクール出身の役者さんも多いけれど、仮にも特進科に在籍し勉強が不得意ではなかった私にとって大学受験をしないという選択肢はあまり現実味がない。



芸大しかない。

国公立の芸大なら学費が他の大学と変わらないし、声楽科という歌の学科がある。芸大の声楽科を出ている役者さんたちは実力にも定評がある方ばかりだ。そうだ芸大に行こう。私はすぐに鉛筆を持った。


国公立の芸大は4つだ。観劇するにも、チャンスを掴むにも都会であればあるほどいいだろう。人も公演も刺激も都会が一番多い。田舎住みでめったに劇場に行けなかった私は東から順に4つの大学名を書いた。


第一志望 東京藝術大学

第二志望 愛知県立芸術大学

第三志望 京都市立芸術大学

第四志望 沖縄県立芸術大学




次の日、私は担任と副担任に呼ばれた。



「どういうつもりで書いた?本気か?」

「本気です。歌を、やりたいんです。」


担任は言った。

「わしは音楽のことはさっぱりわからんから何とも言えんわ。」

副担任は言った。

「センターや学科試験はどうにかなっても、音楽の実技みたいなものもあるでしょう?今からやったところで可能なの?」


ピアノや管楽器と違って声楽科は比較的皆スタートが遅いこと。変声や身体の成長で声ができてくるからそういう傾向にあること。ソルフェージュといって楽譜を読んで歌う試験や音の聴き取り試験があること。それが正直かなり難しそうで努力でどうにかなるかまだ未知数であること。ピアノの試験もあってどうやら課題曲のなかから一曲用意するらしいのでなんとかなりそうだということ。

すべてネット仕込みだったが自分の調べた知識を全部伝えた。担任も副担任もいまいちピンときていなかったのか反応は薄かったけれど、私は本気だった。


数日後、音楽の先生を訪ねた。私に初めてミュージカルを観せてくれた、そして私の人生を変えた先生。

ネットにはなかったたくさんの情報をくれ、私の志を応援してくれた。

音楽の道に反対気味だった私の両親とも話してくれ、声楽とソルフェージュ両方のレッスンをしてくれるという先生を紹介してくれた。



私は高校を休学し、レッスンにだけ通うようになった。

思っていたよりも音楽はかなり難しかった。どう声を出せば苦しくなく高い音を出せるのかわからなかったし、地声と裏声の変わり目をどうすれば滑らかに繋げられるのかわからなかった。そもそも自分の出している声は声楽的に正解なのか、頭声ってこれであってるの?視唱や聴音はおろか、ドレミファソラシドと歌うだけでピアノよりだいぶ低い音を出している。楽典の覚えが速かったのだけが唯一の救いで、あとはなかなか厳しい進捗だった。


高校に行かなくなり、レッスンに通い始めて数か月がたったころ、私はうつ病と診断された。レッスンにはなんとか行っていたけれどレッスン以外の外出はゼロ。ほとんど日光にあたらず家で歌の練習をしてソルフェージュの勉強をして、ミュージカルの映像を観てネットで情報収集して、寝て。

そんな生活はどう考えても身体に悪かった。


日々の楽しみだったミュージカル鑑賞がいつのまにかできなくなっていった。なんだか自分の生きる世界とかけ離れているさまを見ているようで、辛くなってしまう。

大好きだったはずのミュージカルナンバーすら聴くのもつらい。「この俳優さんはこんなに歌えて踊れてルックスも良くて、私とは正反対の世界に住んでるみたいだ。」鑑賞しても浮かんでくるのはそんな感情ばかり、作品の内容なんて入ってこなかった。


学校からも逃げ、音楽からも逃げた。

そんなレッテルを自分の中に貼り続け、自己嫌悪は日に日に増し、うつ病は深刻になっていった。


高2の夏、精神科病棟へ入院した。


ミュージカルという唯一の趣味も手に付かず最低限の食事や入浴と通院以外、自室で死んだように眠っていたから、生活リズムを取り戻すために入院が決まった。精神科病棟といっても、入院中もインターネットは使えたし親の同伴があれば院内を散歩できたから困ることはなかった。作業療法をしながら集中力を取り戻していき、描いた絵や作ったビーズストラップの出来を褒められたのが嬉しかった。

すぐに生活リズムは改善し、自分なりのペースで作業や趣味に手が付けられるようになった。入院は2か月ほどのことだった。


秋ごろ、退院し再びミュージカルを楽しめるまで回復した私はまたもや芸大受験を目論んでいた。

毎年地元の放送局が主催するカラオケオーディション番組があり、無駄に気が大きかった私は、何も考えずに応募した。


歌ったのは『モーツァルト!』の「ダンスはやめられない」。夫の奔放さや自身の生い立ちを嘆き、ダンスパーティーで快楽を満たす、モーツァルトの妻コンスタンツェが歌い上げる激しいナンバーだ。

当時17歳の女子高生(正確には辞めているのだが)が歌うにしては刺激的な歌詞なのだがそれが審査員ウケしたのかもしれない。何百回も聴きこんだおかげで一言一句に染み付いた芝居じみた声色も評価された。(ちなみにソニンVer.が好きで参考にしていた)1次予選、2次予選と通過しなんと130人あまりの参加者の中から10人のファイナリストに選ばれた。

グランプリは獲れなかったものの、ファイナリストにまで選ばれた事実は紛れもない自信になったし、もっと歌が上手くなりたい、芸大に行ってミュージカルの世界の住人になるんだと私に決意させた。


高2の年の冬、2017年12月1日

私が最も敬愛する表現者、望海風斗さんの大劇場お披露目公演『ひかりふる路~革命家、マクシミリアン・ロベスピエール~/SUPER VOYAGER!』を観劇した。DVD収録日だったから映像を観る度にあの日の感覚を思い出す。

兵庫へ向かう高速バスでの胸の高鳴り、阪急電車という空間の尊さ、歩くだけで高揚する花のみち、同じように雪組を観に来た人々と言葉を交わさずとも伝わりあうときめき、何度ピントを合わせてももう一度確認したくなるオペラグラス、緞帳の上がる音、客電が落ちる瞬間、影アナへの割れんばかりの拍手。


望海さんが歌い出した瞬間立った鳥肌。生きていて良かった、ミュージカルを、望海さんを好きになれてよかった。あの感動に勝る体験を私はこの人生で一度もしていない。


お芝居も、ショーも一瞬の出来事だったかのように過ぎていった。尊くて、儚い、夢のような時間、空間。ミュージカルって、舞台って、なんて素晴らしいんだろう。興奮状態で帰路の感情をあまり覚えていないのだが、私は歌いたくてたまらなかった。


直後に歌のレッスンを再開した。来年芸大を受ける、という意志を先生に伝え、また発声から向き合った。

やることは山積みだった。ソルフェージュ、楽典、ピアノに加え高卒認定試験とセンター試験対策。ほかの受験生が3年かけてやるようなことをもともと音楽の素養がほぼない私が1年でやるのははっきり言って無謀だ、あらかじめ歌の先生にも言われたが知ったことではなかった。とにかくやるしかなかった。


3月には全国ツアー公演『誠の群像』を、6月には『凱旋門』を観にそれぞれ劇場へ足を運んだ。あんなふうに歌えたら、舞台に立てたら。


望海さんの舞台姿が、私の人生の指針だった。




8月、高卒認定試験に合格。本格的に受験準備へ突入。志望校を絞り、副科ピアノの課題曲とスケールを練習開始。



10月、センター出願。高校生ではないので個人出願だった。



1月、センター受験。この頃、待望の『ファントム』をあきらめたのは今でも本当に後悔している。「推しは推せるときに推せ」とはよく言ったものだ。現役生にご贔屓がいらっしゃる皆様は、後悔しないよう観劇してほしい。



2月、前期2次試験。緊張と不安であまり覚えていないが、当時の日記を読む限りほぼ練習通り歌えたようだ。




3月、合格。



私は地方公立芸大の声楽科に合格した。

未だに、よく間に合ったよなあと感じるのだが、私は今も芸大で声楽を学んでいる。周りのレベルに圧倒されながら、理想と現実の差に葛藤しながら、今日も歌っている。

思うように歌えない日のほうが多い。泣きたくなる日もある。そんな時は望海風斗という世界一の歌手の歌を聴いて、自分を鼓舞する。



「あの舞台でいつの日か歌うのよ。」



夢見る舞台に思いを馳せて。






いつか、あの世界の住人になるために。




拙い文章をここまで読んでくださったみなさま、本当にありがとうございます。うつとの闘病、高卒認定や芸大受験の詳細、芸大での生活など需要があれば後日詳しく別なnoteに書きたいと思います。今頑張っていらっしゃるすべての方々へ私の経験が少しでも参考や励ましになれば幸いです。

先日の望海さん退団公演についてもまだ感情がうまく整理できていないのですが…たくさん語りたいことがあるので早急にまとめようと思います!!

最後に、私の人生に光をくれた望海風斗さん、本当にありがとうございます。これからも、応援させてください。



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