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好きになりそうな人と写真を撮った夜の話

 ES──エントリーシートなんてのは、自室でひとり粛々と書くに限る。大学のラウンジで、それもお喋りな女友達と一緒にやるべきことではないのだろう、たぶん。

「ところでさ、にっしーは今度の日曜って忙しい?」
「いちおう空いてるけど」
「了解、じゃあ『デート』の件はその日にしない?」

 予想外の単語が耳に飛び込んできて、俺は危うくESの清書をミスりそうになった。「いやちょい待ち、どういうことなの」手を止めてそう問えば、イチカワは「飲み会での話、忘れたの?」と目を丸くした。瞬間、脳裏に記憶のかけらが浮かび上がる。先々週にサークルの面々と行った居酒屋、そこで交わしたやり取りの数々──。

「にっしー、失恋したって言ってたじゃん」
 ──確かに言った。
「いい人がいれば紹介して、ってさ」
 ──それも、言った憶えがある。
「ウチらとダブルデートとかどう、って訊いたら『いーね』って」
 ……もはや自分を呪うしかない。

 完全に思い出した。けれども、いま自分がやるべきはデートの日程決めなどではなく、眼前のESをさっさと仕上げることなのだ。「その話なんだけど、また今度ってことで──」苦し紛れにそう告げると、彼女は「今するべき話だよ」と苦笑して、つづけた。

「気付いたんだけど、そのESってもう間に合わないじゃん」
「……えっ?」
「H社のやつでしょ? あたしも応募したから分かるけど、それ『消印有効』じゃなくて『必着』のやつだし」

 彼女の人差し指が、とん、とESの片隅を叩く。果たしてそこには、今日の日付とあわせて「必着」の二文字が小さく記されていた。覚えず、喉の奥から呻きとも唸りともつかない声が漏れる。下書きまで済ませておきながら、今の今まで気付かなかった──そんな自分に、ほとほと嫌気がさす。

 ここのところ、集中を欠いている自覚はあった。折しも冬季試験の真っ只中。週3で入れているアルバイト、そこにきて着々と本格化する就職活動。忙しい、の一言で雑に片付けることは簡単だったが、それが主因でないことは自分自身がよく分かっていた。振り返るに、契機はやはり2週間前の飲み会だったのだと思わずにはいられない。

「どんまいだね」こちらの内心を知ってか知らずか、イチカワは「息抜きも必要だと思うよ」と慰めるようにつづけた。

「というわけで、デートの話していい? いいよね?」
「はいはい……次の日曜だっけ、いいよ」
 肺の奥から溜息を吐き出して、俺は力なく頷くほかなかった。

 話はこうだった。先週の飲み会の後、イチカワは俺の彼女候補をひそかに見繕っていたらしい。そこで浮上したのが「彼氏の女友達」なのだという。名前はフタキさん。彼氏と同じK大の学生で、俺たちと同学年の3年生。その彼女にも、イチカワの彼氏経由で俺の情報が渡っているらしい。

「にっしーの顔写真もね、ちゃんとシェアしてあるから」
「写真って──いや、いつのやつよ?」

 反射的に身を乗り出していた。写真嫌いな自分のこと、友人たちと連れ立って遊ぶ時はおろか、サークルの写真ですらろくに写った覚えがない。ならば、サークルの誰かが何気なくとった一枚に偶然写り込んでいたか、あるいは奇特なやつが隠し撮りでもしたのか。浮かんだ想像は、しかし、そのどれもがハズレだった。

「このまえ撮ったプリクラあるじゃん、あれよ」

 あっけらかんとした返答に、俺は虚空を仰いだ。そういえば、そうだ。サークルでの飲み会の帰り道、立ち寄ったゲーセンに並んでいたプリクラの筐体。「懐(なっつ)いね、みんなで撮ろうよ!」──イチカワによる発案の手前、また酒が入った勢いもあって受け入れた覚えがある。

 聞けば「彼女候補」たるフタキさんは、プリクラに写っていた男子5名の中からわざわざ俺を選んだらしい。「お目が高いよね」とはイチカワの弁である。そうはいっても、素直には喜べない自分がいた。気の向くままにこれでもかと加工を盛られた姿は、もはや自分とは言えない気がする。いやしかし、だからこそ俺は撮影に応じたのではなかったか──?

「にっしーの写真、コレしか無かったってのもあるけどさ。他に写真があったとしても、あたしは結局プリクラを渡してたはずだよ」

 テープ糊を片手に、イチカワはカット済みの証明写真を自身のESに貼り付ける。カラフルな蛍光ペンで彩られた彼女のESは目にも鮮やかで、書店のポップもかくやといった華やかさがある。俺が書くような、黒一色の地味なそれとは大違いだ。

「あたし的には、プリクラも就活写真とそう変わんない気がするのね」
「実物を見て幻滅するところが?」
「そーじゃなくて、ウチらみたいなカメラ素人はさ、加工してやっと写真がリアルに近づくって話」

 その理屈は分からなくもない。イチカワが言うと説得力がある。写真館でわざわざ撮ったという、就活用の証明写真。「それなりに調整してもらったよ」と語っていたそれは流石にプロの仕事と言うべきか出来が良くて、確かに「リアル」に近いと思う。それでも現実のイチカワには到底及ばない。こうして直に対面しているときのほうが、ずっと綺麗だと感じる。

「にっしーはリアルのほうが断然カッコいいんだからさぁ、自信持ちなよ」

 さらっとそんなことを言ってしまえるイチカワに、俺は苦笑を返すほかない。それを肯定と受け取ったのか、彼女はいたずらっぽく微笑んだ。

「次の日曜、楽しみにしてるから」

***

 >>ごめん、急用で行けなくなった!
 >>彼氏も朝から調子悪いらしくて
 >>なので、今日は二人で楽しんでください

 そんな一連のメッセージがイチカワから飛んできたのは、もう少しで待ち合わせ場所に着こうかというタイミングでのことだった。

 薄々、そんな予感はしていた。俺としても「ダブルデート」とやらがデートの体をなさないだろうという懸念は抱いていたからだ。俺はフタキさんとは面識がない。しかし、イチカワは言わずもがな、その彼氏とも遊んだことがある。

 フタキさんとまったく話さずにデートが終わる可能性は充分にあって、ふたりもそれを危惧したのだろうとは察しがつく。だから──むしろ感謝すべきなのだろう。その一方で、勘弁してくれと叫びそうになる自分もいた。

 了解、とだけ返信を済ませて、俺は「予習」に戻る。イチカワから数日前に送られてきた、フタキさんの顔写真──もとい、集合プリクラをもう一度見つめた。

 昨年、イチカワの彼氏がサークルの面々と撮ったというそれには、6人の男女が写っている。ど真ん中に位置しているメガネ男子がイチカワの彼氏で、その左下にいる女子がフタキさん。肩で揃えられたミディアムロングの茶髪、そして弾けんばかりの笑みが印象的だった。盛られた加工を差し引いても、素直に「いいな」と思えるくらいには魅力的だと思う。

「あたしも何度か会ったことあるけど、めっちゃいい子だよ」
 ふと、イチカワの人物評が脳裏をよぎった。
「にっしーと気が合うと思うよ、フタキさんも写真嫌いらしいからね」

 待ち合わせ場所の駅に付いたのは、約束の10分前だった。改札そばのトイレに立ち寄り、洗面台の鏡で申し訳程度に髪を整える。凍らんばかりに冷えた水道水が、手のひらの汗を押し流していく。ハンカチで手を拭いつつ、今更になって鼓動が早鐘を打ち始めたことに気付いて、ふうと大きく息をついてみた。

 改札を出て、辺りを見回す。各駅停車しか停まらず、お世辞にも大きいとは言えない駅とあって、人影はまばらだ。幸いにして、フタキさんと思しき人物はすぐに見つかった。壁を背にして、スマホをいじっている若い女性。その視線がふっと上がり、俺の視線と重なる。途端、彼女の顔に緊張が走るさまが手にとるように分かった。自分だって、きっと同じような表情をしているに違いない。

「こんばんは……フタキさんですか?」
 会釈しつつ尋ねてみると、果たして「はい」と返事があった。「ニシジマさんですよね?」
「はい、ニシジマサトシです。本日はどうぞ宜しくお願いします」
「あっ、はい、こちらこそ。フタキミナミです。宜しくお願いします」

 ほとんど無意識に、俺は眼前のフタキさんとプリクラの中の彼女を重ねていた。一見して分かる違いは幾つかある。たとえばそれは、髪の色。プリクラでは茶髪だったが今は黒髪だ。おそらくは自分と同じく、就活にあたって染め直したのだろう。加えて言うなら、こうして実際に目の前にしてみると画像以上に素敵だと思う。

 一方で、面持ちはすこぶる固く──プリクラで浮かべていたような、はちきれんばかりの笑顔とのギャップが際立った。初対面なのだ、いたって当然のことだった。むろん、俺だって人のことを言えた義理ではまったくない。いや増す胸の高鳴りと呼応するように、背筋にじっとりと汗が滲むのが嫌でも分かった。

「──じゃあ、行きましょうか」

 フタキさんの一言を合図に、俺たちは駅構外へと一歩を踏み出した。

***

 今日の行程はあらかじめ決まっていた。メインとなる場所は、駅の近場にある大型ショッピングモール。そこで最初に夕食を済ませ、それから興味の向くままにモール内を散策する。そして最後に、併設されているイルミネーションスポットを訪れて終了である。

 このプランを立てたのは、もとはと言えばイチカワたちだった。彼らが欠席しているとはいえ、わざわざ予定を動かす必要も感じず、そっくりそのまま流用させてもらうことにする。さしあたって夕食であるが、さすがに店の指定まではされていなかった。

 そういうわけで俺たちは、レストランフロアにあった中華料理店へと入っていた。「寒いので、辛いものとかどうですか?」そんな俺の提案に「いいですね」と二つ返事でOKを貰ったのだ。滑り出しは上々。後はゆっくりと会話を深めていけばいい──そんな見立ては、しかし、少しばかり楽観的すぎたようだった。

 それから1時間も経った頃だろうか。

 各自の料理をあらかた食べ終えた俺たちは、グラスの水を継ぎ足しつつ、無言で向かい合っていた。ついでに言うなら、ここ5分くらいは互いに沈黙したままである。店内に流れる軽やかなBGMは、テーブルに横たわる静寂を埋めるどころか、むしろ痛いくらいに際立たせていた。

 共通の話題が、ほとんどない。

 強いて原因を挙げるならば、それに尽きる。同じ大学3年生ではあるものの、重なる部分はそう多くない。俺は映画好きの経済学部生で、絶賛就活中の身である。一方のフタキさんは、洋楽鑑賞が趣味の文学部生で、大学院への進学を志している。

「『違うこと』はチャンスだ」──春先に大学であった就活セミナーにて、講師がそう語っていた憶えがある。それは確か、最近の企業トレンドとして「自社に合わなそうな人材」であっても社風変革を期待して採用するケースが増えている……という趣旨だったか。転じて、それは日常のコミュニケーションにも言えることだ。講師いわく「興味の無い話題でも積極的に掘り下げることが大事」とも力説していた。

 ごもっとも、とは思う。ただ悲しいかな、自分がその手の「話題の広げ方」が苦手なタチであることは、20年そこらの人生でたびたび痛感させられている。関心のない話題に相手が合わせて“くれている”感じというのは、思った以上に伝わるものだ。その「配慮」を好機と捉えるか、はたまた危機と捉えるか。その点で言うなら、俺は完全に後者だった。語り手としては、話を聴いてくれる喜びよりも負担を強いている罪悪感が先に立つし──かたや聞き手としても、興味の薄さを先方に悟られやしないかと気が気でなくなってしまう。

 おそらくはフタキさんも似たタイプなのだろう。自分の守備範囲に俺がまったく重なっていないと見るや「ごめんなさい」と言わんばかりに話を変える。互い違いに話題を投げ合っては受け取れず、双方ともに持ち玉が尽きてしまい──結果として、この沈黙である。

 にわかに店内が混んできて、これ幸いとばかりに店を出た。腕時計にひっそりと目を移してみれば、実際は1時間どころか30分程度しか経っていないことに気付いて、なおのこと焦った。ずいぶんと話し込んだ気になっていたが、会話の内容としても自己紹介どまりで、特に進展した実感はない。

 ──いや。
 自己PRの機会はまだ残されているはずだ。
 それに、今日だけで全てが決まるとは思っちゃいない。

 そう自分を奮い立たせたそばから「就活みたいだな」と身も蓋もない感想が頭に浮かんだ。息抜きのはずが、結局はこれだ。ついでに言うなら、面接官たるフタキさん視点で「二次面接」に進めるのかどうかも甚だ怪しいところだった。

 悶々としつつ、しばらくショッピングフロアを練り歩いていたところで──フタキさんがぴたりと足を止めた。遅れて俺も立ち止まる。視線を上げれば、傍らにはタワレコの売り場がでかでかと広がっていた。

「すみません、ちょっと寄ってもいいですか?」
「もちろんですよ。俺もちょうど用事あったんで」

 いったん別れて、互いに目指すコーナーへと赴く。探しものは思いのほか早く見つかった。それはフタキさんにしても同じだったらしく、精算レジの待機列でタイミングよく鉢合わせることとなった。

 隣り合って並んだ瞬間、互いの視線が交差する。
 俺が手にしたDVD。
 そして、フタキさんが携えたCD。

「──それ、知ってます」
 ほとんど同時に、声を上げていた。

「──知ってるんですか!?」
 間を置かず、またもや二人して驚愕する。

 まるでコントみたいなやり取りに、俺たちはどちらからともなく吹き出していた。

***

 精算を終えて、俺たちはショッピングモールを後にした。

 お互い、モール内で見たいものはこれ以上特に無さそうということで、最後の予定である屋外散策へ早々と繰り出すことにしたのだった。

「めちゃくちゃ驚いたんですよ。まさかニシジマさんが、こんなマイナーな海外のバンドを知ってるなんて」
「イチカワが激推ししてたんですよね。ほとんど強制的に聴かされて、それがきっかけで好きになって。おかげでそのバンドだけは詳しいですよ、他はからっきしですけど」

 苦笑まじりに、俺はつづけた。

「ていうかフタキさんこそ、こんなB級サメ映画を知ってるなんてびっくりですよ。それこそ超マイナーもいいところなのに」
「ろっくんが大好きなんですよね、サメ映画。うちのサークル、映像研究会って名前だけあって部員は皆それなりに映画に詳しいんですけど、ろっくんのサメ愛には誰も敵わなくて──」

「ろっくん」って誰だ、と迷ったのも一瞬のことだった。イチカワの彼氏である「ロッカクくん」のことだ。うきうきとした調子で、フタキさんは語る。俺と彼女、二人分の白い吐息が混じり合い、風にさらわれて後方へと流れていく。薄闇に漂う冷気が、火照った肌にひんやりと心地よかった。

 さっきまでの不安が嘘のように俺の口は回ったし、フタキさんもまた饒舌になっていた。共通点を躍起になって探していたが、こうして気付いてみればなんのことはない。俺たちは、あのカップル──イチカワとロッカクくんのことを互いに知っているのだ。

 聞けばフタキさんもイチカワとたいそう仲が良いらしく、イチカワも彼氏たるロッカクくんを放ったらかしてフタキさんと二人で遊びに行くことがままあるのだという。

「たぶんイチカワさん的には、あのバンド絡みで話せる相手が欲しかったんだろうね。ろっくんは洋楽に無頓着なんで」
「ロッカクくんも、似たような感じかな。イチカワはサメ映画に限らずあんま映画を観ないんで、そこはやっぱり話せる相手が欲しかったんだろうなって」
「だよねー! 私、この前イチカワさんと泊りがけで福岡のライブ行ったのね。ろくに観光するヒマもないくらいの弾丸旅行だったんだけど、すっごい楽しくて」
「あー、イチカワもめっちゃ喜んでた。実を言うとその日、俺はロッカクくんのうちに泊まってオールでサメ映画観ててさ」
「それニシジマくんだったんだ!? イチカワさんすっごい妬いてたよ、『何だかあたしより彼女っぽい』って」
「ロッカクくんだってすげー羨ましがってたよ? 『俺よりよっぽど彼氏っぽい』ってさ」
「仲良すぎじゃん! ろっくんもさー、興味が無いなんて言わずに、彼女の趣味に寄り添ってあげればいいのにね。イチカワさんくらい素敵なコ、なかなかいないんだから──」

 そこからは、フタキさんの独壇場だった。イチカワがどれだけ素晴らしい「彼氏想いの彼女」かをこんこんと説き、翻ってロッカクくんの「彼氏」としての改善点──時間に少々ルーズであったり、弱みを一切見せずに強がるところ等々──を挙げつらね、「今度会ったらニシジマくんからも言ってあげて」と笑顔で締めくくった。

 特に、ロッカクくんに関する指摘については俺も思い当たるフシが多々あって、流石に付き合いの長さを感じさせる。けれども別に嫌味さはかけらもなく、ただ純粋に彼の恋路を案じているのも分かる。ロッカクくんのあれこれを語るフタキさんの表情は、あのプリクラの中で浮かべていた快活な笑みとまったく同じだったから。

「すごくいいなって、思う」
 気付けば俺は、そんな感想を漏らしていた。
「ロッカクくんを想う気持ちが、すごく伝わってくる」

 数秒の沈黙を経て、フタキさんが口を開いた。
「──ごめん、なさい」
 絞り出された声音は、驚くくらいにか細かった。
「そんなつもりじゃなかったんです……すみません、失恋して辛いところにわざわざ紹介してもらったのに……いい気持ちしませんよね」

「──えっ?」

 やっと発した声は、自分でも呆れるほどに間が抜けていて。

「──あっ!」

 ようやく理解が追い付いた頃には、何もかもが遅すぎた。

 ──想う気持ち。

 言葉足らずの、余計な一言。「友達想い」という意図で口にしたそれは、彼女にとってはそれ以上の意味を持って受け取られていたようで。なお悪いことに、それは図星でもあったらしい。

「……そういうこと、なんです」

 つぶやくように言って、フタキさんは顔を伏せた。彼女が謝るべきことなんて、何もなかった。変な物言いをした俺が全面的に悪い。そのうえ、俺は結果的に嘘をついてもいるのだから。

「ごめんなさい」

 立ち止まって、俺は頭を下げた。
 こちらもまた、白状すべきだと感じた。
 それでようやく、おあいこだと思えたからだ。

「──俺も、そういうことなんです」
      ・・・・・・

***

 確かに俺は失恋した。
 しかし、それももう、1年前の話だ。
 大学2年生の冬──ちょうど今頃の時期である。

「そういえば、彼氏ができました!」

 夜更けのファミレスにて、イチカワは前触れもなくそう宣言した。彼女と一緒に受けていた講義、その試験勉強をしている最中の出来事だった。驚いた、というのが率直な感想だった。あまりにも唐突すぎて、それ以外に何も思い浮かばなかった。聞くところによれば、相手は他大学の男子で、半年前に友人の紹介で知り合ったのだという。そこから順調に仲を深め、このたびめでたく付き合うことになったとのことだった。

「あたし、今までそういうのと無縁だったから──男心ってやつをにっしーに訊こうと思ってたんだけど。なんだかんだで、とんとん拍子にここまで来ちゃいました」

 相談されなくてよかったと、心の底から安堵したものだ。同時に、きっと彼氏はいいやつだろうなとも思った。いざ知り合ってみれば、ロッカクくんとは予想以上に気が合った。俺と同じくマイナーな映画が好きで、DVDの貸し借りをきっかけに、幾度も映画館へと足を運んだ。出身が同じ県だと判明したことも、気安さに拍車をかけた。

 そのくせ、気持ちは依然としてイチカワのもとに薄く残ったまままだった。彼らの別れを願う気持ちなんて毛頭なかった。自分がかつて彼女に想いを寄せていたという事実も、このまま墓場まで持っていこうと決めた。

 それでも──結局のところ、俺は誰かに聴いてほしかったのかもしれない。そうした欲求の発露が、2週間前の飲み会だったのだと今にして思う。酔いにかこつけてノロケるイチカワに、俺もまたアルコールの勢いを借りて、当てつけのごとく切り出したのだ。

「最近、失恋しちゃってさ」
 ・・

***

「……たいへんだったね」

 俺がひとしきり語り終えたのち、フタキさんは潤んだ眼差しでそう告げた。

「私もほとんど似たような感じだから……わかるよ」

 遅ればせながら、申し訳無さは募る。その一方で、長いこと胸につかえていた凝りがすっと落ちていく感覚もあった。フタキさんには、本当に感謝するほかない。

 思ったことをそのままに伝えると、彼女は「そんなそんな」と照れくさそうに手を振った。「引き合わせてくれたのはイチカワさんとろっくんだし」そこで言葉を切って、「でもね」と唇をとがらせた。

「……正直、ドタキャンはどうかと思うけどね!」
「そーいうとこあるよなぁ、あのふたり……!」
「でも、あの二人が来てたら、あたしニシジマくんと全然話せなかったかな……」
「めちゃくちゃわかるわ……」

 苦笑をこらえつつ、俺は言った。

「こんな話をしといてアレだけど……イチカワのこと、嫌いにならないでね」

「ならないよ」目元をぬぐって、フタキさんは微笑んだ。「ニシジマくんも、ろっくんのこと嫌いにならないでね」
「もちろん」微笑みを返して、俺はハンカチで盛大に洟をかんだ。なんなんだろうねこれ、と互いに言い合って、また笑った。

 俺たちはきっと、似すぎている。
 友人から始めて、ゆくゆくはその先へ至れるとも思う。
 ただ、その時機が今ではないというだけで。

「提案があるんだけど、いい?」

 俺が頷くのを見計らって、フタキさんはつづけた。

「今日でいったん『お別れ』して──またいつか会えたなら。その時点で、お互い独りだったなら。そのときは、改めてお友達から始めませんか?」

 彼女が意図するところを察して、俺は再び頷いた。

「俺の読みが正しければ、4、5年後くらいかな」
「私も、大体それくらいかなって見込んでる」

 二人して、自然と足を止めていた。散策ルートの終点たる駅前広場は、あらかじめイチカワたちから聞かされていた通り、オブジェから並木に至るまで無数の電球に彩られている。星空をそのまま降ろしてきたような光景は、ふだん写真に興味のない俺でも、おのずとスマホのカメラを構えてしまうくらいには幻想的だった。

「──あの、すみません!」

 横から飛んできた声に、思わず首を向けた。
 声の主は若い男性だった。自分と同年代──いや、大学生にしてはやや顔立ちが幼く見える。その傍らには同い年くらいの少女が佇んでもいた。さしずめ高校生カップルだろうか、二人して緊張した表情を浮かべている。

「もしよかったら、写真、撮ってもらえませんか?」

 快諾して、彼氏のスマホを受け取る。操作に幾分もたつきつつも、シャッターを切った。続けて、彼女のスマホでももう一枚。どうにか役目を果たしたところで、二人組から追加の申し出があった。

「あの、よかったらお二人も撮りましょうか?」
「えっ……」

 遅れて、事態をようやく理解する。俺としてはまったくその気がなかったものの、傍から見ればカメラマン役を見繕っているように見えたらしい。正直なところ気は進まないが、好意を無下にするのもなんとなく気が引けた。そういえば、フタキさんも自分と同じく写真嫌いだったはずで──。

 とっさにフタキさんへと目を向ける。一瞬、逡巡した面持ちを見せたものの、やがて吹っ切ったように満面の笑みを浮かべた。

「せっかくだし、撮ってもらおうよ」

 スマホを手渡し、互いに身体を寄せる。冷え切った衣服越しに伝わる、ほのかな温もり。ふいに耳元の空気が、ゆるりと動いた。

 リハーサルってことで──。

 小声で耳打ちされた瞬間、フラッシュの眩い光が視界にきらめいた。

***

 ──あれからもう、5年近くになる。

 あの日撮ったフタキさんとの一枚は、今なおスマホの中にある。時折ひっそりと見返しては、まるで昨日のことのように懐かしくも思う。光る並木を背にした、笑顔のふたり。互いに固さは見て取れるものの、シンプルに見れば「初々しい」ということになるのだろう。

「予習」を済ませて、目の前の鏡に視線を戻す。白ネクタイの結び目を軽く直してから、化粧室を出た。新郎新婦からは、彼女が出席すると聞いていた。だから──遅かれ早かれ、今日のうちに再会することになるのだろう。

 迎賓館の中庭では、挙式を終えたイチカワとロッカクくんが親戚と思しき面々に囲まれていた。同年代の面々はまばらに見えるが、数はそう多くない。晴れやかな光景をしばし眺めていたところで、

「お久しぶりですね」

 ふいに背後から、ぽん、と肩を軽く叩かれた。ぎょっとして振り向けば、果たしてそこには、ネイビードレスに身を包んだフタキさんがいた。思いもよらないサプライズに苦笑しつつ、俺も「お久しぶりです」と返した。

「予想、的中しましたね」
「さすがは私たちってことですね」

 対面するのは、あの冬の日以来のことだった。はるばる5年ぶりのこと──とはいえ、フタキさんの近況は新郎新婦から聞いている。おそらくは彼女もまた、こちらの身辺について知らされているに違いなかった。

「そろそろ結婚も近いって聞きました」
「ええ、そちらも近いって聞いてます」

 お互い、今は恋人がいる身だった。
 どちらも、付き合って2年あまり。
 式はおそらく来年になる見込みだ。

「実を言うと──」
 囁くように、彼女はつづけた。
「何度か、連絡を取ろうかとも思ったんです」

 例えば、新しく好きな人ができた時のこと。
 交際したが、上手くいかなかった時のこと。
 それから、いまの恋人と出会った時のこと。

「そのたび迷って、思い止まって……変ですよね、私から言い出したことなのに」

 かぶりを振って、俺は静かに返した。

「俺も、似たようなものでしたよ」

 あの日の申し出は提案であり、約束ではなかった。

 均衡を崩そうと試みれば、たぶん出来たのだろう。再会を早めることも、そこから再開することだって──それが正しかったとは思わないが、きっと過ちでもなかったはずで。どれだけ想像を巡らせようとも、その道を選ばなかった俺たちに分かりはしないけれど。

 ただひとつ、確実に言えるのは──あの日の提案に、当時の俺はいたく救われたということだ。「リハーサル」の一枚を撮られたあの一瞬、あてどない想いに煙っていた視界が晴れたような気がしたから。来たるべき今日この日を、心から祝えるだろうと確信できたのだから。

「あの時は、ありがとうございました」

 お互いにそう告げて、礼を交わしあった瞬間、

「にっしー! みなみん! 写真撮るよ、早く早く!」

 振り向けば、ほど遠くで花嫁姿のイチカワが盛大に手を振っていた。その傍らでは、タキシード姿のロッカクくんが気恥ずかしそうな微笑みを浮かべている。待ちに待った「本番」の景色である。

「──じゃあ、行きましょうか」

 声が重なり、視線が交わった。
 刹那、フタキさんの笑みがぱっと弾けた。
 俺だって、彼女に負けないくらいの笑顔を浮かべているのだろう。

 きっと、この一枚は、最後で最高の写真になる。

 そう、信じている。


<了>

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蜂八 憲
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