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届かぬ想いを飲み下した17歳の時のこと

「俺さぁ今からチョコ渡されるらしいっちゃけど、ここから見てて欲しいのな」

 高校2年の、バレンタインデーの夜のこと。住宅街を一望できる程度には見晴らしの良い高台で、Aくんはそう言った。「ほらあそこ」と指し示した先──100メートルばかり離れたところには、古ぼけた街灯がぼんやりと光を放っている。

「もし俺が刺されたりしたら、110番してほしいわけ」
「はぁ?」
「119番も忘れんなよ」
「はぁ……?」

 たてつづけに繰り出される要望を前にして、僕の脳内は疑問符で埋め尽くされる。

 ──そもそもの発端は、Aくんからかかってきた電話だった。

「よぉ今ヒマ? ヒマやろ? モンハンしようぜ!」

 そんな有無を言わさぬ遊びのお誘いに、僕はほいほいと乗ったのだ。バッグにPSPを放り込んで、待ち合わせ場所のRight-Onへうきうきとチャリを走らせた。そこから近場のミスドにでも向かうのかと思いきや、連れられた先は冬風吹きすさぶ住宅街である。いや、この寒空の下ひと狩り行くのはちょっとキツくないか──? そう訝しんだ矢先の、Aくんの発言だった。

 勘弁してほしい。僕はあくまでモンハンをしに来たのだ。道中「金レイアと銀レウスのどちらを狩ろうか」「いや黒龍と紅龍も捨てがたい」と悩みに悩んでここまでやってきた。決して彼のチョコ授与式を見にきたわけではないし、ましてや傷害事件に巻き込まれるなどまっぴら御免である。

 喉元までせり上がってきた不平不満は、しかし、電灯に照らし出されたAくんの深刻げな面持ちを目の前にして結局引っ込んでしまった。

「今から来るの、✕✕✕✕さんなんやけどさ……」

 Aくんが口にした名前には、心当たりがあった。同じクラスの女子だ。派手でも地味でもなく、良くも悪くも目立たない。僕個人としては「面識がある」という、ただそれだけの関係性。そんな彼女がAくんに熱烈なアプローチをかけている──という話は、すこし前に彼本人から聞かされてもいた。

 おもむろに、Aくんから携帯を手渡される。黒背景の画面には、白文字がびっしりと埋まっていた。いわく──

“一日中ずっとAくんのことを想ってる”
“心配で胸が張り裂けそう”
“ゆっくりでいいから心を開いてほしい”
“私ならあなたの助けになれるよ”
“学校に来ないの私のせいかな?”
“なんてねーそんなわけないよね”

 ──拾い読みした限りでは、そういった旨のことが書いてあった。スクロールバーが残り半分ほどあったが、途中で読むのを止めた。促されるままにメールボックスを覗いてみれば、そこには✕✕✕✕さんのメールがずらりと並んでもいた。

「重いっつか、さすがに鬱陶しいんだよなぁ……」

 Aくんが溜息をつく。彼は、持ち前の快活さとガタイの良さ、そして整った顔立ちからクラスでも人気の存在だった。一方で、学校を脈絡もなくサボる癖があって、教師陣から「不良」の烙印を押されるタイプの学生でもあった。そんなAくんが心底参ったような表情を浮かべているのも珍しかったし、何より✕✕✕✕さんの積極性がそれほどのものとは想像だにしなかった。

 なんでも、Aくんとしては、✕✕✕✕さんと付き合う気はないらしい。実際、遠回しに何度もその旨を伝えている。ただ「せめてチョコだけは渡したい」という彼女の熱意に押し負けて、今日ここに至るということだった。

「……ってわけで、もう時間やし行ってくるわ……よろしく」

 そう言い残して、Aくんは所定の位置へと向かっていった。僕は僕で、パーカーのフードを目深にかぶり、口元をマフラーで覆い隠す。あとは受け渡しが行われるのを待つだけだった。

 果たして、街灯の下にもうひとり、✕✕✕✕さんらしきシルエットが浮かび上がった。その動向を、僕はひっそりと注視する。二人して何やら会話をして──Aくんに何かが手渡されて──またもや何らかの会話があって──やがて✕✕✕✕さんが去っていった。時間にすれば、ものの5分くらいだったと思う。

 平穏無事かつ五体満足で帰還したAくんの手には、ケーキ箱が提げられていた。

 受け渡しは滞りなく完了した。110番も119番も無用だった。これで僕は、晴れてお役御免というわけだ。そう安堵しかけたところで、Aくんがケーキ箱をこちらに突き出した。

「手作りのガトーショコラ、だってよ」
「へぇ」
「これ、お前にやるよ」
「はぁ?」

 耳を疑った。受け取れるはずがなかった。一目で義理チョコだと分かるような代物ならまだしも、これはどこからどう見たってガチガチの「本命」ではないか。

「何が入ってるか、分かったもんじゃないし」苦笑して、Aくんはつづけた。「ほら、毛とか爪とか血とかさぁ──よくあるじゃん、マンガでさ」

「だからってなんで俺が──」
「じゃあ良かよ、途中でコンビニにでも捨てとくけん」
「いやいやいや!」

 とっさに僕は叫んでいた。
 それは──あまりにもあんまりではないか。
 そうして僕は、しばしの逡巡の後で、言った。

「……分かったよ、俺がもらうってば」

***

 帰宅してすぐ、僕はケーキ箱を開封した。

 そこそこ空腹感があるうちに、手早く食べてしまいたかった。もっと言うなら、✕✕✕✕さんがAくんに「食レポ」を求める可能性もあるわけで──もしもフルーツケーキよろしく何かしらの具材が入れてあったのならば、その詳細も伝えるべきだと思ったからだ。

 さながら化石でも発掘するかのような慎重さでもって、ガトーショコラを少しずつフォークで崩していく。意を決して、口に含む。瞬間、濃い甘みが口に広がった。率直に言うなら「甘すぎる」と思った。いつだったか、親戚が近くの洋菓子店で買ってきたガトーショコラはもっと苦味が効いていた気がするけれど。

 でもそれは、当然といえば当然だった。だって✕✕✕✕さんは、このガトーショコラをAくんのために作ったのだ。甘いものが好きだと公言してはばからなかったAくん。そんな彼が喜んでくれるよう、甘みを強くしたに違いなかった。

 甘さと格闘しているところで、唐突に居間のドアが開いた。振り向けば、そこには仕事を終えて帰宅した父の姿があった。「ただいま」と言った父、その目線がテーブルの上のガトーショコラに吸い寄せられていく。次いで、その双眸が「おやおや」と言わんばかりに細くなった。

 それを察して、僕は反射的に口を開いていた。

「……友達から、もらったとって」

 合点がいったように、ほう、とさらに目を細める父。言葉足らずだったことに気付くが、もう遅かった。でも、訂正する気もなかった。

「本命チョコを横流しされた」とは絶対に言いたくなかった。

 モテている、と見栄を張りたかったわけじゃない。大仰な言い方をするならば、このガトーショコラの名誉を──ひいては✕✕✕✕さんの想いを守りたかった。たとえそれが、嘘でデコレーションされた上っ面だけのものだったとしても。

“ほら、毛とか爪とか血とかさぁ──よくあるじゃん、マンガで”

 茶色の欠片を飲み下しつつ、Aくんの言葉を反芻する。マンガでよくある、というならば、もっと他に例はあるだろう。それこそほら──「惚れ薬が入っている」とか。仮にそうだったのならば、✕✕✕✕さんにとっては最悪だろう。いや、最悪と言うなら、今まさにこの状況こそが既にそうじゃないか──。

 一口ごとに、罪悪感は募る。胃の底がずんと重くなるような錯覚すら覚えながら、僕はちまちまとガトーショコラを崩していった。

***

 翌朝、登校すると教室には✕✕✕✕さんしかいなかった。だからといって、特に挨拶を交わすわけでもない。その程度の距離感。彼女の席は、僕の席から少し離れた斜め前の位置にあって──おそらくは一限目の予習でもしていたのだろう、脇目もふらず机に向かっている様子だった。

 席について、僕は筆箱からシャーペンを取り出す。クリップの付いていないオールドタイプのそれは、机から転げ落ちやすいという理由から普段は使っていないものだった。

 ひとつ深呼吸をして、僕はシャーペンを前に転がした。机から落ちたそれは、減速するそぶりもなく、床をころころと移動していき──✕✕✕✕さんの机の脚に当たって、きん、と高い音を奏でた。

 ✕✕✕✕さんが視線を床に落として、シャーペンを拾い上げる。彼女が振り向いたところで、ようやく視線がかち合った。

「……ごめん」「いいよー」

 シャーペンを手渡された僕は、何事もなかったかのように席に戻る。
 ✕✕✕✕さんもまた、すぐに机上の教科書とノートへ視線を戻した。

 彼女は知らない。Aくんに贈ったガトーショコラが、僕に横流しされたことを。きっと、これからも、ずっと。

 僕は知っている。Aくんに贈られたガトーショコラが、ごく普通の、甘めのお菓子だったということを。

 プレーンなそれに、きっと必要以上のものは入っていなかった。Aくんが懸念していた異物はもちろんのこと、僕が妄想したような薬のたぐいだって。✕✕✕✕さんの顔を目の当たりにしても、胸がときめく気配は一向に訪れなかった。きっと、これからも、ずっとそうだろう。そんな、当然といえば当然すぎる事実が、なぜだか妙に哀しかった。

 僕だけが知っている。今しがたのやり取りが、ただ僕が「ごめんね」と言いたいがだけの、彼女から「いいよ」と許されたいがためだけの、形ばかりの茶番だということを。そんな己のみみっちさが、どうしようもなく悲しかった。

 Aくんが登校してきたのは、午後になってからのことだった。鞄を肩から提げたままの彼と、男子トイレでばったり遭遇した。

「……無事だったんだな」

 僕の顔を見るなり、神妙な面持ちでAくんは言った。

 サボりがちの彼も、今日ばかりは登校する気になったらしい。というか、チョコの味よりも体調を心配してくるあたり、どうにも複雑な気持ちではあった。だから、僕は進んで報告してあげようと思った。

「めっちゃ甘くて美味しかったよ」

 間違いなく、自分の好みではなかった。でも、彼が食べたら絶対にそう言うだろう。

「勿体ないことしたね」

 そんな僕のささやかな抗議をまるで気にしたふうもなく、彼は「そっか」と笑った。

「まぁ、お前が無事だったならいいんだよ」

***

 バレンタインデーになると、ふっとあの日のことを思い出す。甘みの強いガトーショコラと、それにまつわる苦々しい記憶を。✕✕✕✕さんの名前はもう、今となっては思い出せない。正確な氏名はおろか、イニシャルすらも曖昧だ。

 結局、Aくんが✕✕✕✕さんと付き合うことはなかった。そして僕も、あれから彼女との関係が深まることもなかった。彼女が真にどういう人間だったのか、そればかりは知る由もないけれど。

 今となってはただ漠然と、彼女が幸せであればいいなと、身勝手に思わずにはいられないのだ。


<了>

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