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言葉には、重力がある。 ~西加奈子『円卓』を読んで~

 主人公:渦原琴子と同じ8歳くらいの時だっただろうか。僕の周りのクラスメートたちは、「死ね」「殺す」という言葉を覚え始めた。別に、口にする本人たちに本物の殺意があるわけではない。

 しかし、当時の僕は、どうしてもその言葉を平然と使うクラスメートに違和感を覚えて、頑なに先に挙げた2つの単語は使わなかった。今でもその誓いは残っていて、軽口や冗談であっても絶対に使わない。

 西加奈子先生が描いた『円卓』は、僕が幼い頃に感じた、言葉に対する違和感のようなモノを解き明かしてくれた。私たちが当たり前のように使う「言葉」とどこまでも真摯に向き合う作品ではないだろうか。

それは「重力」

 三つ子の姉、両親、祖父母に囲まれて暮らす琴子は、ひどく口が悪い。時に「8歳だから」という言い訳が通用しないほどに。先生に「うるさいぼけ」と言い放った時は、本を持つ指先が痺れるような気さえした。琴子は幼く、無知であり、それゆえに多くのことを許されている。

 ただ、そんな琴子も成長していく。印象に残ったのが、琴子、同級生のぽっさん、祖父の石太の三人が夏の夜空の下で語り合うシーンだ。琴子は新しい子どもが生まれてくることに対して、ストレートに「嬉しくない」と言ったり、吃音症、不整脈、ものもらいを「格好いい」と本心から言い放ち、真似をしたりしていた。そんな琴子が「うちが言うことに、周りがおかしなることがある」と打ち明けるのだ。

石太「例えば、琴子が、ぽっさんの話し方を格好ええと思たんやったら、その思いに、責任を持たなあかん」
本文より抜粋

 石太の言葉は、8歳の琴子にとって難儀で、そして重い。しかし、悩める琴子にはこの一節が胸に響いたように見えた。琴子の脳内は、この日を境に変化を見せる。それが以下の一節から垣間見える。

思いはたくさん、あふれるほど胸をつくのだが、それを言い表す言葉を見つけられなかった。というより、言葉を発する瞬間に、わずかな重力を感じるようになった。何か言いたいことがあっても、その重力のため、口が簡単に開かなくなったのである。重力から解放される場所にたどりつくまで言葉を探すのだが、大概は、それを探し当てる頃には、もう遅かった。
本文より抜粋

 琴子自身には、「重力」という自覚はなく、なぜか以前のように口が開かなくなった、そんな不思議な感覚なのだろう。この不思議な感覚と結びつくのは、石太の言葉…ではなく、その日の月だというのも小学生の世界を巧みに表現している。

 僭越ながら23歳の僕が琴子の感情を推察するに、琴子が感じた「重力」とは石太の言う「責任」ではないだろうか。8歳の琴子は、自らが発する言葉に「責任」が伴うことを、あくまで「感覚的に」理解し始めた。こうした小学生の「感覚」をツルツルに削らず、そのままに描写する西加奈子さんの表現力、世界観の構成力には、鳥肌が立った。

 ああ、なるほど。僕が感じたあの違和感、それもある種の「責任」の芽生えだったのだろう。あれらの言葉を使うことに伴う周囲の変化、さらには自己の内部の変化、そこに対する「責任」を「イマジン」した時、当時の僕は決して使用してはならないと結論づけたのだ。幼き頃の僕、なかなかやるではないか。

言葉に伴う「責任」を「イマジン」すること

 さてさて、2022年は「まるで宇宙にいるのか?」というくらい重力がない空間もあれば、木星やら土星なみに重力が強い空間もある。そんな不思議な世界ではないだろうか。

  SNSをはじめとしたネット空間には匿名の罵詈雑言が飛び交う。その様子は、無重力空間の宇宙ステーションを想起させる。かと思えば、そこでは非常に厳しく言葉が制限され、軽はずみに何かを発信すれば「炎上」に繋がりかねず、僕らの口は全く開かないこともある。

 いずれにせよ、こうした事態が起こるのは、本作の言葉を借りれば「責任」の所在が曖昧だから。そして、「責任」の所在が曖昧になっているのは、人々に「イマジン」が不足しているからではないだろうか。

 言葉を発信する際に、どれだけ年齢を重ねていようと、どんな身分であろうと「責任」が伴う。そして、その「責任」を「イマジン」することが、言葉という道具を使う際に、大切なことだ。

 言葉がより身近になった現代社会で、改めて言葉の役割や使い方を省みることを促す、是非とも頭の固くなった大人たちに読んでほしい作品である。

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