再読『海辺のカフカ』村上春樹① 2021/8/18の日記

この世界において、退屈でないものには人はすぐに飽きるし、飽きないものはだいたいにおいて退屈なものだ。そういうものなんだ。僕の人生には退屈する余裕はあっても、飽きているような余裕はない。
『海辺のカフカ(上)』より

 無性に村上春樹の作品が読みたくなる時がある。その欲求は夏の積乱雲のように上空を見たらいつの間にか膨らんでいる。本棚の一番左端にあった『海辺のカフカ』を手に取って数日、やっぱり僕は彼の作品が醸し出す雰囲気や、文章を読んで頭の中に流れる情景の淀み方がとても好きだなと思った。

 『海辺のカフカ』は、世界でいちばんタフな15歳の少年が家を出て知らない街の図書館で暮らすお話。冒頭に挙げたセリフはその図書館で司書を務める大島のセリフだ。

 なるほど、確かに考えてみると「退屈」であることと「飽きる」ことは似ているようで根本的に重要な部分が異なる。退屈なことをする時、飽きるという感情は最も遠くにある。

 今年の夏は、ロラン・バルトの哲学書を読み漁った。大抵、そういう学術書や古典は、長く重たいものである。しかし、読み進めていても飽きることはなかったし、退屈だった。時に、何度読み直しても分からない箇所があって僕は読み直しては理解できずに立ち止まる。そういうプロセスのなかに「飽き」を感じる余裕はないし、決して快感を覚えるものでもない。

 大島は作中で「退屈」であることと「飽きる」ことの違いが分かる人間は多くないと言っていた。いつだってスマホを開いてゲームをしたり、SNSをしたり、「退屈」であることを心底嫌う人間が増え、サブスクの隆盛で作品を貪欲に消費し、積極的に「飽き」ている現代社会。大島に言わせれば現代人は、「退屈する余裕がなくて、飽きる余裕しかない」、そんなところだろうか。



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