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とわの庭

何も見えない世界とはどんなものだろう。晴眼者の自分には、夜の暗闇の中で目を閉じた時くらいでしかそれを感じることはできない。
"見える"世界が当たり前の自分がいるように、"見えない"世界が当たり前の誰かもまたいる。

物語は母と娘の穏やかな日常の場面から始まる。〈とわのあい〉で結ばれているという二人はいつも一緒。黒歌鳥合唱団のコーラスが朝を知らせ、手作りのごはんを食卓で囲み、本の読み聞かせをする。本当にあたたかな家族像そのものだった。
しかしその日常はじわじわと変わっていく。母が外へ働きに行くようになると一緒の時間は減り、母の気分の上下が大きくなる。少女は我慢することが増えていくが、母のことは大好きだった。「とわの庭」にいる木々やローズマリーという名の友達を支えに日々を過ごす。
十歳の誕生日に初めて触れた外の世界は彼女にとって恐怖でしかなかった。知らない音が四方八方から聞こえる怖さは"見える"自分にでも感じることができた。当時の彼女にとっては良くない記憶になったであろうが、物語の後半でこの場面が重要になってくる。

やがて日常は崩れ始めていく。家の中に物が散乱し始め、母は彼女に手を出すようになる。
そして、母はいなくなった。ここから長い長い苦しみが続く。空腹と闘い常に生死の境を彷徨っていた。

ゴミ袋とゴミ袋の間に体をねじ込んで食べ物を探す。何でもいい。本当に、食べられるものだったら、何でもいい。(中略)
おなかが空いた。おなかが空いた。おなかが空いた。おなかが空いた。おなかが空いた。

いなくなった母と決別し、クロウタドリに誘われて扉を開ける場面までは読んでいて本当に息苦しかった。


外の世界へ出てからも苦しみは続く。知らないたくさんの人間とその声に囲まれてパニック寸前になり、触れられるのさえ恐怖で、悪臭の記憶が離れない。それでも施設で人としての生活を一つ一つ教えてもらいながら克服していく。個人的にはこの施設での場面が一番辛く、心の混乱や恐怖がダイレクトに伝わってきた。
母親について事実も、内容だけ見ればあまりにも身勝手で残酷だった。先に生まれた命を無かったことにし自分のために娘の光もなくそうとした。もし現実で起こればとても大きな衝撃を世間に与えるだろう。

しかし世間のことはいざ知らず、彼女は一歩ずつ前に進んでいく。盲導犬のジョイとの出会いは彼女の世界を大きく広げ、たくさんの喜びや幸せを与えていく。心許せる存在がいつもそばにいてくれる、そのことが彼女にとってどれほど大切だったか。散りばめられた文章から何度も伝わってくる。

わたしとジョイの散歩の時間は、いつだって喜びにあふれている。


物語の中で興味をもったのは、"見えない"彼女が感じる触覚や嗅覚、聴覚の世界である。人間は視覚からの情報が多くを占めているらしいから、自分は聴覚はまだしも触覚や嗅覚はあまり鋭くないと思う。
彼女は彼女だけが持っている感覚すべてを全身で受け止めているなと印象に残った。

いつからか、わたしにとって、人の存在というのは花束のようなものになった。(中略)いくつもの匂いが紛れていて、それがひとつに合わさって、その人独自の花束になる。

また、彼女を幼い頃から支えてくれていた本と物語の世界。言葉の響きや意味を深く感じている。録音図書やデイジー図書という晴眼者には馴染みのないものであるが、本は目で見るだけのものではないと初めて実感した。

言葉にも蜃気楼というかオーラみたいなものがあって、ただ音として聞き流すのではなく、じっくりと手のひらに包むようにして温めていれば、そこからじわじわと蒸気のように言葉の内側に秘められたエキスが、言葉の膜の外側ににじみ出てくる

わたしにとって読書とは、食べることにも似た、物語に宿る命そのものを自分に取り込む行為だった。

終盤の三十歳の誕生、彼女はジョイと一緒に再び写真館へ行く。写真を撮ってくれたおじさんがあの時起こったことを教えてくれた。親子二人が笑いあっている瞬間が確かにあったのだ。
そして物語の最初に書かれていた「いずみ」の詩が、母の愛を教えてくれた。


彼女には"見えない"ことへのネガティブな感情がない。生まれつきだからということもあるが、自分がもつ美しい世界にとても満足している。それはとても幸せなことだ。
これは"見える""見えない"ということに限らず、自分の世界を好きになって幸せと感じられるようになれたらと思う。
激動の人生、長い暗闇があったけど自らの手で光の世界へ進んだ。過去は過去、これからやりたいことがいっぱいある。
"見えない"彼女の世界は鮮やかな色で満たされているのだろう。


出典:『とわの庭』小川糸
    新潮社

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